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透愛と樹李──第195話

「ったく、さっきから聞いてりゃぐちぐちと……」  前髪をかき上げながら起き上がる。  つられて姫宮が上体を起こす前に、姫宮の顔の横に手をついて腿の上にのし上がった。 「……たちば」  な、と続く前に、分からず屋の唇に噛みついてやる。 「──ん……っ」  自分から姫宮にキスをするなんて初めてのことだったので、勢いあまって歯がぶつかってしまった。  姫宮が「うぐ」と痛そうに唸った。  見事に失敗してしまったけれど、それは別にいい。  この想いが伝わればいいのだから。  重ねただけの唇は、消毒液の他にちょっとだけ定食のBセットの味がした。  ビーフシチューの風味は、昨日の姫宮の昼食だろう。当たり前だがこいつずっと寝っぱなしで、歯も磨いていない。  けれども全く嫌ではない。  他でもない姫宮の唇だからだろう。  ゆっくりと、唇を離す。  ついでに、涙の痕が残るきめの細かい頬にも吸いついてみた。 「はは……やっぱ甘ぇや」  やっぱり、シーツに流れてしまうのがもったいないと思ってしまうのだ。  涙なんて、しょっぱいだけで甘味なんて感じないと思ってたのになぁ。  そういや、どっかで聞いたことがある。  ほんのりと甘く感じる涙は喜びから溢れる涙なのだと。で、悲しみはほろ苦くて……あれ、違うっけ、どっちも甘くて水っぽいんだっけ。確か副交感しんけーがどうたらこうたらって。  ──まぁいいか、自分の感覚を信じよう。  甘いってことは、幸せだってことだ、きっと。 「いいか? 耳の穴かっぽじってよく聞けよ……そりゃ、おまえとは考え方とかはあわねぇよ。でもそれでお互いに傷ついたら、こうやってちゃんと話し合えばいーじゃん。これからはそれができるんだから」  唇が触れ合いそうな距離のまま、囁く。 「俺は、おまえがいい」  目を丸くした姫宮に、畳みかける。 「俺は、性格が悪くて、ぜんっぜんお姫さまじゃなくて、どうしようもなく性根のねじ曲がったおまえがいい。そんなありのままのおまえが……姫宮樹李っていう男が、好きだ」  本来ならあったかもしれない未来を思い描く期間は、とうに過ぎた。だってもう俺は……俺たちは。 「しょーがねぇじゃん。俺らもう出会っちまったんだからさ」  出会った瞬間から、未来はもう決まっていた。 「過去に戻ることは、できねぇよ。でもさ、どんなに時間かかっても、やり直すことはできるだろ」  今から口にすることにもはや情緒もクソもないが、こういうのは勢いだ。 「だから、いい加減に観念しろ。俺はもう腹括ってんだぞ、おまえとやってくってな。俺はおまえを選んだ、だからおまえも四の五の言わずに俺を選べ。いいから黙って……」  大きく、息を吸いこむ。   「──黙って、俺のもんになれ!」  姫宮の真っ黒だった虹彩に、光の筋が差し込んだように見えた。 「わかったか?」 「……」 「おい聞いてんのかよ、返事っ」 「え? あ、ああ……」  ぱちぱちと瞬きを繰り返した姫宮が、こくりとひとつ、頷いた。 「わ、わかった……君のものに、なる、よ」 「──よし。それでいいんだよそれで。小難しいこと考えんな、なるようになれだろ? それにおまえみたいな面倒臭い男、相手にできんの俺だけだと思うぜ?」  そこは自信を持って言える。  こいつは俺以外はたぶんダメだ……俺だってダメだけど。 「好きなだけ俺に恋してろよ。俺だって伊達に7年間おまえに片想いしてたわけじゃねぇんだかんな……俺の恋心、のし付けておまえに返してやる!」  むんっと胸を張り、びしっと姫宮を指さす。  けれども姫宮はなんともいえない表情のままだ。呆けているというか、なんというか。 「ひ……」 「ひ?」 「……人を、指でささない方がいいよ」 「やっぱジョウチョねぇのおまえの方だわ」 「それに、熨斗を、付けて返すというのは、そういう意味では、使われないと思うんだけれど……」 「え、違うの?」 「うん。どちらかというと、否定的な意味で……皮肉、というか」 「ええ!? マジかよっ」 「……ふ」 「ふ?」  きょとんとした後は、俺がびっくりする番だった。 「ふ、は……あは、はは……っ」  姫宮の眦がシワになるくらい緩んで、口の端が耐えきれないとばかりに震えて、開いている。  ──姫宮が、おかしそうに、笑っている。 「マジ、だよ、ふ、普通言わないよ……も、う……君って……は、ははっ……」  これには俺の方が呆けてしまった。  へえ、こいつってこんな顔で爆笑するんだ、初めて見た。  いやまぁ、爆笑っていうには控えめだけど。でも外面用の胡散臭いニコニコ笑顔とは全然違うし、いつもの冷笑とも程遠い。  どこか品があって、それでいて予想以上にシワが多くて、顔全体がくしゃっとなっている。  笑うことに慣れていない、笑い方に見えた。  変な顔で笑うねって、周囲からは言われてしまうかもしれない。  でも俺には、嘘偽りのない、こいつの心からの笑顔に見えた。  俺が、ずっとずっと、見てみたかったものだ。  きゅうっと胸が絞られ、甘い痛みに優しく包まれる。あれ、なんだこれ。キラキラした姫宮の顔から目が離せない。だって、だって俺以外、こいつのこんな顔は見たことがないんだろうなと思ったら……なんだろう。  とにかくこいつの笑みを網膜に焼き付けたくてたまらなくなった。  ──これからも、誰にも見せたくない。  こいつの笑った顔を知っているのは俺だけでいい。本気で、そう思った。  自分自身の思考回路に、驚く。  あれ、俺ってこんなに、独占欲の強い奴だったっけって。

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