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くたびれマフラーと冷たい手

   3 くたびれマフラーと冷たい手 (げぇ、やっぱここ通らなきゃ良かった)  二度目に清皇に会ったのは、歓楽街のあの路の上だった。  海が清皇を助けたあの路。  あの日以降、海はわざとこの通りを避けていた。  ここを通ろうとするたびに苦い記憶を思い出し、苛々が込み上げて仕方なかったからだ。  面倒くさくても遠回りなんかしたりして、なんとかやってこれていたっていうのに、そんな記録も残念ながら今日でおしまい。  おつかいを頼まれた店がどうしてもここを通らなければならず、数週間ぶりにこの路を通ったのが運の尽き。 (行きはいなかったから油断した……クソッ)  あとは店に帰るだけ。まさか、そんなタイミングで清皇の姿を見つけてしまうなんて。  相変わらずこの街に似つかわしくない男は、あの日と変わらない格好で、何をするでもなく汚れた路の上に突っ立っていた。  秋から冬へ移り変わるこの時期は、日が暮れた途端にうんと寒くなり、激しい寒暖差に体はすぐに悲鳴を上げてしまう。  にもかかわらず、男はマフラーの一つも巻かず、手袋も着けず、鼻の頭を真っ赤にしたままじっとそこに立っていた。  その異様な雰囲気に、客引きも男を避けて目を合わせないようにしている。賢明な判断だ。 (俺もそうさせてもらお~……)  幸い、清皇はまだ海の存在に気付いていないようだったし、回れ右をするなら今だ。くるり、体を反転させる。  いや、でも。  清皇が自分に用があると決めつけて避けるのは、自意識過剰なんじゃないか?  あっちは海のことなんて覚えていないかもしれないのに。  自然とそうだと決めてかかった自分の考えが恥ずかしくなる。  海は赤くなった耳を寒さのせいにして、薄いマフラーの中に首ごと押し込めると踵を返した。  絶対に見つかるもんか。そう気合いを入れるように、腕まくりをしてみるが、寒さにすぐに鳥肌が立つ。  顔見知りの客引きに挨拶をしつつ、さりげなくその場からフェードアウトしようとしたとき、急に腕を引かれて体がぐっと後ろに反る。  ああ、やっぱり腕まくりをするんじゃなかった。そうしたら、服の分、少しは冷たさも和らいだだろうに。 「海……!」 「ひぃえっ……冷たっ!」 「あ、すまない」  心臓が縮こまるような手の冷たさを、海は知っている。  すまないと言いながら、手を離さないこの男の強引さも。 「……っ、」  清皇、と思わず名前を呼んでしまいそうになって、海は口を噤んだ。 「――どうしたの、オニーサン。何か用?」 「っ、海」 「あれ、どこかで会ったことありました? もしかしてお店に来てくれたお客さんかな」 「海!」  しらばっくれるようにそう言うと、大きくなる声のボリュームに合わせて清皇の手に籠もる力も強くなる。ひんやりと冷たい手が、嫌でもあの日のことを思い起こさせてくる。  暗に関わりたくないと告げたつもりだったけれど、この男には通じないらしい。 「この間ここで君に会って、俺の部屋で……」  いつの間にか周囲には小さな人だかりが出来ていて、他人に興味はなくとも面倒ごとには興味のある視線が、二人の行く末を好奇の目で見つめている。  中にはスマートフォンのカメラを向けてくるやつもいて、海はちっと舌打ちをした。目立つのは避けたい。 「あ~! 今日ご予約いただいてましたっけ。迷っちゃった系ですか? いいですよ。ちょうど買い物帰りで俺も店に戻るんで、一緒に行きましょう」 「海、俺は」 「しっ、目立ちたくないんだよ。合わせて」 「……」  ぐっと肩を抱いて数回叩き、促すように歩き出すと、周囲の興味の視線にようやく気付いた清皇は大人しく海について歩き出した。  あやしまれないように、上辺だけの笑顔はへらりと貼り付けたまま。清皇とともに自身の勤める店の前まで戻った海は、周りに人の気配がないことを確認した途端、すっと笑顔を消す。 