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さよならと繋いだ手
5 さよならと繋いだ手
「海、今日は連れて行きたいところがあるんだ」
「連れて行きたいところ?」
突然のことにオウム返しをすると、清皇はこくりと大きく頷く。
待ち合わせ場所である大通りまでタクシーでやってきた清皇は、いつもと変わらず優雅な仕草でドアから下りてきたけれど、その瞳には興奮と期待が入り交じっているように見えた。
最近の清皇は、出会った当初に比べると海の前で少し子供っぽい――おそらくは素に近い――姿を見せることが多くなっていたが、こうして仕事が終わって間もない彼がもうすでにその状態であることは珍しい。
促されるまま伸ばされた手を取り、あまりにも自然に車内へエスコートされてしまってから、海は当たり前にそれを受け入れている自分に気まずくなる。
頷き以上の返事を得られないまま、二人を乗せたタクシーはどこかもわからない目的地へ向かって滑らかに走り出した。
「無事に準備は終わった?」
「ん? うん。別に、作業自体は初めてってわけでもないからさ」
今日は珍しく昼の仕事だった――というと語弊があるだろうか。転職したわけではなく、休みだったのを開店準備だけ手伝って欲しいと頼まれただけだ。
病欠のスタッフが出たらしく、急な分少し給料を上乗せすると言われれば、特に予定のなかった海には断る理由もない。
なぜか海のシフトを把握している清皇は、休みの日には必ず会いたいと連絡を入れてくる。
案の定、今日も連絡があって、急遽開店まで出勤になったと告げれば、ここまで迎えに来ると言って聞かず、この状況というわけだ。
「どこに行くんだよ」
「着いてからのお楽しみ」
会話の合間にそう挟んでみても、清皇は一貫してそうはぐらかして、よくわからないまま連れてこられたのはM地区の駅前にある工事現場だった。
清皇が管理を任されているという、あの高層ビルの建設現場だ。
疑問符を浮かべる海を余所に、清皇はさっさとタクシーを降りると、海の手を引いて何の躊躇もなく囲いの中へと入っていく。
「ちょっ……! おい! 勝手に入って良いのか!?」
「大丈夫だ、ちゃんと許可は取ってる」
戸惑う海のことなんてお構いなしに、清皇は強引に手を引いて現場を進んでいく。
自分の任されているプロジェクトだというから大丈夫なのだろうけれど、それでも、建設途中のビルの中に入るのなんて初めてで、きょろきょろと落ち着きなく辺りを窺ってしまう。
ビル内は明かりがついていたが、作業はすでに終了しているようで人の姿はない。
清皇に聞けば、防犯のために常に明かりをつけているのだという。
今は人の気配を感じないけれど、作業がない時間でも二十四時間常に警備体制が敷かれていて、場内には防犯カメラも設置されているらしい。
確かに、無防備に開け放したままでは誰が入るともわからないが、ここまで徹底されているのも珍しい。それだけ、掛けるお金があるということだ。
「さあ、海。中を案内する、おいで」
作業員でもなければ、工事現場の中に入る機会なんて滅多にない。
今まで通り過ぎるばかりだったその内部を知ると、なんだか秘密基地を探索しているようで、海の心は次第にわくわく弾んでいった。
「この上はどうなってるんだ?」
「ああ、この上はまだ……いいよ、行こう」
探検家にでもなった気持ちで、清皇の後をついていく。
「この辺はまだ作業が遅れているんだ。資材が多くあるから足下に気をつけてくれ」
「あ、ああ……」
建物はほとんど完成していたが、高層階はまだコンクリートの壁がむき出しの箇所も多くあった。
高く積み上がったパイプが暗闇の中で鈍い輝きを放っていて、まるで得体の知れない怪物みたいに見える。
ぞくりと背を駆ける恐怖から逃げるように、海は小走りで清皇のそばに寄り添った。
「連れて行きたいところって、ここ?」
「そう。俺が作ってるビル……海に見て欲しかった」
