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レモンとモスコミュール

   4 レモンとモスコミュール 「仕事、忙しいのか?」  ソファに座り、ぐっぐっと眉間をマッサージしている清皇に向かって、海はカウンターの奥から声を掛けた。  最初に清皇の家を訪れてから数ヶ月、もう何度この家にやってきたか数え切れない程になっていた。  あんなに触るのに戸惑っていたキッチンも、今や勝手知ったるなんとやら。蛇口だって、もう躊躇なく捻ることが出来る。 「ああ、うん。でも、今日は海が来てくれる日だからいつもより元気だ」 「忙しいんなら、無理して会わなくても良いんだけど」 「そんなこと言うな。俺の楽しみを取らないでくれ」  この数ヶ月で、気心知れた二人の口調は随分と砕けたものになっていた。  ハァ、と深いため息とともにソファに沈む清皇を後ろから眺めながら、海はカウンターに並べられたボトルの一つを手に取る。  酔っていてもいなくても、清皇という人間は強引らしい。  連絡先を交換して、彼から連絡が入ったのは本当にすぐだった。  お礼とお詫びを兼ねた食事会。誘いなんて社交辞令かと思ったのに、真面目で強引な男にあれよあれよという間に段取りをつけられて、海は自分の気持ちを整理する暇もなく清皇の家へと招待されていた。  当日の男のエスコートは完璧で、海は部屋に入るまで清皇の手以外何かに触れた記憶がない。ドアを開けるにしても何にしても、海が何かをするよりも先に清皇が動いてくれるのだ。  広いリビングの大きなテーブルには所狭しと並べられた料理。見たこともないような豪華な食事の数々に、思わず目を瞬いてしまったほど。 「お前が作ったのか?」  隣にいる男にそう問いかければ、悩むように顎に手を添えた清皇は、いたずらっぽく口角をあげる。 「そんな風に見えるか?」 「いいや、まったく」 「デリバリーしたものだよ」  正直な海に苦笑する清皇の雰囲気は、最初よりずっと柔らかい。  そんな空気に絆されるように、海の体からも力が抜ける。 「下手に俺が作るより安全だから安心するといい」  清皇は「今日は特別だから」とカウンターの装飾の一部になっていた高価な酒まで開けてくれた。  うまい酒を飲みながら、名店の味を楽しむ。普段の海からは考えられない、夢のような贅沢な時間。  あっという間に過ぎる時間に、清皇は最後まで名残惜しそうにしていた。なんとか引き留めようと下手な芝居を打つ様がおかしくて、海まで寂しい気持ちになってしまったのは秘密だ。  そうして終わった食事会。これでもう、清皇に関わることはない。一夜だけの幻のような時間だと思っていたのに、それで終わりかと思えばそうではなかった。  清皇の言うお礼とお詫びは終わったはずなのに。  それからも、どうしてか清皇からの連絡は途絶えることがなく、たびたび一緒に食事をするようになった。  次第にその頻度は増えて、今では週の半分は清皇と一緒にいる気がする。  この男は自炊というものをまったくしないらしい。  ピカピカのキッチンに調理道具は一通り揃っていたが、それも飾り物のようにまったく使われた形跡がなく綺麗だった。  そもそもする気もないようで、毎回デリバリーされた高級料理がテーブルに並ぶ。  最初のうちは、この先一生食べられないかもしれない料理の数々を単純に喜んでいたけれど、そのうちに申し訳なくなってきて「作ってやろうか?」なんて言ったのはただの気まぐれだった。  海だって、特別に料理が得意というわけではない。  ただ、生きていく上で必要に駆られてやっているだけだ。  手間は掛かるけれど、その分、外食するよりも格段に安く済む。  誰に習ったわけでもない海の料理は、プロが作るものに比べたら――いや比べようもなくお粗末な出来だったと思う。  それでも、清皇はそれを美味しいとおかわりまでして食べてくれて、それからは毎回ではないにしろ、海が手料理を振る舞う機会が増えた。  自分の作った料理を、食べてくれる人がいる。  誰かと一緒に食べる食事がこんなに美味しいなんて、もうずっと忘れていた。  店では同僚と一緒にまかないを食べることもあったけれど、それとは全然違う。比べものにもならない。  もっと、もっと言ってしまうなら――とても昔、両親と囲んだ食卓で感じた美味しさとも、それは違う気がした。 (――っと、またトリップしてた)  胸の奥がむず痒くなるようなあたたかい気持ちが、清皇といると何度も寄り添ってきて、海はぼんやりとすることが増えた。  そんな気持ちを振り払うようにカショカショ、と少し乱暴にマドラーでグラスの中をかき混ぜて、出来たばかりのそれを清皇の前に置いた。 「お酒?」 「そ。明日、休みなんだろ? たまにはいいじゃん」  隣に座った海の腰を、当たり前のように清皇が抱く。 「特別サービス……つっても、材料は全部お前んちのだけど」  こうして、二人の距離がより近くなったきっかけを、海は良く思い出せない。