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海と清皇
2 海と清皇
(タワマンの、しかも最上階とか嘘だろ……)
酔っ払いにも優しいゆったりとした速度でタクシーが止まったのは、都心の、それも駅近にあるタワーマンションの前だった。
それだけでも驚きだったのに、連れてこられたのは専用エレベーターでしかたどり着けない最上階フロア。いわゆるペントハウスというやつだ。
「……あ~あ」
覚束ない足取りの男を部屋の中に放り込み、タクシー代をいただいたらほなさいなら。とっとと帰るつもりが海はまだこのペントハウスの中にいて、なぜだかオープンキッチンのスツールでため息を吐いている。
海の手を離さず強引に連れ込んだ当の家主はといえば、帰りのタクシー代をくれる前に玄関で気絶するように眠ってしまったので、しかたなく寝室まで運んで、腹が立つくらいでかくてふかふかのベッドに転がしてやった。
おかしい。こんなはずじゃなかった。
タクシー代をもらったらさっさと自宅へ帰って、今頃は海だって薄いせんべい布団の中だったはず。
あそこであの男に躓きさえしなかったら、とつい数十分前の出来事を恨むけれど、結局はあの場で放っておけなかった自分のせいなので苦いまま飲み込むしかない。
自分に出会って男は幸運だっただろうが、海にとってはまったくついていないとしか言いようがなかった。
タクシー代を諦めて帰ろうかとも考えたけれど、海の今の所持金では電車であっても到底帰れる距離ではなく、大人しく男が起きるのを待つより方法はなさそうだ。
とはいえあの酔っ払い、いつ起きるかもわからない。
(見た目はそうでもなかったけど……あの様子じゃ相当酔ってたよなぁ)
数時間待って、どうしても起きないようならベッドから蹴り落としてでも起こせば良いか。
自分の出しゃばった行動が招いた結果とはいえ、こんなところで足止めを食って仕事を休むなんて以ての外だ。これくらいのことで、今日の稼ぎをなかったことには出来ない。
男が起きるまで手持ち無沙汰になった海は、好奇心のまま室内を見学させてもらうことにした。
こんな高級マンション、海の日常の中で訪れる機会はそうそうないのだから、少しばかりテンションが上がってしまうのは仕方ない。
少し? いや結構上がっているかも知れないが。
「……」
見て回って思ったことは、一つ一つの空間が広すぎる。ということだ。
海が借りている築四十五年のボロアパートの部屋なんか、きっとこの家の玄関にのみ込まれてしまうことだろう。
天井は高く、多方向にある窓は大きくて眺めが良い。昼はあたたかな日差しが気持ちよく、夜は眩いほどの夜景が眼下に広がるはずだ。
歓楽街の派手なネオンだって、ここから見ればうっとりとため息を吐くほど綺麗に見えてしまうかもしれない。
汚れることなんか考えてもいないだろう白いソファの前には大きなスクリーンがあって、これで映画なんか見たらそれだけで最高の気分なんだろうね、と自分には到底手の届かない生活に鼻白んで肩を竦める。
一通りうろうろと室内を歩き回って、結局はキッチンへ戻ってきた。他よりも狭い空間と、この小さな椅子が落ち着く(この小ささもおしゃれなんだろうけどさ)。
勝手な見学ツアーを終えた結果、ただただ圧倒されただけだった。
海の胸に残ったのは、憧れでも悔しさでもなく疲労感だけ。
「……あ~、暇だ」
椅子に腰掛けたまま、脚を投げ出し大きく仰け反る。
いつもなら、この時間は家事を済ませてシャワーでも浴びている頃。海の一日の中で、こうして何もしていない時間はほとんどなく、常に何か作業をして動き回っていた。
家事を終えるたびに感じる小さな達成感。それを積み重ねていけば余計なことを考えなくてよかったし、煩わしい感情だって持たずに済む。
日がな一日何もせず、だらだらとした時間を過ごしたいと思わないことはなかったけれど、いざこうして余裕が出来ると、ゆっくり休むどころか時間を持て余してしまって落ち着かない。
キッチンカウンターに突っ伏すと、体でも洗えるんじゃないかってくらい大きなシンクが目に入る。
それはピカピカに磨き上げられていて水垢のあとなんか見当たらないし、設置されたきり一度も使われていない新品のよう。
(ま。俺には無理だね)
こんな高級マンションに住むくらいだからハウスキーパーが入ったりもしているんだろうけれど、蛇口一つ捻るのだって躊躇してしまうくらいだから、こんな暮らしは海には向いていない。
世の中には、自分とはまったく別の生き方をしている人がいる。海のような底辺の暮らしとはほど遠い生活を送る人が。
現実から目を逸らすように反対を向くと、酒のボトルがずらりと並んでいるのが視界に入った。
逆に不便じゃないか? と思うくらい長いカウンターの端まで並んだボトルは、みんな埃一つなく輝きを放っていたけれど、どれも中身はあまり減っていないように見える。
特徴的なボトルの形と洒落たラベル。ひと目見ただけでわかる高級ブランド酒は、海の店では鍵の掛かる専用棚に保管されるレベルの代物だけれど、ここでは幻と呼ばれる限定品までが無防備に陳列されていて、価値観の違いにめまいを覚える。
(あれ?)