清皇の手が腰に回り、抱き寄せられるとほっと安心して小さく息が漏れる。
「寒いか? 海からくっついて来るのは珍しいな」
すり、と頬を寄せられて、嬉しそうにされると気恥ずかしくなってしまう。
「ちょっと……てゆうかお前、いつまでそんなボロ巻いてるんだよ」
清皇の首には、今日も似つかわしくないよれよれのマフラーが巻かれている。
二度目に会ったときに海が巻いてやったマフラーは、今ではすっかり清皇のものになって、いつでも彼の首にあった。
照れ隠しに話題を逸らし、完全に浮いているマフラーを取り払おうと手を伸ばすと、その手を清皇に握られる。
「つっ……めた! お前の手は何でそんなに冷たいんだよ」
「昔から冷たいんだ。冷え性ってやつかな」
思わず手を引こうとするより先に、指が絡んだ。
「冷え性レベルの冷たさじゃねぇけど」
「でも、手が冷たい人は心があったかいって言うだろう」
「自分で言ってちゃ世話ねー……てか、マジでそのマフラー外せよな。ボロボロで恥ずかしいだろ」
にぎにぎ、と繋がれた手の間に、じんわりと温もりが生まれる。
「恥ずかしくなんかない。海がくれたこれが一番あったかい」
「くれたっつーか、お前が返さないだけだけどな。あー、あのなんだ。かしみや? ってやつのがあったかいだろ。絶対」
「あたたかいが……やはりこれには負けるよ。今度、これのお礼に海にはカシミヤのマフラーをプレゼントしよう。それに」
もったいつけたようなために「なんだよ?」と先を催促すれば、綺麗な笑みが返ってくる。
「手だって、海が繋いでくれればすぐにあたたかくなる」
「……俺は体温奪われて寒いんですけど」
唇を尖らせると同時に文句を言っても、清皇は目を細めるだけだ。
「ふっ……じゃあ、こうしよう」
きつく握りあった手が、清皇のコートのポケットへ押し込まれる。
(……恥ずかしいやつ)
こんなことするやつ、本当にいるんだ。
照れ隠しに息を吐くと、白くもやが立ちのぼった。
「……ようやく、完成する」
コンクリートの先、清皇が見つめる世界には夜の空が広がっている。
「まだ油断は出来ないが、この調子で進められたら、予定通りに完成出来ると思う。……こうして頑張れたのは、海がそばにいてくれたおかげだ」
「別に、俺は何もしてないだろ……」
耳元で囁かれるまっすぐな好意がくすぐったい。
「そんなことはない。海と一緒にいる時間が、俺の支えだから。海に出会わなかったら、俺は途中で挫けて、このビルだって完成しなかったかもしれない」
「そんな、大げさだな。仕事なんだから、俺がいなくたって清皇は立派にやり遂げたよ」
海はただ、清皇の人生の道の横に偶然現れただけで、たとえ海と出会わなくても、清皇はその道を胸を張って歩いて行っただろう。
「大げさじゃない。海と出会う前の、ただ忙しいだけの日々を思い出すと目の前が真っ暗になるよ。それに、不眠気味だったのが、海とベッドに入って運動をするとぐっすり……」
「わー! そういうことは言わなくていいんだよ!」
「ははっ」
声を上げて、清皇は笑う。
都会の空にもこんなに星が見えるんだ、と感動してしまうくらい、良く星の見える夜だった。
その星々に負けないくらい、清皇の瞳は輝いていた。
(眩しい、な)
一緒にいる時間が長くなっても、声を上げて笑う清皇を見たのは数えるほどしかない。
嬉しいのだ、清皇は。
自分のプロジェクトが成功間近であることが、嬉しくて誇らしくて堪らない。
この仕事が好きだというのが、嫌というほど伝わってくる。
仕事に対する情熱、夢、目標。
どれも、海にはないもの。
それを純粋に尊敬し憧れると同時に、胸の奥底に深く沈む妬ましさ。
(あー……ダメだ。比べたってしょうがないだろ)
無い物ねだりなんてみっともないこと、しないって決めた。
どうやったって届かないものに手を伸ばさないって決めた。
なのに、清皇を前にすると、その煌めきに自分も触れられるような欲が生まれてしまう。
(全部、錯覚だ)
海の手には何もない。何も、掴めない。
