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38 怒れよ

「あの……違うんです……」 「何がだよ」    苛立ちを隠せず声を荒らげ、また強気の俺が顔を出す。  終わりにしようと思った矢先にこれだ。それも、そう振る舞うだけじゃなく、本気で苛立つのは久しぶりだった。  月森が両手で顔を覆い、深く息をついた。   「俺いま……自己嫌悪でいっぱいで……」 「自己嫌悪?」 「ほんと……自分が嫌で……。こんなの……先輩に知られたくない……」 「は?」    やっと話す気になったのかと思えば、知られたくないとか抜かしやがる。  俺の言葉が全然伝わってねぇんだな。 「俺は重いっつっただろっ?」  つい声が大きくなった。 「……っ、せ、先輩ここ会社……っ」    慌てて顔を上げ、廊下を振り返ろうとする月森のネクタイをつかんで引き寄せる。   「せ、せんぱ……っ」   さらに慌てる月森の耳元に、はっきりと伝える。 「俺はお前に捨てられてもしつこく追いかけるくらい重いんだよ。なに聞かされたって、ただ好きがあふれるだけだ」 「……っ」  月森の顔がみるまに赤くなり、血色がよくなった。 「お前より俺のが絶対重くてうぜぇんだ。わかったか?」  よれたネクタイを直しながら言うと、月森はコクコクと可愛く頷く。 「ああでも、一つだけ例外がある」 「れ、例外?」  これだけは百年の恋も一瞬で冷める自信がある。 「犯罪だけは無理」  さすがにそこまで盲目にはなれない。 「な……ないですないです! 絶対ないですよ!」 「ま、だろうな。月森だもんな」  犯罪から一番遠いところにいる男だよな。  傍から見れば、俺のほうが犯罪臭が漂っているだろう。 「で? 俺に知られたくないほどの何があったんだよ」 「……っ」  また顔をゆがめてうつむこうとする月森を、俺は下から覗き込んだ。 「さっきのでわかっただろ? いいから安心して話せって」  これだけ言ってもまだ月森は迷う。  大丈夫だって言ってんのに。  月森の唇が言いづらそうにぎゅっと結ばれているのを見て、無性にキスがしたくなった。  ……くそ。会社でもどこでも唇うばってやるぞ、このやろう。 「あの……」  しばらく待って、やっと月森が口を開いた。 「うん」 「話す前に……謝ってもいいですか……?」 「なんだよ、俺に謝るようなことなのか?」 「そ……ですね」 「ふん。会社だししゃーねーな。じゃ、カウント一回な」 「カウント……」  どうしてカウントをとるのかと不思議そうに俺を見るから、意地悪な笑みを返した。 「家に帰ったらしてもらうからな。『ごめん』の代わり」 「……ぇっ」  また頬に紅がさし血色がよくなる月森に吹き出しそうになった。  ごめんの代わりがなくても絶対キスするだろ。今朝もしつこいくらいした男とは到底思えない。 「ごめん」が本当は心臓に悪くないなんて、今はまだ教えてやらない。  俺は月森と四六時中キスしていたい。  何年も自分を押さえ込んでいた反動なのか、俺は今、とにかく恋に溺れて完全に浮かれている。そんな自分が好きだと思える。  こんな気持ちになれるなんて、本当に記憶喪失に感謝だ。 「で? 何があった?」 「……ごめんなさい、先輩」 「うん。で?」  先をうながすと、月森は深いため息とともに消え入りそうな声を出した。 「……俺限定じゃ……なかったんだなって……思っちゃったんです……」 「……あ?」    俺限定?  なんのことだ?   「本当にごめんなさい……先輩……。俺ごときが生意気に……」    そう言って、また両手で顔を覆う。  俺ごときってなんだよ。  月森は、ここが職場だということを気にしながら、声を落として先を続けた。 「先輩が……職場でも穏やかでいられるようになったんだなって……今朝は嬉しかったんです。