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透愛と樹李──第188話

 相手は病人だから、そっと。  姫宮の手を取り、ベッドに片足で乗り上げる形で腰を下ろす。姫宮が、俺を見上げている。  きゅっと手を握られた。この感覚で確信する。  ──やっぱり、7年前の病室で、俺の手を握ったのはこいつだったんだな。 「……爪、やっぱり割れてんなぁ」  今の姫宮の手はあの頃よりも随分と大きくなっていて、青年らしく骨ばっていた。あと、少しだけかさかさしている。ひび割れた親指の爪を、指で撫でてみる。 「もう、噛むなよ?」 「うん……」  こくんと頷きつつも、まだまだ信じ切れてなさそうなバカのために、その胸にそっと手を置いてみた。患者衣越しの肌は、温かかい。 「……はは、ボロボロだな、おまえ」 「君だって、そうだ」 「おまえほどじゃねーよ……青痣、酷えな。美人が台無し」 「橘」 「ん?」 「痛かった、か?」 「それはおまえだろ? 悪かったな、思いっきりブン殴っちまってさ」 「違う。僕を殴って、君は痛かったか」  声を、一瞬失った。 「……痛かったよ」  小さく、笑う。 「すっげぇ、痛かった」 「そうか」  姫宮の目が、揺れた。 「──ごめん」  二度目の姫宮の謝罪は、胸に染みた。  手のひらから伝わってくる、等間隔な音。とくんとくんと、俺にとっての唯一の心臓が、確かな鼓動を刻んでいる。   「……そーだ、反省しろばか。手加減せずに殴りやがってさ」 「手加減したら、君は怒るだろう?」 「へえ、わかってんじゃん」 「……君は結構、腕力があったんだな」 「ま、透貴の弟だからなァ。俺も誰かのこと殴ったの初めてだったけど、あそこまで綺麗に入るとは思ってなかった。おまえのカウンターもそこそこだったぜ?」  軽口を叩いていた口を閉ざし、姫宮の胸に強く額を押し付けた。 「……死んじまったかと、思った」  震える肩に、そっと手を添えられた。余計に、俺も顔を上げられなくなった。  鼻の奥が痛くて。 「おまえ、血ィいっぱい出るし、どんどん冷たくなってって……マジで、肝冷えたんだからな……バカ樹李」  姫宮の手の温度も今ではしっかりと人肌だ。俺だって、こうして触れるまでどこか夢うつつだった。実際に姫宮に触ったら、泡みたいに消えちまうんじゃないかって。  もう二度と、こうして話せなくなるんじゃないかって。  血だらけの姫宮を見た瞬間、この世のありとあらゆる色が白と黒に落ちた。  もうあんな、世界が終わるような思いはしたくない。 「僕、は」 「うん」 「ずっと……ずっと、君に、名前で呼んで、ほしくて」 「うん」 「どうやったら君は、僕を見てくれるんだろうと、思っていて」 「……うん」 「いつもいつも、君の周りに誰かが集まるのが、嫌で嫌で仕方がなくて」 「ああ」 「だから、僕が死んだら、君を連れて逝こうと思っていたんだ……」  うーん。義隆さん、こっちもやっぱり大正解。 「僕のいない世界で、君が僕以外の誰かと触れ合うだなんて想像しただけで吐き気がして……君の魂だって、空気に溶かしたくないのに……」 「ホラーだなぁ」  今度は綾瀬でも見知らぬ誰かでも瀬戸でもなく、俺が言った。  これを本気で言ってるんだもんな、こいつ。ドラマの俺様男も真っ青だ。 「ホラーか……そうだね。君が存在する限り、僕はこれからも頭がおかしいままだ。君への想いなんてこの身一つじゃ足りないよ」  けれども、耳朶に直接落とされるその切々とした語りには。 「僕の目に映る世界はいつもモノクロで……でも君が傍にいてくれるだけで、全て色鮮やかになるんだ」  姫宮の7年ぶんの想いが、ひとつ残らず詰まっている気がした。   「……それ、もっと早く言えよな」 「言えるわけがないだろう。僕は君に嫌われていると思っていたんだ」 「それはおまえの方だろ、俺のこと大嫌いって言ってたくせに」 「それは……」 「先に、顔も見たくない、二度と話しかけてくんなって言ったのそっちだかんな? あーあ、繊細な俺のガラスのハートがあん時どんだけ傷付いたか、おまえ知らねーだろ」 「君が、繊細……?」 「……なんだよ、文句あんのか?」  顔を上げる。 「こっちはおまえのわけわかんねぇ行動のせいでさんっざん振り回されたんだからな、ちょっとは反省しろっ」  相手が病人だということも忘れて、ついつい声を張り上げてしまった。  つられてか、姫宮もむっと眉間にシワを寄せた。 「仕方ないじゃないか。あの時はまだ僕も、自分の気持ちに気づいてなかったんだから」 「いや言えよ、あれから何年経ったと思ってんだ、7年だぞ? 7年っ、おまえ俺と話す時いっつも不機嫌そうだったじゃん。俺の行動全てが不愉快ですって、今みたいに眉間にシワ寄せてさァ」 「……気持ちがバレて、君に拒絶されるのが怖かったんだ」 「なんだよ、俺のこと好きって態度じゃ全然なかったくせに」 「それは君もじゃないか。それに正直言うと……気づいてくれなかった君もどうかと思うよ」 「は? 逆ギレかよてめぇ、やんのか?」  どんどん声が低くなる。姫宮はいま臥せっているので、暴れるのは俺の方に利がある。もう一回タコ殴りにしてやろうかな。そんな卑怯な真似はしないけど。 「逆ギレじゃない、事実だ」 「わかるかっ、おまえ俺のこと、注意力散漫とか無神経とか不快とかバカとかカスとか言いたい放題だったじゃん!」 「カスは言っていない」 「他は言った!」 「……」 「俺の頭の中お花畑だとも言ってた」 「……」 「能天気もゆってたかんな?」 「……」 「覚えてねぇとは言わせねぇぞ……?」  ジト目で睨む。俺ですら覚えているのだ。頭のいいこいつが忘れているわけがない。

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