また清皇を見ていられなくなって、海は逸らした視線を自分のつま先に落とした。汚れた、自分の靴の先が見える。
俯いた海の興味を自分に向けるように、清皇はポケットの中の手を握った。
「ここは、みんなが楽しめる、そんなビルになる。もちろん、海にも楽しんで欲しい。商業施設とオフィスがメインにはなるが、上層階には住居にホテルと展望施設も入る予定なんだ。完成したらまた一緒に来よう」
腕の中へ抱き寄せられて、愛しく頬ずりをされても海はすぐに返事が出来なかった。
自分が、何を言いたいのかわからない。
わからないけれど、何かわからないその言葉が、渇いた喉にへばりついている。
清皇は、海に心を開いてくれている。
好意を抱いてくれている。
それは、明確な言葉にして伝えられなくても、清皇の態度から海には十分伝わっていた。
あんなにいけ好かないと思っていたのに、清皇を知るたびに海はこの男に惹かれるのを止められなかった。
酒には弱くて、手はいつも冷たいところ。
見た目の割に甘えたで、スキンシップが過剰なところ。
口下手なくせに、海の前では言葉で伝えようと努力してくれるところも――清皇という男の全部が、まるごと愛しかった。
愛情深くて、海を一番に愛してくれる。ひどく魅力的な男。
だからこそ、海は自分が清皇と一緒にいて良いのか悩むのだ。
自分といて、清皇は幸せになれるのか?
今まで親しい人を作ろうとはしなかった。作りたいとも思えなかった。
自分が引き取られたことで、良くしてくれた叔父の家庭は険悪になった。
学校でも海の行動が原因で雰囲気を悪くしてしまった。
いつも、海がいると周りを不幸にしてしまう。
両親が死んだのだって、もしかしたら海のせいだったかもしれない。
海のせいで、清皇が不幸になる。
海が、清皇の幸せを奪ってしまう。
跡継ぎでないとはいえ、会社の御曹司なら、立場上、結婚だって必要だろう。将来的には良いところのお嬢さんを娶って、子供をもうけて、絵に描いたような幸せを掴むべきなんじゃないか。
自分は、清皇の夢の邪魔にしかならない――。
考えれば考えるほど焦りと劣等感が膨らんでいって、いても立ってもいられなくなる。
隣で夢を語り続ける清皇は、そんな海の葛藤には気付かない。
キラキラとしたその様子は眩しくて、ついに海の目には清皇が見えなくなった。
「……俺は、きっと一緒には来れないよ」
「海?」
ぽつりと零れた呟きを拾って、清皇は海の顔を覗き込んだ。
「どうして? ああ、周りに人がいるのが嫌? なら、一部屋購入しようか。一番眺めの良い……」
「お前はいいよな。何だって、簡単に手に入るんだ」
清皇の言葉を遮るように、海は唸る。
なんでも、簡単に。清皇がそうと決めれば、高級マンションの一番良い部屋だってなんの苦労もなく彼のものになる。
それが自分の卑屈な考えだって、海だってわかっている。
海が最初に外食が得意ではないと言ったから、清皇は人の多い場所を極力避けてくれた。
一度断ってからは、海の家に行きたいとも言わない。
会うときはほとんどが彼の家で、たまの外食も完全個室で周りの目を気にすることなくリラックスできた。
価値観の違いにたまに苛立つことはあっても、いつだって清皇は海のことを考えて行動してくれたのに、そんな男を海はこれからひどく傷つけようとしている。
でも、一度胸の底から噴き上がった負の感情は堰を切ったように止まらなかった。
「仕事も、家族も、金だって、何も困ったことなんかないだろ」
清皇が悪いわけじゃない。
清皇は、清皇の人生を生きてきただけだ。
だけど――。
「俺は……お前といると」
今までの自分の人生がなんだったんだって、急に悲しくなるんだ。
劣等感。
ずっと見ないふりしてきたのに、見なければ、知らなければ、比べることもなくこんなもんなんだって済ませられたのに。
一度知ってしまえば、どうしたって比べてしまう。
今を手放すのが怖くなってしまう。
豊かな生活が惜しいんじゃない。
隣に清皇がいなくなるのが怖い。
