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カイとセオ

   6 カイとセオ  「――ん。オッケー、全部あるな」 「ほいよ。じゃあ、ここにサインしてくれ」  コンテナに入った商品と手にした注文書を見比べて間違いがないことを確認すると、カイは渡された用紙にサインをして返した。  店の軒先にぶら下がったアンティークな電球が、柔らかくカイの金髪を照らす。 「今日の魚はとびきり大きいのを入れといた。最近、またデカくなってるらしいぞ、あいつら」 「へぇ? まぁ、小さくなるよりは良いかな。最近は、酒と一緒につまみがよく出るから、デカくなる分には助かるかも。別に、凶暴化してるわけじゃないんだろ?」 「そう言った話は聞かねぇなぁ。警備の騎士の連中は、暇でしょうがないと嘆いてるくらいだ」  平和なのはいいことだけどな。と口ひげをたくわえた初老の男は、その出っ張った大きな腹を突き出すようにして笑う。  この国が長い戦いで土地が痩せ荒れていたのは、もう過去の話だ。  今では、歴史書や吟遊詩人の歌の中でしか語られず、厳しく苦しかった生活が、皆の記憶から消えて久しい。  その昔、虫や魚、動物は今よりももっと小さかったらしいけれど、生まれたときからこの大きさに慣れているカイには、想像もつかないことだった。 (これより小さかったら、食べるところなんてなさそうだけどねぇ) 「さらに豊かになってる証拠かもね」 「はっはっ、違いねぇや」  一説によると、この国の繁栄にともなって彼ら生き物も大きくなっているというから、きっとそう悪いことではないのだろう。 (どうせなら、俺も、もうちっと大きくなりたかったけどな)  自分の頭上を見るようにふっと息を吐くと、整えてもらったばかりの前髪が軽く舞い上がった。  特別鍛えているわけでもない体は華奢でもないが、筋骨隆々というわけでもない。  身長は高くもなければ低くもなく、良い意味でも悪い意味でもカイは平均的で平凡な容姿をしていた。大きさが国の繁栄に関係しているなら、カイももう少し大きくたって良かったはずだ。  国の首都であるこの街は山間にあり、土地は狭いが多くの人が生活をしている。  建物同士の間隔が狭く、窮屈な印象ではあるけれど、そうしなければ多くの人が暮らせないのだから仕方ない。  カイは、両親の死をきっかけにこの街へやってきた。  特別首都に憧れがあったわけではないけれど、これまでカイが暮らしていた田舎に比べると賃金が格段によかったし、昼夜関係なく常に人の気配を感じることができるのはなんとなく安心できた。  暮らす人の職業も多様で、カイのように特定の職に就かず酒場を掛け持って働く人もいれば、騎士団に所属して堅実な生活を送る者もいる。  今は建設業が人気らしく、技術の革新により首都の建築物はどれも丈夫で頑丈だった。  隙間風の吹かない家、流されない橋。  それらはすぐに田舎にも伝わって、この国をもっと豊かに盛り上げてくれるだろう。 「ああ、あとこれはおまけ」  シャツの袖を捲りコンテナを掴んで店内に入ろうとすると、馴染みの商人は思い出したように言った。 「おまけ?」  持ち上げたコンテナを一度おろし、放り投げられた何かを両手でキャッチする。  紙の袋に入ったそれは、重く丸みを帯びた形をしていた。ごろごろと硬く、何かが複数入っている感触がする。 「って、これレモンじゃんか!」  袋を開いて確認すると、入っていたのは黄色が鮮やかな楕円形の果実。  この街で、酸味の強いレモンはあまり人気がなかった。何もかもが満ち足りた首都には甘くて美味しいものがたくさんあり、酸っぱく癖のある果実をわざわざ選ぶものは少ないからだ。  もっとも、田舎ではまだ季節によって食に喘ぐことも少なくなく、レモンも貴重な食材の一つだったので、カイはこの黄色い果実がそう嫌いではないのだが。  とはいえ、それはカイの個人的な好みであって、店で使えないものをもらっても意味がない。  この酒場の店主は豪快で気が良く、渋々持ち帰ったレモンを見てもただ笑うだけだろうけれど、処理に困るのは現場で働くカイたちだ。 「そう迷惑そうな声を出すな。採れたてだぞ」 「迷惑そうなんじゃなくて、実際迷惑なんだよ。あんまり使い道がないの、知ってるだろ」 「だからって、捨てるのは勿体ないだろ?」 「じゃあ、お前が使ったらいいじゃないか。新鮮なんだろ?」 「俺には酒の知識もなけりゃ、料理だってからきしだ。だから、な。うまく使ってくれって」 「あっ、おい!」  カイの背をバシンと気前よく叩いた男は、ハハと笑い声を上げると、あとはよろしくとばかりにさっさとその場を後にする。  通りを男の乗ったトラックが去って行くのを苦い顔で見送って、カイはチッと舌打ちをした。  