並んだボトルの中に良く見知った銘柄を見つけて、海は手に取った。
なんの捻りもないありきたりな定型のボトルに、わかりやすさだけ重視したシンプルなラベル。海でも手が届くような安価なウォッカは、他と比べてそれだけ中身が減っている。
(これだけ高級な酒があるのに、わざわざこいつを選ぶなんて、よっぽど味覚が変わってるのか?)
ちゃぷん、と中身の少なくなったボトルを揺らしてから、海は自身の唇を舌先で舐めると、立ち上がりグラスを一つ拝借した。
「失礼しま~す」
開いた冷蔵庫は見たこともない銘柄のミネラルウォーターが一段丸々占拠しているだけで、食材といえるものはほとんどなかったけれど、なぜだか入っているライムとジンジャーエールを取り出す。
それで作れる酒を、海は知っている。
カランコロンと氷を放り込んだグラスに、ウォッカを注ぐ。くし切りにしたライムを搾ってからジンジャーエールを注いで混ぜ、最後にライムスライスをグラスへ乗せればモスコミュールの完成だ。
「いただきます、……っと」
くっとグラスの半分ほどをあおって息を吐く。
「ん~、んっま」
使ったウォッカは決して高いものではないし、ジンジャーエールもよくある市販品だ。ライムの良し悪しはわからないけれど、スーパーマーケットで売られているものとそう大差はないはず。
それでも、いつもより美味しく感じてしまうのは、疲れのせいか、それとも普段とは比べものにならないくらいリッチなこの環境のせいか。
勝手にいただいてしまってから、少しだけ不安になる。
でも、新品を開栓したわけではないし、飲みかけをグラス一杯分いただいただけ。
これだけ豊富にあるのだから、少しくらい飲んでも問題ないだろう。
海はいわば恩人なのだし、何か言われたって知ったことか。
それに、万が一文句を言われても、この酒とジンジャーエール、ライムくらいなら海にも買って返せる範囲だ。
そういうつもりでこれを選んだわけではなかったけれど、場違いな高級空間に閉じ込められて、慣れた庶民の味が落ち着くのは本当のこと。
ゆらゆらとグラスを薫らせてほろ酔いに身を任せていると、カチャリと扉の開く音のあと、ややあってキッチンに人影が覗いた。
やって来た男は海の姿を確認するなりびくりと肩を震わせたあと、驚愕に目を瞠る。
「何をしている」
数回口を開閉して、出てきたのは明らかな不信感だ。
ぐっと握った拳と、咄嗟に取られた距離。
泥棒? 空き巣? 不審者? 変質者?