本当に……嬉しかったのに……」    そこまで聞いてピンと来た。  俺限定って、もしかしてさっきチームリーダーが言ったあれか?  そうか。月森が「俺限定……」とつぶやいて喜んでいたあれだ。   「でも……笑顔だけは……俺限定なのかなって……すごい勘違いを……」  手で顔を覆っているのにまだ隠そうとするかのように、月森がぐっと顔をうつむける。 「……林さんに……笑いかけてる先輩を見て……勝手に落ち込んじゃったんです……ごめんなさい」    最後のほうは声がしりすぼみで、月森の言葉は小さく消えていった。  本当にこいつは俺をわかってねぇな。  俺に知られたくないだの、ごめんなさいだの、俺ごときだの、ほんと何もわかってねぇ。 「月森」 「……は、い」 「顔上げろ」 「……っ」  月森がそろそろと手を下ろし、ゆっくりと顔を上げて俺を見た。  その目をじっと見つめ返すと、月森は目を瞬いてポカンとする。  それはそうだろう。俺の顔は今、緩みっぱなしで締まりがない。あんな可愛い話を聞かされたら仕方ないだろ?  月森が謝る意味が全くわからない。 「ちょっと来い」 「え……ど、どこに……」  俺は月森に背を向けて歩きながら右手を軽く持ち上げ、指先だけを動かして、ちょいっと手招きをした。  昼休憩はあと五分。  俺は使われる予定のない会議室に月森を引っ張り込んだ。   「んで? ほんとのこと言ってみろ月森」  会議室の隅の壁に月森を押し付け、最大限に顔を近づける。  たじたじになる月森を見て、俺は楽しんだ。 「え……っと、ほんとのこと……って?」 「さっき、落ち込んだっつただろ?」 「はい……」 「ほんとに落ち込んだだけか?」 「え……?」 「ほんとは『なんで俺限定じゃねぇんだよ、クソが』って思ったろ?」 「えっ、お、思ってませんっ、そんな事っ」 「嘘だな。思ったろ。ちょっとはイラッとしたろ? 怒ったろ?」 「ほ、ほんとに思ってませんっ。怒ってませんっ。俺ごときがそんな……っ」  ほんとわかってねぇ。 「怒れよ」 「え……?」 「それ嫉妬だろ? 嫉妬ってそんな静かなもんじゃねぇだろ。もっとここんとこ、ぐちゃぐちゃじゃねぇ?」  と、月森の胸を叩くと、月森が顔をゆがめて目を伏せた。 「……ぐちゃぐちゃ……ですよ」 「怒ってるだろ?」 「……落ち込んでます」 「だから、そんな優しいのはいらねぇから怒れよ。俺はもうお前のものなんだからさ。俺以外に笑顔見せんな! くらい言えって」  俺よりも重いお前を見せてくれ。 「もし……俺が怒ったら……?」 「そんなの、最高じゃん」 「……最高?」 「最高だ」  俺はお前に束縛されたいんだ。  月森が、ホッとしたように表情を緩め、俺の頬に触れた。 「……先輩」 「うん」 「……俺以外の人に……あんまり笑わないでください……。先輩の笑顔は、俺のご褒美なんです……」  なんだよ、怒れっつったのに。……っとに優しいな。  でもそれが月森らしくて、また顔が緩む。ご褒美ってなんだよ。そんなご褒美、いくらでもくれてやる。  月森は本当に俺よりも重いかもしれない。そう感じるたびに幸福感で満たされ、愛おしさが倍増する。  俺は月森に、完全に溺れてる。 「もう、お前以外には笑わねぇ」 「あの……でも、ほどほどでいいので……」 「なんでだよ。お前限定にしてやるっつってんだ。喜べよ」 「それは……もちろん、嬉しいです」 「だろ?」 「……はい」  また血色のよくなった月森に、俺は自然と微笑んだ。 「あ……もうすぐ時間ですね」  そう言って会議室を出ようとする月森を再び壁に拘束し、ネクタイを引っ張り唇を奪ってやった。  一瞬固まった月森も、すぐに目尻を下げて舌を絡めてくる。  午後の始業の鐘が鳴るまで、俺たちは笑いながらキスをし続けた。    

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