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夜のボーイと酔っ払い
1 夜のボーイと酔っ払い
明け方のこの街は、思わず鼻を覆ってしまいたくなるような臭いがする。
けれど、海はこのゴミと香水と欲望が混ざり合った不思議な臭いがそう嫌いではなかった。
好きかと言われると鼻を摘まんで首を振るほかないけれど、慣れた空気はもう海の日常の一部で、好きとか嫌いとかの話ではないのだ。
黒い不織布のマスクを外して、思い切り深呼吸をしても、最初の頃のように込み上げる嘔吐感を無理に押し下げる必要もない。
「海ぃ~また今夜ね」
「俺、今夜は違う店」
「あら、そうなの? じゃあ、これから飲みに行く?」
「由美さんもうベロベロじゃん。気をつけて帰りな~」
「も~まだまだ飲めるわよぅ。そうやっていつも付き合ってくれないんだから」
はいはい。と適当に相槌を打って、タクシーのドアを開ける。
一つ、また一つとネオンの明かりが朝日に消えてなくなる頃。夜の終わり、太陽が昇り始めたらようやく仕事が終わる時間だ。
ギラギラと目に痛い照明を落とし、酒の臭いが充満した店内を換気しながら掃除する。足下のおぼつかない嬢達を煌びやかなドレスのままタクシーに押し込むまでが、ボーイである海の仕事だった。
白いシャツに黒いベストとスラックス、蝶ネクタイは店規定の制服だ。私服に着替え、自身も店を後にする。
この店では、制服は二週に一度クリーニングに出して良いことになっていて、複数の店を掛け持ちして働く海にとってはありがたい福利厚生だった。
私服なら多少洗いざらしたものでも良いだろうけれど、いくら店内の照明が暗いと言ったって一応は接客業。シャツにはピンと糊がきいていた方が客受けも良かったし、店で働く女の子達にも不快感は与えず、余計な摩擦も起きない。
朝晩は、随分と冷え込む季節になった。
迷った末に薄手のパーカー一枚で出てきたのは失敗だったな、と思いながら天を仰ぐ。
伸びっぱなしの襟足ごと、いつから鞄に入れたままだったかもわからないくたびれたマフラーに首を押し込めると、いくらか温もりを得ることが出来た。
今年で二十四になった海が、この歓楽街で働き始めてもう六年ほどになる。
海のこれまでの人生は、言葉をどう取り繕おうとしても、良いものとは言えなかった。
居心地の悪い家、居心地の悪い学校生活。日常生活の中で、どこにも海の居場所はない。
それでも、なんとか高校を卒業するまで耐えたのは、両親亡き後、引き取り育ててくれた叔父へのせめてもの恩返しであり、家を出たのもまた、唯一良くしてくれた叔父をこれ以上困らせないためだった。
家を出て、この土地で働くことを決めたのは純粋にお金が必要だったからだ。
叔父はせめてもと金銭的な援助を申し出てくれたが、それもきっぱりと断っている。書類のうえではなにかしらの繋がりがあるかもしれないけれど、海の中での縁はとうに切れて身内はいないものとして生きている。
生きていくためにはお金がいる。
それは、多ければ多い方が良い。
だから、海はキャバクラや風俗など何軒もの店を掛け持ちして、眠る以外の時間をすべてお金に換えている。
夜の仕事は、身一つで何も持たない海でもそれなりに稼げるありがたい世界だ。
海の職業を聞いて、眉を顰める人もいるだろう。
けれど、幸い、海にはそれを尋ねるような近しい人もいなければ、知られて迷惑をかけるような家族ももういない。
夜に生きる仲間は皆、刹那の繋がりを求めるだけで深く干渉しないのが、他人と距離を置きたい海にとってひどく心地がよかった。
大人しかった黒髪は、この街へ来た日に一番明るい金色に染めた。
ドラッグストアで買った安い染色剤は艶やかだった黒髪を一瞬にして軋ませたけれど、その明るさが不安でいっぱいだった海の心を少しだけ明るくしてくれたような気もして、それ以降、気まぐれに同じ色に染め続けている。
ただ染めるばかりで手入れの行き届いていない毛先は色が抜け傷み、数ヶ月に一度自分ではさみを入れるだけの襟足は伸びてちくちくと首筋をいじめるけれど、仕事中は結んでしまうし、そうすればさほど気にもならないので、きっとあと一ヶ月はこのままだろう。