起きたら自宅に見知らぬ男がいたなんて、恐ろしいに決まっている。通報案件だって、海にもわかる。
でも、海は無理矢理ここに連れてこられた被害者なのだ。通報するなら、海がしたい。
手にしたグラスをカウンターに置いて、海は降参するように両手を挙げるとじっと男を見据えた。
「あ~、待って」
ぴく、と男の眉間に刻まれた皺が動く。
「不審に思う気持ちはよくわかるんだけど、俺の名誉のために先に話をさせてもらえませんかね?」
攻撃するつもりも、抵抗するつもりもない。ただ、事実を話せればそれでいい。
できるだけ、刺激しないように。
敬語を使うのは、相手に自分が無害であると知らせるためだ。
海が肩を竦めると、男はまるで猛獣にでも遭遇したみたいに視線を外さないまま、それでも小さく頷いたので、海は明け方の出来事を話して聞かせた。
歓楽街の路上で、眠っていたこと。
偶然通りがかった海が声を掛けてタクシーに乗せようとしたけれど、離してもらえなかったこと。
タクシーを降りても海を離さず、強引にここまでつれてきたこと。
どれも嘘じゃない。
話を盛ってもいない。
海の口が伝えていることは、全部本当のことだ。
まだ半日も経っていないうちに起きた事実を告げる海の話を聞きながら、男の顔はみるみるうちに色を失っていった。
握った拳、親指と人差し指をしきりに擦り合わせて、落ち着こうとしているのが見てとれる。
「……」
「思い出してもらえました?」
「……いや」
そう言ったきり黙り込んでしまったが、なんとなく思い当たる節はあるのだろう。記憶の端を辿るように男は何度も瞬いている。
攻撃的な態度はなくなったけれど、男が海を信じていないのは明らかだった。
まさか、自分が? そんなことをするはずがない。
そんな感情が透けて見える表情は、硬く強ばったままだ。
(そりゃあ信じたくないよな。プライド高そうだし、酔い潰れて路上で寝てた挙げ句、見ず知らずの男を拾ってきたなんてさ)
「乗ってきたタクシーの領収書は胸ポケット」
「……」
「代金はあんたがカードで支払った。俺の言うことが信じられないなら、領収書に書いてあるタクシー会社に問い合わせればいいよ」
こういうやつには、証拠を見せてやるに限る。
乗車まで決してスムーズでなかった海達のことを、ドライバーはなんとなくでも覚えているだろう。車内のカメラにだって記録は残っているはずで、海に非がないことを証明してくれるはずだ。
「この家、玄関に防犯カメラとかある? あるなら確認してみろよ。あんたが俺を連れ込んだ熱~い映像が残ってるだろうから」
茶化したとも煽ったとも取れるような口調で言うと、男は苦虫を噛み潰したような顔で不快感をあらわにする。
けれど、無理矢理こんなところに連れてこられたうえに、疑いのまなざしを向けられては海だって面白くない。態度が多少褒められたものではなくなってしまうのも、仕方がないと思って欲しい。
「……」
「……」
数秒お互いに引かぬまま見つめ合って、何も言わず男がその場をあとにする。
おそらく、海の言っていることが本当か確かめに行ったのだろう。
男を待つ間、海は冷静だった。
罪悪感なんて少しもない。
だって、海には後ろめたいことなんて何もないのだから。
真実を目の当たりにして、さらに真っ青になるのは男の方だ。
案の定、戻ってきた男は動かぬ証拠を突きつけられ、ソファに座って項垂れる。
「……すまなかった」
「信じてもらえて何より」
カウンターの奥で、気付かれないようにふんと鼻を鳴らして舌を出した。
眉間を押さえる男に冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを差し出すと、彼は「何を勝手に」と言いたそうな視線を寄越したが、海は気にせず自分もL字のソファの反対端に腰を下ろす。
「あ。あんたが起きるの待ってる間、暇だったからさ。勝手に酒もらっちゃったんだけど、いい?」
手にしたグラスを揺らすと、もう残り少ないカクテルがちゃぷと音を立てた。
もはや形勢は海が完全に有利で、この調子なら酒を勝手に拝借したことを咎められることはなさそうだと思ったけれど、後々文句を言われても困るのでさっさと自己申告しておく。
「……構わない。俺はそんなに酒を飲まないし、全部貰い物で飾ってあるだけだから」
「ふーん」
もったいない。なんなら、帰りに数本もらって帰ってもいいか聞いてみようか、なんて図々しいことを思う。
自分が優勢だと思った途端これなんだから、我ながら性根が腐っている。
「でも、これは結構飲んでるみたいだったけど?」
「たまに……モスコミュールを作るんだ」
(やっぱり)
でなければ、冷蔵庫に都合良くジンジャーエールとライムが入っていることはないだろう……てゆうか、まずない。
「好きなんだ?」
「一番最初に飲んだ酒がそれだった」
それきり黙ってしまった男に、海は首を傾げる。
「えーと? それはつまり好物ってことでOK?」
こくん、と今度は言葉もなく頷かれて、海は「ハハ……」と乾いた笑みを浮かべた。
「……」
出会って数時間。まともに会話をして数分。そのほんの短い時間だけでもわかる。
(こ、こいつ言葉が足りなすぎる……!)