この店と長く取り引きのあるあの商人が持ってくる品物は、他から仕入れるよりも質が良く安価だ。馴染みの付き合いだからと量を多くしてくれたり、さらに値引きしてくれたりなんかもする。  それに関してはありがたいと思っているけれど、調子が良く、たまにこうして迷惑なものを押しつけてくるのが難点だった。 「くそ、今度来たときに生搾りで出してやるか?」  酸っぱさに口を窄めて飛び上がる男の顔を想像したらおかしくなって、カイは噴き出して笑った。 (あとは、こいつをどうするかだけど……)  手にしたレモンを一つ、空に向かって放り投げる。それは、まるで空から星が落っこちたみたいにカイの手に戻ってきた。 「……ま、いいか」  レモンごとコンテナを店内に仕舞い、カウンターへ顔を出すと、ちょうど地下のワインセラーから店主が戻ってきたところだった。 「マスター、検品終わりましたよ」 「ああ、カイ。ありがとな」 「つうか、聞いてくださいよ! あの商人のおっちゃん、またいらないもん押しつけてきて! おまけつってましたけど、絶対処分に困ったからっすよね」 「ん? ああ、レモンか。ったく、しょうがねぇなぁ」  困ったもんだ、と口では言いながら、彼は大柄な体に似合う豪快な仕草でガハハと笑うだけだった。 「まぁ、この商売も助け合いだからな。困ったときはお互いさんだよ。もらっといてやんな」 「じゃあ、まかないで出しますからね」 「好きにしろ」  嫌味のつもりで言ったのに、ぽんぽん、と大きな手で頭を包まれて、カイは複雑に唇を尖らせた。今年二十二になったカイと同い年の子供がいるという店主は、こうして度々カイを子供扱いするのだ。  レモンを使ったメニューは、この店にもないわけではない。けれど、ほとんど注文されることはなく、店員でさえその存在を忘れてしまうくらい影が薄いっていうのに。 (残ったら、マスターに持って帰ってもらお)  両の拳をくっつけたような大きさのものが三つも。絶対に処理しきれない未来が目に見えている。 「そういや、新しく建設されてる建物見たか?」  カイがレモンを使ったメニューを探してメニュー表と睨めっこしていると、もうレモンの話題なんか忘れた店主は、ジョッキに注いだ酒を混ぜながら言った。 「また何か建ててるんすか?」 「ああ。東の、でかい空き地があったろ? そこで少し前から作業してるらしい。俺も客から聞いてちょっと興味が湧いてな。さっき出かけるついでに覗いてきたんだが、あれは相当高い建物になるぞ」  あまり流行り物に興味のない店主が、自分の頭上よりも遥か高くに手を伸ばし珍しく興奮したように言うので、カイも少し興味が湧く。 「南の時計塔とだと、どうですかね?」 「断然、今作ってるやつだろうな。まだ土台が出来たばっかりって感じだが、足場の高さを見るに時計塔なんてすぐに追い越しちまうぞ。なんでも、商店に入った若いのが相当優秀らしくて、聞いたこともねぇような技術を持ってるんだと」  この街で、今一番の高さを誇っているのは南にある時計塔だ。何かを比べるとき、時計塔を比較に出せば大体の大きさは把握出来る。が――。 (時計塔よりデカいなんて、どんだけだよ)  時計塔が出来たときだって、それは驚いたものだ。街中がその話題で持ちきりで、相当盛り上がったのを覚えている。  あのときは毎日が祭りのようで、この酒場も連日大盛況で休む暇もなかった。  今やこの国の花形職と言っても過言ではない建設業は、その人気故に人手は十分だったし、人員を十分に確保できるおかげか技術の進歩もめざましい。  この数年で街には見たこともないような建物が増え、社会全体が急成長し始めているのをカイも肌で感じていた。 「現場のやつに聞いてきたんだが」 「聞いたんですか」  ちょっとどころか、相当興味あるじゃないですか。と思いつつ、カイは店主の話に耳を傾ける。 「布が引いてあって、中がよく見えねぇんだよ。しかも、聞いたって非公開だっつって教えてくれねぇ。ったく、もったいつけやがって。なぁ?」  同意を求められて、カイは曖昧な笑みを返すしかなかった。  非公開とされるには、何らかの理由があるはずだ。  王室が関わることで非公開にされているか、もしくは、非公開とすることでその建物に付加価値をつけているか……。  いずれにせよ、隠され、秘密にされればされるほど神秘性は増し、その建物の話題性は十分になるだろう。  案の定、いつもならあまり興味を示さない店主でさえその正体を気にしているし、カイも当初より格段に興味が湧いていた。 「近所に住んでるやつによると、家っぽいって話だけどな」 「家? 店じゃなくて?」  店主はその建物が時計塔よりも高いと言っていた。  そんな高さのある家、天井が遠くて仕方ないだろう。  もしくは、何階建てにもなっているんだろうか。  それにしたって、ひと家族が住むには大きすぎやしないか。  