「こんなところ、来ないんじゃなかったのか」  嫌味を言えば、清皇はまた黙り込む。  海の手を掴む手は相変わらず冷たく、鼻の頭は真っ赤になって唇の端からは白く息が漏れていた。  いつからあの場所にいたのか。 「話がしたくて、待っていたんだ」 「俺は話すことなんて何もないね」  ふん、と被せるように言って顔を逸らすと、店のドアが開いて同僚が顔を出す。 「お、海。買い物終わった? あれ、その人は?」 「あ~、この人道に迷っちゃったんだって。ちょっと案内してくるわ。これ頼まれてたやつ、渡しといて」 「OK」  買い物袋を託し、海は清皇に向き直った。 「……とりあえず、こっち」  店の前で立ち往生していては、営業にも差し支える。裏手に回り他に人がいないことを確認してから、海は面倒くささをあらわすように腕を組んで錆び付いたポールに寄りかかった。 「悪いけど、仕事中だからあんま時間ない」  さっさとして。  促すと、清皇は親指と人差し指をしきりに擦り合わせながら、ゆっくりと口を開く。 「……謝りたくて」 「……!」 「助けてもらったのに、君にひどいことを言った。悪気がなかったのは本当だが、馬鹿にされたと思われても仕方ないことを言ったと自覚している。その……酔っていたというのは、言い訳にしかならないし、だから許されるとも思っていない」  まさか謝られるとは思わなくてびっくりする。  誰かに謝るよう言われたんじゃないか?  自分の本心で言っているんじゃないんじゃないか?  そう思った猜疑心は、鼻の頭を真っ赤にしたまま懸命に言葉を探して話す男の姿に、次第に薄れていった。 「デリカシーがない……というのは、よく言われる。会話も得意ではないし、誤解を招くこともよくある」  嘘を言っているわけではない。  というのは、よくわかった。  そして、この男がひどく不器用で、コミュニケーションを取るのが下手くそだということも。  海も人のことは言えないけれど、上辺だけの付き合いはこの男よりうまいと思う。 「本当に、申し訳なかった」 「ふっ」  深く腰を折る男を見て、思わず口元が緩んだ。  拍子抜けしてしまう。 「もういいよ」  こんなに人生の勝ち組みたいな男にも欠点があるのだとわかったら、なんだか可愛らしく思えて、今まで苛々していたのが馬鹿らしい。 「海っ……!」 「だから、お前の手は冷たいんだって!」  また手を掴まれて、海はひゃっと手を引っ込めた。 「すまない……」  しゅん、と項垂れる姿。一度可愛いと思ったら、もうそうとしか見れなくなってしまう。 「お詫びをしたい」 「お詫びぃ?」 「ああ。助けてもらったお礼も兼ねて、食事でもどうかと思ってる」 「あー……食事、ね」  海は視線を彷徨わせた。  礼と詫びを兼ねた食事。  清皇のスペックから考えても、赤提灯の居酒屋なんてことは考えにくかった。きっと、奮発して良い店に連れて行ってくれるだろう。  高級料理を食べたくないわけじゃない。  むしろ、食べたい。 (ただで食わせて貰えるんだ。行きたいけど) 「……」  海は、自分のつま先を見てから緩く首を振った。  そういう店なら、きっとドレスコードがあるだろう。  とてもじゃないけれど、海はそこに入るにふさわしい服なんて一枚も持っていない。  最初から資格がないのだ。当たり前に資格のある清皇とは違う。 「外食はあんまり得意じゃないんだよね。だから、いいよ」 「だが」 「気持ちだけ貰っとくって。むしろ、あんたがわざわざ謝りに来てくれただけでびっくりだし」  清皇は海が断った本当の理由なんて、見当もつかないだろう。  悪気なく、この夜の街を軽視したのと同じように。  何もしなくても、それが出来るのが当たり前だから。 「じゃあ、家ならどうだ?」 「え?」 「俺の家なら問題ないだろう? 外で食べるんじゃなければ、いいってことだ」 「え、いやだからさ、ほんとに……」  何がいいってことなんだ。問題大ありだ、全然良くない。  気にしなくていいんだって。  