いくら人生で最初に飲んだ酒だからって、不味いと感じればそれ以上飲まないだろう。
ましてや、自分で材料を買ってまで作るなんて面倒なことはしないはずだ。
手軽に飲もうと思うなら、どこかの店で頼んで出してもらうのが手っ取り早い。
そうしないのは、一番最初に飲んだモスコミュールが美味しくて、わざわざ自分で作る労力をかけるほど、男はこのモスコミュールという酒を気に入っていて、一途に好いているということ。
(いや、わっかりづらいな! 好きなら好きって素直に言えよ!)
思わず口をついて出そうになった突っ込みを「ンッ」とうなり声一つで誤魔化す。
答えを導き出すために、どんだけ時間をかけさせるんだ。まどろっこしい。
「――それで、君は」
この会話だけでどっと疲れた海をよそに、冷えたミネラルウォーターのボトル半分近くまで一気に飲み干した男は、少しだけ余裕を取り戻した瞳で海を見る。
うっかり拾って帰ってしまった野良猫の素性が気になるのだ。自己紹介を促されていると受け取った海は、いやに沈みすぎるソファに体を預けたまま口を開いた。
「名前は、海」
漢字を指で宙に書く。
「海って書いて、カイな。歳は二十四で、あの歓楽街で店をいくつか掛け持ちして働いてる。オニーサンは?」
「俺は――清皇だ。清らかに皇太子の皇と書いてセオと読む」
「セオさんね。なんかぽい感じするわ」
(融通が利かなそうな金持ちって感じがね)
嫌味は笑みの中に綺麗に隠した。
「……歳は二十四。建設会社で管理の仕事をしている」
「えっマジ!? 同い年じゃん!」
落ち着いて見えたから、二、三個くらい上かと思っていた。
ついさっきまで鼻持ちならないと思っていたのに、歳が同じというだけで一気に親近感が湧いてしまうのはなぜなのだろう。
海はソファの上をずりずりと擦り寄って清皇に近づくと、さらに身を乗り出すようにして言葉を続けた。
「で、清皇さんはなんであんなところで酔い潰れてたわけ? 働いてる俺が言うのもなんだけど、あの辺すっげぇ物騒だし、財布もすられないで無傷でいられたの奇跡だよ。あ。財布は一応モノはあるの確認したけど、中身は見てないからあとでちゃんと確認しなね」
突然距離を詰めてきた海に面食らいつつも、清皇は海の問いに答える。
「ああ……取引先との会食があったんだ。その後、もう一軒……という話になって」
「一緒にいた人たちは?」
「別れた後のことは良く覚えていない」
(おけおけ。店を出るまでがんばって、その後潰れたパターンね)
「酒が弱いなら、先にそう言えば良いのに。仕事の関係先なら、得意じゃないやつに無理矢理飲ませるなんてことしないだろ」
「自ら弱点をさらけ出してどうする。それに……大事な取引先なんだ。断れるような相手じゃない」
(弱点って……戦場か?)
