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第9話

「す、すみません。僕、このあと用事が……」 時雨が申し訳なさそうな小さな声で沈黙を破ると、校長はにっこり笑って頷いた。 「長く引き止めて悪かったね。今日の君に落ち度は何一つなかったよ。今後も学問に精を出し、学生生活を謳歌してください」 帰って良いと送り出してくれる校長に時雨は一礼すると、まだ固まって微動だにしない圭をチラリと盗み見たあと、足早に部屋から出ていった。 学校の門を出て、時雨は息を切らせながら一駅分走り切ると、趣のある喫茶店の扉を開いた。 「すみません!遅くなりました!」 ゼイゼイ息を切らせながら店の中へ入ると、白髪の老人が優しい笑顔で時雨を迎えた。 「こんにちは、時雨君。今日も暇だから大丈夫、大丈夫」 カウンターで佇む老人はこの喫茶店のオーナー、潮見 裕(しおみ ゆう)。そして、店の中には毎日コーヒーを飲みにやってくる、石塚(いしづか)、花形(はながた)、柿下(かきもと)の常連客の三人がいた。 皆、潮見オーナーの古くからの友人で、時雨とも顔見知りだ。 「時雨君、おめでとう!主席だっんだろう?」 「そうじゃ、そうじゃ!めでたいなぁ〜」 「こっちにおいで、今日は君を祝いたくて来たんじゃ!」 70歳を過ぎるオーナーと同い年の三人の老人達は時雨を孫のように可愛がっていた。 時雨は中学一年の時からこの喫茶店でアルバイトをさせて貰っている。 実家は名家で金持ちではあったが、時雨がオメガと分かった途端、天海家を追放されたのだった。 お金もなければ勿論、行くあてもなく今日食べるご飯にも困り果てて路地裏に座り込んでいたところを潮見に拾われた。 静観で小洒落た街の片隅にポツンと時代遅れのような趣のある小さな喫茶店を営んでいる潮見は時雨から事情を聞くと、あまりの境遇を哀れみ、食事を提供した。 潮見が簡単なピラフを振舞うと、美味しいと必死に食べる幼い姿に庇護欲を掻き立てられた。 なんならと、住む場所も与えようと申し出たが、時雨は迷惑になると頑なに首を縦に振らなかった。 だからといって放り出す事も出来ず、潮見はこの喫茶店の手伝いを頼むことにした。 報酬は衣食住の保証。 住む場所はこの喫茶店の常連で潮見と古くから付き合いのある不動産会社を営む石塚が用意した。 この喫茶店から徒歩5分以内にあるセキュリティがしっかりした二階建てのアパートだった。 時雨は2階の角部屋の1LDKに住むこととなった。 とても綺麗で整った設備の為、時雨は恐縮したが、潮見がこれからこき使うと脅しに脅した為、時雨はそれならばと覚悟を決めて契約した。 のだが、潮見の脅しの通りになることはなかった。 喫茶店へは毎日昼過ぎから潮見の友人である、石塚と花形、そして柿本の三人しか来なかった。 各々、コーヒーを飲みながら本を読んだり、ラジオを聴いたり、物思いに更けたりしていて、ゆったりと過ごしている。たまに4人で固まっては談笑をするだけで、覚悟していた激務は一度も起こることはなかった。 それどころか、4人に孫のように可愛がられ、勉強を見て貰ったり、お小遣いを貰ったり、はたまた休みの日は一緒に遊びにまで連れ出して貰っていた。 血の繋がりがある親にすら捨てられたのに、赤の他人の自分をこの様に可愛がってくれる4人に時雨は頭が上がらない。 そんな4人に報いたいと必死に勉強をし、時雨はせせらぎ学園の特待生枠を勝ち取った。 特待生になると学費免除は勿論、衣食住に加えてお小遣いまで保証されたのだ。

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