むしろ、お前といると自分との違いに惨めになっちゃいそうなんだ。  今まで、他人と比べてそう思ったことなんかないのに。 「海」  清皇は口下手なくせに、強引だ。  掴まれた手は、海が「うん」と言うまで離してもらえそうもない。 「海」 「……わかったよ」  はぁ、と降参するようにため息を吐く。 「お前の家なら、まぁ……良いよ」 「海……!」  渋々了承すると、清皇は笑った。 (こいつ、笑うんだな)  そりゃあそうだ。人間だもの、笑うことだってあるだろう。 (何、変なこと考えてるんだよ)  でも、今までの清皇の態度を思うとにわかには信じがたくて、海の心臓はびっくりしてしまったらしい。  ドキドキ、大きく高鳴ったかと思ったら、忙しなく動き始めて血流の良くなった指先が熱くなる。 「連絡先を交換しよう。海、スマホ出して」 「え。ちょっと、待っ、あ……!」  言うや否や、清皇はもたつく海の手からスマートフォンを掠め取ると、素早い動きで操作して互いの連絡先を交換してしまった。 (俺はまだいいって言ってない! 強引すぎ……!)  一緒に食事をすることは了承したけれど、連絡先を交換することには了承していない。  返されたスマートフォンのアドレス帳には、しっかりと清皇の番号が登録されている。 「……」  仕事以外で、初めて登録された連絡先。  嬉しいような、ちょっと怖いような不思議な気分だ。 「は、話はもうすんだだろっ! 俺、もう仕事戻らないとだから……」 「ああ、時間を取らせてしまってすまなかった。食事のことについてはまた連絡す……っぐしゅ」  上がり続ける体温を誤魔化すように話を切り上げようとすると、清皇が大きくくしゃみをした。 「ったく、こんな寒空にそんな格好でいるからだぞ。あんた、一体いつからあそこにいたんだ?」 「今日は、三時間くらい前だな」 「三時間!?」  いや、それよりも気になるのは…… 「つか、『今日は』ってめちゃくちゃ聞き捨てならない言葉が聞こえた気がすんだけど」 「そのままだ。最初に会った日の翌日から通っていたから」 「は!?」  てことは、こいつこの数週間ずっとあそこで立ちんぼしてたってことか!?  微動だにせず、無表情のまま。  そりゃあ、客引きのボーイも視界に入らないようにするわけだ。 「でも、今日は三時間だからそんなに待っていない。いつもは六時間くらい待って帰る。良かった、海が早く来てくれて」 「~~――っ、あのなぁ」  聞くんじゃなかった。  海を待っていたのは清皇の勝手だ。  海は少しも悪くないのに、罪悪感で胸がざわつく。 「俺があそこを通る保証なんてなかっただろ」 「この歓楽街で働いてるって言ってたから、待っていればいつかは会えるかと思った」  待ってるって、いつまで待ってるつもりだったんだ。某忠犬かお前は、と突っ込みたいのを我慢する。  頭が痛い。  いくらこの街で働いているって言ったって、会える確率なんてそんなに高くない。  なのに、会えるかどうかもわからない海に、ただ一言謝りたいだけでずっと待っていたのだ。この男は。清皇という、この男は。  ぎゅっと胸が締め付けられる。 「……海?」 「……あんまり良いやつじゃないけど、ないよりはマシだろ」  身につけていたマフラーを、清皇の首にかけてやる。  あんまりどころか、全然良いやつじゃない。  そこら辺の露店で、多分一枚五〇〇円くらいで売られていたやつ。  薄っぺらくてさらに使い古したそれはところどころに毛玉も出来ていて、清皇にはちっとも似合わなかったけれど、海が巻いたそれに真っ赤になった鼻を埋めた清皇は嬉しそうだった。 「ありがとう。あったかい」  ぎゅっと清皇の手が、海の手を包む。 「……お前の手は冷たいけどな」  もう帰れよ、と促すまで、名残惜しく海の手を擦っていた清皇の手は、いつのまにか海の体温が移って少しあたたかくなっていた。

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