海は所謂『普通の』会社勤めをしたことはないけれど、エリートにはエリートなりの大変さがあるらしい。
(言葉を探して『大事な』っていうくらいだから、お察しってやつですかね)
海の働く店でも、はやし立てる周囲の空気に断り切れず、しこたま飲まされて潰れているやつをたまに見る。
ただ、それは大体が社会に出たての初々しい新人とか、いじられキャラ的なポジションのお調子者だったけれども。
清皇は見た目も性格も落ち着いていて、とても新人には思えない。
むしろ、躊躇しない物言いに堂々とした態度は近寄りがたく威圧感さえ覚えるくらいだ。
この年で管理職を任されるくらい、順風満帆に出世街道を進んできたエリート。
そんな男が『断れない』というくらいだから、相当面倒くさい相手なのだろう。
(それで、あんなところで倒れてたら元も子もないと思うけど)
「それに、俺は別に弱いわけじゃない。普通だ」
「あー……はい、そうなんですね」
「……普通だ」
「うわっ睨むなよ。怒るなって、わかったからさ」
『普通』と言い張る清皇の『普通』が一体どれだけの量なのか気になるところではあるが、これ以上からかって余計な怒りを買うのも面倒くさい。
海は、それとなく話を逸らす。
「次来るときは気をつけなよ? また俺が拾ってやれるとも限らな……」
「当たり前だ。今回は付き合いで断れなかっただけで、そうでなければ、あんないかがわしい店ばかりの場所には行かない」
「……」
ピシ、と音を立てて笑顔に亀裂が入ったのがわかる。
仕事柄、面倒くさい客の相手には慣れているつもりだ。
嫌味を言われることだって、日常茶飯事とまではいかないもののそれなりにあるし、受け流す術を海は持っている。
第一、これは海自身を侮辱されているわけじゃない。
わかっている。
あの歓楽街という場所に対しての印象であって、清皇の個人的な偏見だ。
わかっている。
いつもならそう言われたって他人事で、へらりと「そうなんですね」で済ませられる案件なのに、今日はどうしてこんなにも胸の奥がムカムカ、イライラしてしまうのだろう。
年齢の話から勝手に親近感を抱いて、勝手に距離が近くなったと思って、それから勝手に裏切られた気分になっている。
もしそうなのだとしたら、今日の海は相当疲れている。
普段はそんなことないのに、いつもと違う自分の感情が余計に海を苛つかせた。
「はぁ、すみませんね。あんな場所でさ。一応、俺はその『あんないかがわしい店ばかりの場所』で働いてるんですけど? ちょっとデリカシーなさすぎじゃない?」
「……っ」
感情のまま大きくため息を吐くと、清皇は自分の失言に気付いたのか、はっと目を見開いた。
本当に、悪気があって言ったわけではなかったのだろう。
真っ当に生きる人間からしたら、夜の世界の印象なんてそんなもんで、それが普通の感覚なのだ。
「いや、そういうつもりは」
「そういうつもりって、どういうつもりだよ?」
「言葉を間違えたんだ」
「間違えた? ハッ、何も考えずに口から出たそれが本音ってことだろ」
「……」
海の勢いに、これ以上何かを言う方が分が悪いと思ったのか、清皇は何かを言いかけた口を噤み黙り込む。
清皇が何を発言しても、海は苛々したと思う。
でも、戦うのを諦められれば、それはそれで面白くなかった。
海とは対話をするのも無駄だと言われているようで、熱く濁った何かが腹の中でぐつぐつと煮立っている。
消化する術を知らない感情は、海の体の中を巡りに巡ってもう手がつけられない。
散々だ。
半端な善意で声なんか掛けるんじゃなかった。
海はグラスの底に薄く残ったモスコミュールを一気にあおると、苛つきを足音に乗せて玄関へと向かう。
その後を、清皇の静かな足音がついてきているのを感じたけれど振り返らない。
「海」
(もう呼び捨てかよ!?)
人を呼び捨てることに慣れた声音。噴き出した苛々がまた全身を駆けていく。
清皇の行動の一つ一つが、何をしても海を苛つかせてしかたない。
呼びかけに答えないまま、海は勢いよくドアを開いて外に出た。ガチャン、と後ろでドアの閉まる音がして、二人の間を隔てる一枚の壁にいくらか気分がすっとする。
大きく一歩を踏み出そうとして、でもそれが出来ないことに気付いて海はぎりと奥歯を噛みしめた。
ぎゅいと拳を音がするほど握り締めて、まるで油の切れた機械人形のような動きで振り返ると、渋々インターフォンを押す。
音が鳴り終わらないうちに閉まったばかりのドアが開き、清皇が出てくる。
「……」
海を見る清皇の表情からは、何の感情も読み取れなかった。
でも、苛々のフィルターが掛かった海には清皇が自分を馬鹿にしているように見えて、きっと眉をつり上げたまま憎き男に向かって拳を突き出す。
そして、裏返した拳をぱっと開き、当初の目的を完遂するために叫んだ。
「タクシー代!」
ともだちにシェアしよう!