(今夜はアキさんとこに寄ってから、にゃんにゃんソープでラストまで……)
スマートフォンの画面を開き、簡単にスケジュールだけを確認する。というよりも、それくらいしかすることがない。
丸一日確認をしなくても、メッセージの一つも来ていないのはいつものことだ。
アドレス帳には勤務先の店の電話番号がいくつかあるだけで、同僚の連絡先さえ一件も登録されていない。家族なんてもってのほかだ。
(今日はあんまり眠くないな。帰ったら久しぶりに酒でも作るか)
今日は土曜日。昨日よりは客足も落ち着くだろうから、睡眠時間が多少減ったとて問題はない。
「ん~……っ」
大きく伸びをする。向かいに見える朝日に眩しく目を細めながら首を大きく左右に捻ったとき、足の先が何かにぶつかって、つんと体が前のめる。
「うわっ……ぃってぇ、なんだよ!」
そのままコンクリートの上に倒れ、したたかに額を打ち付けた海は、痛む額を押さえながら転がる羽目になった原因を振り返った。
ゴミ袋の一つや二つ、転がっているのは珍しくない。
またどこぞの店が指定場所に出さなかったんだろうと恨めしく見ると、その黒い塊は予想に反してゴミ袋ではなかった。
でも、海は驚かない。
だって、この街では酔っ払いが落ちているのも日常茶飯事なのだから。
海に蹴られてごろんと転がったその塊は、黒いコートを着た男だった。
相当良い具合に酔いが回っているのか、海に蹴られてもびくともせず、こんな薄汚い街の真ん中でぐっすりと眠っている。
「おい、おーい。こんなところで寝るなって」
起きろ。と頬を何度か叩いてみるが、むっと眉間に皺が寄るだけで一向に起きる気配はない。
(いや、無防備すぎ)
こんな街、隙を見せたら一瞬で剥かれてしまうっていうのに。
見たところ、歳は海よりもいくつか上だろうか。少なくとも同い年には見えない男は、この場所に似つかわしくない良い身なりをしている。
毛玉一つない肌触りの良いコートはその艶を見ただけで高級品とわかるし、きっちりと整えられた黒髪は、前髪に少しの乱れはあるものの、それがかえって男の整った顔立ちを引き立たせていた。
凜々しすぎない眉、すっと通った鼻筋、唇は薄めで柔らかそう。
一言であらわすなら、彼は美形だった。
どこにでもいそうな平凡な顔立ちの、洗いすぎて色褪せよれたパーカーを着た自分とは、比べものにもならない。
「……失礼しますよ~っと」
海は、男の胸元にぺたぺたと手を当てた。ちょうど左の胸辺りに硬い感触を感じて、とりあえずは息を吐く。さらに人差し指でコートとジャケットの隙間を失礼し、黒革の財布の存在を確かめて、今度はさっきよりも深く息を吐いた。
貴重品を仕舞う場所は限られている。そして、こういう身なりをした男がどんなところに大事な物を入れているか、海は店に訪れる客の姿から学んでいた。
いつからここにいたのかは知らないが、身ぐるみ剥がされて裸で放置されていたっておかしくない。
それどころか、好色なやつらにいたずらをされていたって不思議ではないこの状況で、海に蹴飛ばされるだけで済んだこの男は、余程運が良いとしか言いようがなかった。
(中身が無傷でいるかは、知らないけど)
ただの通りすがりの海が、そこまで心配する必要はない。
あたりを窺ってみるけれど、男の連れらしき人影は見当たらなかった。
海は自分を善人だとはまったく思わないけれど、それでもこのまま放置して行くことが出来ないくらいには心がある。
「ちょっと、おーい。オニーサン、起きて起きて。こんなところで寝てたら悪い人に攫われちゃうよ」
取るもん取られてポイされちゃうよ。
男の前にしゃがみ込んだまま、つんつんと額に頬に鼻頭にあらゆるところを突いてみても、男は微動だにしない。
「……お姫様、起きないとチューしちゃいますよぉ」
内緒話をするように手を添えて、耳元で囁けばようやくピクリと瞼が震えた。
「おっ、やっと起きました? おはようございます、もう朝ですよ~。大丈夫? 気分悪い?」
