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キレイな人──第177話
「──こんなの!! こんなのッ……なんの意味もないじゃないか……ッ」
7年という、決して短くはない歳月の中で、行き場を失いドロドロと渦巻いていた想いが荒れ狂う。
波が。水が。嵐が。
腐食しつつあった堤防という名の限界を、ついに越えてしまった。
「ズルい、ズルい! あの女、あの女……あの女!!」
止められない。
細くて愛しい橘の首を絞める。今この場で、へし折ってしまえたら。
「僕は理由がなければ君に触れられないのに、君に、言うこともできないのに、あの女は簡単に、君に触れられるっ! 友達? 友達!? 誰がなるかそんなもの!」
もういっそのこと、全てをぶつけて楽になりたい。
「憎いっ……君が、憎いよ……心の底から憎くて憎くて、たまらないッ! 苦しめよ、僕に苦しめ……死ぬまで苦しめ、いっそ死ねよ、死ね……死ねよっ死んでしまえっ、死ねばいい!」
いつだって、僕の感情を昂ぶらせる相手は君だけなのに。
「君の爪先から頭の先までぜんぶ僕のだ! 君は僕のだ、僕のモノなのにッ……!」
君はあの女のことを一途に想っているだなんて、赦せない。ゆるせないゆるせない、ゆるせない。
橘──お願いだから僕を見て。
そうじゃないと僕は、もう……君に何をしてしまうのか、自分でもわからないんだ。
「僕のものにならないのなら──今この場で君を殺してやる!」
──ついに、言ってしまった。
抑えて抑えて、がむしゃらに抑えてきた獣の檻を開け放ってしまった。
「それが、おまえの本音かよ……」
そうだよ。
「ずっとずっと、それを、隠してたのかよ」
そうだよ、隠してきたんだよ。
飛び出してしまった獣はもう檻には戻れない。
だからもう、無理だったんだよ。
「君に、出会ったせいで僕は……おかしくなった。僕はこんな人間じゃ、なかったのに。君のせいでめちゃくちゃだ……僕だって、戻れるものなら戻りたいよ……君を知らなかったあの頃に。だって、どんどん、おかしくなるんだ。嫌いだよ、君なんか。図々しくて無神経で、頭も悪い。考え足らずで、軽々しく人の心を踏み荒らす。僕の嫌いなところが全部詰まってる人間なのに……なのに、どうして」
人前で、こんな醜態を晒している今ですら。
「君しか、見えない……!」
橘の肩に、項垂れる。
「君がいる限り、僕は……希望を、捨てきれない……! 君が、僕が零してしまった感情を、いつか拾ってくれるんじゃないかって」
橘の肩が湿り始めた。どうしてだ。
「どうしてもそう願わずには、いられない……っ」
これでもう、何もかもが終わりだな。
橘に気持ちがバレた今、僕は彼に見捨てられ、一生彼に憎まれ続けることになるのだろう。待ち望んでいた夢の同棲生活も幻に消える、全てが水の泡だ。
僕の想いは死ぬまで彼には届かない、そう覚悟していた。
それなのに。
「……っとに、おまえ、歪すぎだろ……」
肩に触れてきた生暖かな体温に、びくりとする。
「ばぁか、なんでおまえがびびってんだよ」
髪を撫でられ、おそるおそる顔を上げる。今、僕の頭を撫でているのは誰だ──橘?
しかも、垂れた髪を耳にかけられた。
「泣き虫。おまえ俺の前で、泣いてばっかじゃん……」
呆然と指で頬を拭うと、確かに指先に水滴が付着していた。ああそうか、僕は泣いているのか。
「おまえ、爪割れてる……また噛んじまったのか?」
そっと手を取られ、頬ごと包み込まれた。
どうしてだろう、橘の手つきが優しい。
「……なぁ、俺がこういう服着てんの、おまえのためだって知ってるか?」
ついに気が狂ったのかと思った。僕の頭が。
「髪を染めたのだって、おまえの傍にいたかったからなんだぜ」
自分に都合のいい幻聴を、聞いているんじゃないかって。
「あーあ……あーあ! どうしよ、俺、変なんかな」
なにを。
「どう考えたっておまえ、ヤべぇ奴なのにさ」
なにを言ってるんだろうか、橘は。
「うれしい」
いよいよ幻覚も見え始めた。
狂う狂うとは思っていたけれど、僕はついに狂ってしまったらしい。
だって橘が僕を見ている──しかも、笑っている。7年前、階段下から手を伸ばしてくれた時と寸分違わない、うっとりとした顔で僕を見上げている。
僕だけ、を。
「すっげぇ、うれしいや……」
橘の顔が近づいてきて、目尻をちゅっと啄まれた。ぽかんとする。
「はは……あま」
胸に空いた穴が、塞がれていく。
その瞬間、荒れ狂っていた僕の頭上に、どこまでも澄み渡る青空が見えた。
「おまえってやっぱり、すっげぇ、キレ──……」
ドンッと、何かが持ち上がる大きな音。地面が揺れた。瞬時に視線をそちらへ向ける。
──赤いトラック、いやタンクローリーが、僕らに向かって突進してくるのも見えた。
恐怖はなかった。
ただただ怒りと嫉妬があった。
憎悪さえも抱いた。赦せないと思った。
一体、誰の許可を経て橘に襲いかかろうとしているのかと。
だって、橘の全ては僕のものであるべきだ。
橘の身体をぐちゃぐちゃに壊していいのも、生かしていいのも殺していいのも、僕だけだ。
あんなモノに橘の命が奪われる? 冗談じゃない、笑わせるな。
橘の心臓の鼓動を止めるのは、あの死にかけた白髪の年寄り運転手じゃない。
今まさに突っ込んでこようとしている赤い鉄の塊でもない。
僕なんだよ。
ぼくだけ、なんだよ。
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