明確なきっかけがあった気もするし、何もなかった気もする。  清皇は海にはないものを持っていた。  考えも、容姿も、財力も、何もかも。  それは、きっと清皇にとっても同じだったのだと思う。  海の持つものはそう多くはないけれど、お互いに自分に足りないものに憧れるように惹かれて、ごく自然に求め合った。  静かな室内に、カチ、と小さく乾杯の音が響く。  一口含んだ清皇の目が、疲れなんて忘れたみたいに丸くなった。 「……モスコミュール?」 「あは、気付いた?」  それも、ただのモスコミュールではない。  アレンジを加えた、文字通り特別な酒だ。  一緒に食事をする機会は多くあったけれど、こうして酒を作って出したのは今日が初めてだった。  というよりも、あまり他人と関わりを持とうとしない海が誰かに食事や酒を振る舞うのは清皇が初めてだ。  それが仕事となれば別だけれど、誰か特定の人に対して何の見返りもなく何かをしてやりたいなんて思ったことはないのに。  初めて、自らの意思でしたいと思った。疲れている清皇を見て、彼のために何かしてやりたいと思ったのだ。 『モスコミュール』  珍しくもないカクテルの名前を、海はずっと覚えていた。  それが、清皇の好物であるということも。 「でも、少し味が違うか……?」 「ははっ、良く気付いたな。さすが、好物ってだけあるじゃん」  さらに一口、二口と含みながら、清皇は首を傾げた。  おほん、と海はわざとらしく咳払いをする。 「オリジナルのモスコミュールはライムを使う。それは、お前も知ってるだろ?」  自分で作ったことがある清皇にとって、YES以外の答えがない質問だ。 「ああ」 「ようし」  海は、先生よろしくいいぞと親指と人差し指で丸を作ってみせ、さらに質問を続ける。 「じゃあ、これはライムのかわりに何を使ってると思う?」 「……」  清皇はその味を吟味するように目を閉じ、口に含んだ液体を口の中で転がした。 「……レモン?」 「そう、正解! さすがだ清皇くん!」  素晴らしい! と大げさに褒め、髪をくしゃくしゃに搔き回す。 「これはレモンを使ってるんだ。ほんとは生のレモン使った方がフレッシュでうまいんだけど、今日は急だったからレモン果汁で代用な」  いたずらが成功した子供のように、得意げに笑う。 「こっちの方が軽く飲めるだろ。疲れてるって言ってたから」  清皇はそんな海を見つめて吃驚したように固まっていて、海は急に不安になった。 「……ライムのがよかったか?」  いや、それよりも頭を撫で繰り回したのがよくなかったのかも。清皇の髪は、ぐしゃぐしゃに乱れていつもの完璧さが見る影もない。 「いいや、いい。これがいい。君が作ってくれたこのモスコミュールが、今まで飲んだ中で最高の酒だ。ありがとう」  普段口下手な男に、面と向かって言われる破壊力というのは半端ないものだ。  素直にそう言われて、腰を抱かれる力が強くなる。肩口に跳ねた清皇の髪が触れるのを感じながら、海は照れ隠しに俯いて小さくグラスを呷った。  グラスの中で酒が揺蕩うように穏やかな時間が流れる。 「君はバーテンの仕事も?」 「いや、完全に趣味だよ。知識とか全然ないし。ただ、どうやっても酒と切り離せない世界だからさ。見てるとなんとな~く覚えたりとかもして。うまそうだなって思ったのをたまに自分でも作ったり、今みたいにアレンジしてみたりとか」 「良い趣味だ」 「そうかぁ? それくらいしか、やることがないってだけ」  そう言いつつ、今回に限ってはそんなことはなかったかも知れないと思う。  自分の特別好きな酒というわけでもないのに、モスコミュールの美味しいアレンジを海はずっと模索していた。  どうして自分がそうこだわるのかわからなかったけれど、こうなってみるとすっと胸のつかえが落ちるように合点がいく。  いつか、こうして清皇に振る舞える機会が来ることを期待していたのだろう。  海は自分でも気付かないうちに清皇という男に好意を抱いていたのだ。  好かれたくて、気に入られたくてこんなことをしたのだと自覚したら、急に恥ずかしさが込み上げる。 「俺には、そうやって夢中になれる趣味はない」 「でも、お前には夢中になれる仕事があるだろ? 俺はそっちの方が断然羨ましいけどな」 「そうだろうか」 「そうだろ。……好きだから、こんなに疲れてても頑張れるんだろ、仕事」 「君に言われると、そんな気がしてくる」  すり、と擦り寄られてシャツ越しに甘えた体温がくすぐったい。 「好きとか嫌いとか、あんまり考えたことはなかったな……俺の家は建設会社を経営しているんだが、物心付いた頃から俺も会社のためになるように言われていて……ああ、俺は次男だから会社を継ぐ必要はないんだが。まぁ、それが当たり前だったから、それ以外のことに興味を持つこともなかった」 (建設会社勤務とは聞いてたけど……自分ちの会社だったのか)  ぼんぼんだろうとは思っていたけれど、正真正銘の御曹司だったとは。  