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ふたつの嵐──第221話
「お願い、たちばな。僕を捨てないで……僕から離れないで、逃げないで、抵抗しないで」
姫宮の顔が、歪んだ。うなじに食い込んでいた手が離れていく。首を解放され、今度は二の腕に縋られた。姫宮が、俺の胸に重く項垂れる。
「僕は……君の可愛い目も、可愛い喉も潰したくない。君の可愛い両脚も折りたくない。でも……でも僕は、カッとなってしまうから。そんな時、自分でも何をしてしまうのかがわからないから」
緩く肩を震わせた姫宮が、そう吐き捨てた。苦く、笑ったのかもしれない。
「──今も少し、飛びかけたしね……はは」
ぎゅっと、二の腕を掴んだ手に力がこめられる。
こいつは猛獣だ。
鋭い牙を持つ獣だ。
「僕は……僕自身が、時折、おそろしくてたまらなくなるんだ……渇いた僕の世界に、君という水がきた、あの日から……」
こいつは、無垢な猛獣だ。
自身の鋭い牙の存在を忘れて、俺に噛みついて狂ってしまった獣だ。
死ぬまで俺しか見えない。死ぬまで俺しか知れない。ただ真っ直ぐに、周囲を見ることすら最初から切り捨てて、俺だけを求めてしまう。
心が生まれた瞬間に、始めて視界にいれた俺という存在を、盲目的に慕う雛のように。
穢れを知らぬ、赤ん坊のように。
俺に対してだけは、何よりも誰よりも誠実で──いっそ純真ささえ、感じられるほどに。
「橘、なにか言って……僕が、怖いよね」
姫宮はきっと、この世で一番、素直な生き物なのだろう。
そう思えてしまうのはどうしてか。惚れた欲目か、すでにこいつと身体の関係があるからか。夫だからか、番だからか……いや、全部違う。
姫宮だからだ。
こいつが姫宮って苗字の、男だからだ。
樹李って名前の、青年だからだ。
ひめみや じゅり っていう……人間だからだ。
普通、こういう時ってなんて答えるんだろう。「怖くなんてないわ。貴方は誰よりも優しい人よ」とかなんとか、聖母のごとく相手を包み込んで答えてやるのが正解なのだろうか。
きっと姫宮もそれを望んでいる。
でもこいつは、決して優しい男ではない。お世辞でもそんなことはいえない。言うつもりもない。
だってむしろ、こいつは。
「ああ……おぞましいな、おまえ」
姫宮の肩がびくりと震えた。
俺の胸で、姫宮が唇を噛み締めている気配がする。
そういや、こいつが目覚めた時同じことを聞かれたな。「怖い」と即答できなかったのはこれが理由だったんだ。
やっと今、言葉にしてやれる。
『──おぞましい男だろう? 我が息子ながら』
そうだよ、俺は7年前の学校の階段で、苛烈な生を剥き出しにした姫宮が酷く眩しかった。
何度だって君を守りにいくよ、ではなく。何度だって君を探して犯しにいくよ、と。そんな恐ろしいことを言えてしまう姫宮のことが、俺は。
『どう思う? 透愛くん。それでも君は、あの子のことを……』
姫宮の、この震えるような激情そのものが。
こいつの、歪さそのものが。
「──おぞましくって、最高にキレイだ……」
死ぬほどキレイだと、思ったんだ。
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