「……」
薄らと徐々に開かれていく瞼の隙間から、綺麗な紫色がのぞいている。
海は宝石のことなんてよく知らないけれど、唯一名前だけ知っている紫色の宝石で例えるなら、アメジストってところだろうか。
海が宝石なんて似つかわしくもないロマンチストなたとえをしてしまうくらい、それは男の美しさに見合った綺麗な瞳だった。
ここが薄汚れた歓楽街の、汚い道の上ってことさえ一瞬忘れてしまいそうになる。
とろけたアメジストが、ゆっくりと瞬きを繰り返して、海を見つめる。ぼんやりとしたその様子は、寝ぼけているのか、それともまだ酒が残っているのか。
いずれにせよ、男が目を覚ましたなら海がすることはただ一つ。
べろべろに酔っ払った嬢と同じように、タクシーに突っ込むだけだ。
「お兄さん。あっちでタクシー拾ってあげるから、それ乗ってお家帰んな」
家がどこだかは知らないが、駅まで連れて行ったとて、このぼんやり具合で無事に家に帰れるとは思えない。
だったら、行き先を告げるだけでその場所まで連れて行ってくれる乗り物のほうが安全だ。
見たところ良い会社に勤めていそうだし、少しくらいタクシー代が嵩んだとしても払えないことはないだろう。
「通りまで手を貸すからさ」
はい。と手を差し出すと、海の手をじぃっと見つめた男は、ややあって緩慢な動きでぎゅっと海の手を握った。
あまりの冷たさに、海は飛び上がる。
「ひぃえっ……冷たっ!」
「あったかい……」
驚きに息を吸い込んだまま声が出たせいで、奇妙な音が出た。
「うわっ、寝ないで寝ないで! ほら……っ頑張って立って……!」
海の手を握ったまま、またうとうとと瞼を閉じそうになる男をなんとか立たせて、引きずるように大通りまで歩かせる。
何台かを見送り、ようやく空車のタクシーを捕まえる頃には、海はこの季節に似つかわしくないほどの汗をかいていた。
身長としてはたかだか五センチくらいの違いだろうが、体つき? 骨格? がひょろひょろの海と適度に筋肉のついた男とではまったく異なり、のし掛かられると重量感に潰れそうになる。
「はぁはぁ……やっと終わる。ほら、お兄さんこれ乗ったら帰れるから。住所言える?」
「ん……大丈夫」
グイグイと後部座席に自分よりも大きな体を押し込むと、男は多少呂律が回らないながらも運転手へしっかり住所を伝えられていた。
それは、ここから近くもないがそう遠くもない場所で、着いてからびっくりするような金額にはならないだろうと他人事ながら胸を撫で下ろす。
「そう、良かった。もうあんなところで寝ちゃだめだよ。危ないからね」
そう言って、海はタクシーから離れようとするけれど、どうもうまくいかない。
「……おーい。お兄さん、手離してくれる? 俺も帰りたいんだけど」
帰ったら久しぶりに酒でも、なんて思っていたけれど、この一件で疲れてしまって、もうそんな気分ではなくなっている。
一刻も早く、シャワーを浴びて一眠りしたい。
「ん、帰ろう」
「そうね、帰ろうね。だから手を離して欲しいな~」
指を一本一本離そうとしても、外すそばから握られてしまって埒があかない。
「ちょっと~オニーサン~? ふざけてないで早く離してくんないかな」
苛つきを隠さずに語気を荒めてみても酔っ払いには通用せず、握る手の力は一層強くなるばかりだ。
一向に決着しない問答に、運転手が迷惑そうな顔でこっちを見ている。
(迷惑なのはこっちなんだが……!)
「帰ろう」
そう手を引かれて、海はため息と共にしかたなく酔っ払いの隣に乗り込んだ。
「あったかい」
満足そうに海の手を握る男の手は、まだ冷たい。
「……帰りのタクシー代、出してくださいよ」
男からの返事はない。海の肩に頭を預けて、彼はさっさと眠ってしまった。
二人を乗せたタクシーがゆっくりと早朝の道を走り出す。
男の手に自分の温もりが移っていくのを感じながら、海は窓越しに移り変わる景色を見るともなしに眺めることしかできなかった。
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