海は話の続きを促すように、柔らかく清皇の髪に指を絡ませる。 「なかったが……それを苦に思ったことはなかったから、きっと好きなんだろうな」 「すごいな。俺は生きるため仕方なく仕事してるクチだからさ、逆にそこまで打ち込めるの尊敬するよ。忙しいの、まだ続きそうなのか?」 「まだ、しばらくはこのままだろうな。今、任されているプロジェクトがあるんだ。今までで一番大きい案件で、その分プレッシャーも大きいが、ずっとやりたかったやつなんだ。M地区の……」 「M地区? それって、駅前に出来る予定の高層ビル?」 「そうだ。知ってるのか?」 「ああ。この前、店に来た客が話してるのを聞いたんだ。でも、なんか工事が遅れてるって聞いたけど」  状況を思い出したのか、清皇がふっと苦く笑みを浮かべた。 「ああ……土地の管理関係で少し揉めて、この間ようやく解決したばかりなんだ。だから、作業に遅れが出て納期がかつかつになってて……今は現場が一番大変だから、俺も弱音は吐いていられない」  だから、このところひどく疲れた様子だったのか。  会うたびに目の下のクマが濃くなり、やつれていく原因がわかってほっとしつつも、心配がなくなるわけじゃない。  そのビルが完成するまで、きっと清皇の忙しさは続くのだろうから。 「でも、この忙しさも実はちょっと楽しいんだ」 「……忙しいのが楽しいなんて、お前ドMだったのか?」 「ん? いや、待て。違う、引くな」  離れようとする海を清皇が抱き寄せ、バランスを崩した体がソファに倒れる。 「充実してるなって、思うんだ。俺は跡継ぎにはなれないが、この会社を支えていきたい」  酒を飲むと、清皇は饒舌になる。付き合ううちに知ったことだ。好物のモスコミュールを飲んで、その饒舌さはいつもよりも増しているのかも知れない。  清皇は自分の仕事にきちんとした夢や目標を持っている。  それが、海にはひどく眩しく感じた。  だって、海にはそんな前向きな気持ちは少しもない。  仕事は、ただ生きていくために必要なこと。生活費を稼ぐための手段で、それ以上ともそれ以下とも考えたことはなかった。  幼くして両親を亡くした海は叔父に引き取られて、でも海を引き取ったことで叔父夫婦はいつも喧嘩をしていた。  いくら表面上を取り繕っても、多感な子供は険悪な空気を敏感に感じ取る。そんな環境は海から自信を喪失させ、学校でもそんな自信の無さゆえの振る舞いでクラスに馴染めず、雰囲気を悪くするばかりだった。  自分がいると、相手に嫌な思いをさせてしまう。  周りを不幸にしてしまう。  そう思うようになった海は人と深く関わることにますます臆病になり、前向きな思考は過去に置いてきてしまっていた。  好意を言葉で伝えるのではなく、清皇の好きなモスコミュールという酒を作り提供することで伝えようとしたのもそんな過去があってのことだったけれど、海は自分の無意識な行動の意味に気付かない。 (俺には、そんなきらきらした夢、ねぇもんな……)  語られた夢、目標。そのどれもが海の目の前で激しく煌めいて、目を開けているのが辛いと感じてしまう。 「……そうかよ、いいじゃん」  清皇と一緒にいるのは楽しい。  清皇のことを、好きだと思う。  でも、一緒にいると自分のコンプレックスを刺激されて落ち着かない気持ちになるのも事実だった。  尊敬すると同時に、劣等感が胸の奥からふつふつと湧いてくる。 「……まぁ、あんまり無理はすんな」  落ち着かない自分の気持ちを誤魔化すように、抱き寄せた清皇の髪をわざとぐしゃぐしゃにかき回した。 「海」  甘えるように胸に頬を寄せた清皇が、甘く海の名前を呼ぶ。  清皇、と名前を呼ぼうとして、海はその口に清皇の人差し指を含んだ。  そうしないと、声から好意が伝わってしまいそうだったから。  相変わらず冷たい指が、熱い海の舌の上でじゅわりと溶ける。 「ん……っふ」  ちゅ、ちゅ、と舐めて吸って、舌の上で氷を転がすようにあたためる。時折いたずらに上顎をくすぐられるから、海は咎めるように指先を甘噛みした。  それに清皇は痛がるそぶりもなく、嬉しそうに笑みを浮かべる。  ぬくまった指が引き抜かれて、二人の間に引いた糸が切れないうちに今度は唇が重なる。清皇の唇は指の冷たさが嘘のようにあたたかかった。  優しく首の後ろを擦られて、腕の檻に閉じ込められて、甘すぎる口づけであやされて。  清皇しか感じない。全部、清皇だけ。 「ベッドに行こう」  ちゅ、と頬に口づけられて、海は小さく頷いた。  恋人でもないのに体の関係なんて――なんて野暮なことは言わない。 『俺のこと好き?』  なんて、無粋なことで熱を冷ましたりもしない。  もう、大人だ。  重なる体。  分け合う熱。  清皇を愛おしく思うのに、胸の奥に芽生えてしまった焦りはどうしても消えなかった。

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