清皇がいなくなって、自分は今までのように生きていけるのか不安で堪らない。
「……自分が惨めで仕方なくなるんだよ!」
もし、自分たちに何の差もなかったら、こんなことを思わずにいられただろうか。
もしも、出会ったのがこことは別の世界だったら、清皇との未来に希望だけを抱けただろうか。
(なんて、全部あり得ない話だ)
どこの世界で出会っても、きっと海は清皇と同じにはなれない。
耐えきれず、海はその場から逃げ出した。
これ以上、清皇を傷つけようとする自分が嫌だった。
「海! そっちは危ない!」
離れかけた手を、清皇が強く握り直す。
前を見ず走り出したせいで、躓いた何かを勢いのままに蹴飛ばしてしまう。
グラ、と地面が揺れるような音がした。
「――え?」
「っ、海……!」
強い力で体が投げ出される。
衝撃を感じるのと、耳をつんざくような不快な音を感じたのは同時だった。
高く、低く、重く、軽く。色々な音がフロアの中に響き渡って反響している。
「ぃ、てて……」
舞う埃の中、目を開きなんとか体を起こす。
コンクリートの地面に手をつくと、そこはまるで水たまりのように濡れた感触がした。
躓いた拍子に、バケツでもひっくり返してしまったのかもしれない。
中身は水かそれとも何かの塗料か。薬剤だったら、危険かも。
指先に感じるぬるついたものの正体を確かめようとした海は、目を瞠り腰が抜けたようにその場から動けなくなった。
「清皇……?」
コンクリートの床に広がっていたのは、黒い染みだった。
その真ん中には清皇がうつ伏せの状態で倒れていて、どんどん、どんどん、清皇の体を中心に染みは広がっていく。
保管されていた鉄骨に海が躓き蹴飛ばしたせいで、高く積み上げられていたそれのバランスが崩れてしまったのだ。
こんな少しの衝撃で崩れるようなこと、本来はあってはならない。
清皇も現場の社員も、納期の遅れ、作業の忙しさに疲弊したせいで安全管理が甘くなっていたのだ。
崩れたそれらは、重く清皇の体に圧し掛かっている。
「清皇? 清皇!」
何度呼びかけても、いくつもの鉄骨の下敷きになった清皇からは何の返事も返ってこない。
ただ、染みがじわりじわりとその姿を大きくしていくだけ。
清皇は、海をここに案内するつもりはなかったのかもしれない。
考えてみれば、ほとんど完成していた下のフロアはさておき、何の装備もなしにまだ作業途中の現場に入るなんてどうかしている。普段の清皇なら、まずしない。
それだけ、疲労で清皇の判断力も鈍っていたのだ。
もしくは、海を招いたことに心が浮かれて冷静な判断が出来なかったのかも。
何を考えてもそれは海の想像の域を出ず、真相はわからない。
でも――。
海が、どうなっているのか聞きさえしなければ。
そうすれば、この事故を防げたことは確かだった。
「清皇……おい、返事しろよ」
自分に向かって伸ばされたまま動かない手を取る。
ぎゅっと握った清皇の手は、さっきよりも冷たくなっていた。
せっかくあたたかくなってきていたのに、これじゃあまた繋いであたためてやらなくちゃならない。
「なぁ、ごめん。完成したらまた一緒に来るよ。清皇、冗談やめろって。このビル、完成させるんだろ……っ!」
いくら握り締めても、清皇はいつものように痛いほどに握り返してくれないし、海の温もりが移ることもなくどんどん冷たくなっていく。
「清皇、おき――」
ぐらりと空気が揺れ、頭上に弾けるような衝撃が走った。
「っ、せ、お……」
ぐわん、と頭が衝撃に揺れて、視界が霞む。
不安定に保管されていた資材は、清皇を襲ったそれだけではなかった。一つがバランスを崩したせいで、支えを失った他の鉄骨が不安定さに耐えきれず海を襲う。
(やっぱり、俺と関わるとみんな……)
不幸になるんだ。
(せお……)
ひやりと心が冷えていくのを感じながら、海の世界は真っ暗になった。
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