まだ、店って言われた方が納得できる。  様々な疑問が、カイの頭の中をぐるぐると旋回する。  店内飲食サービスを始めた中央広場前のベーカリーは人気でいつも長蛇の列が出来ているから、何階建てにもなりそうなその建物は、やっぱりそういった店舗にちょうど良さそうな気がした。 「なんでも、一つの建物に小さい家が何戸も入って、複数人がまとめて住めるらしいんだと」 「へぇ。宿屋が自分の家になったみたいな感覚ですかね? え~でも、俺は他人と同居はやだなぁ」 「あん? そんな繊細なたまだったか? 各部屋は独立してて煩わしくないようになってるって言ってたが、本当のところはどうなんだろうなぁ。最上階は特別眺めが良いらしいぞ」  時計塔よりも高かったら、そりゃあ眺めが良いだろう。この街の全部が見渡せるし、隣の街も、もしかしたらその先にある海だって見えるかも知れない。  空に近い分、きっと星の輝きだって大きく見えるはずだ。  でも。 「俺、高いところ苦手なんですよね~」  話を聞いて、カイは自分には向かないなと思った。  なぜだかわからないが、幼い頃から高いところが苦手なのだ。  同じ年代の子供はみんな喜んでいるのに、高い高いをされて一人だけ大泣きをするくらい。  カイの生まれ育った街は平屋が主流で、そもそも、そう人口も多くないので家自体が少なく、領主の家がかろうじて二階建てだっただけだ。  だからかもしれない。  高いところに縁がなく、慣れていないから変な恐怖心があるのかも。  地面からの距離を感じると胸の辺りが変にざわつくのを、カイはそう思うようにしていた。  それだけではないような気がするときもあったけれど、それ以上を考えようとすると頭痛がして、見えない何かに考えることを邪魔されているようだった。  カイは話を逸らすように「そういえば」と繋ぐ。 「最近、ウォッカの仕入れ多くしてます? 他のより多かったけど注文書の控えと数合ってたんで、そのまま入れちゃったんですけど……」 「ああ、問題ない。最近モスコミュールの注文が多くてな」 「モスコミュールが? へぇ、流行ってるんですかね」  さすが首都。国の中心部だけあって、この街は流行に敏感だった。  その分、昨日まで流行っていたものが今日には別のものになっていたり、興味の移り変わりが早いのだけれど。  多くの人が利用する酒場ではそういう情報も集まりやすかったが、カイ自身は流行に敏感なタイプではなかった。  興味がない――というのが一番の理由だったけれど、次から次に目まぐるしく変わる早さについていけないっていうのが本音だ。  モスコミュールはカクテルの中ではスタンダードで、どこの酒場にも必ずと言っていいほどある定番のメニューだ。  作り方によって軽くも飲めるし、酔いたいときには重くも出来る。融通の利く基本のカクテルは、流行りに左右されるようなものではない。  今までもそれなりに注文のあるカクテルだったけれど、目立つような酒ではないから本当にそれなりだった。  どこかの舞台俳優がお気に入りだと公表したか、それとも騎士団のエースが好んでいたか。  いずれにしても、一時のことですぐに落ち着くだろうことは確かだ。 「いや、流行ってるっていうよりも、そればっかり頼む客がいるんだよ」 「団体?」  そればっかりなんて、モスコミュール愛好会でもできたか?  同士を募って仲間で行動するのも今の流行の一つだ。 「いんや、個人。最近よく来るようになった客なんだが、いつも一人で来て、二、三杯飲んで帰るんだ。ありゃあ、相当モスコミュールに惚れてんだな。魂にでも擦り込まれたみたいに、いつもそれしか頼まねぇ」 (ふぅん)  面白いやつもいたもんだ。  この酒場で、モスコミュールを本命で頼むものはなかなかいない。  定番の酒は、最初の一杯、繋ぎに一杯と、とりあえずで頼まれることが多いから。 「そんなに好いてもらっちゃ、モスコミュールも本望でしょうね」  そう言いはしたものの、カイにはそのモスコミュール愛好家の気持ちはわからなかった。  もともと、カイは一つのものに固執するようなタイプではなく、どこか冷めたような諦めたようなきらいがあった。  特別嫌いなものもなければ、特別好きなものもない。  どれもがみんな普通……というよりも、普通という感情を持っているかさえ曖昧だった。  何かを特別だと思ったことがあまりないカイからすれば、平凡なカクテルを一途に想えるその客は少し羨ましいとさえ思う。 (ああ、だから)  ウォッカだけじゃなく、ジンジャーエールとライムの仕入れも多くなっていた。理由を聞けば、納得する。 「ああ、今日も来てるな。ほら、あいつだよ。あそこの隅の席に座ってる――」  くい、と顎をしゃくる店主の視線の先を追う。  奥のテーブル席には、男が一人座っていた。 (……全然、気付かなかった)  店主が好きな女神の名前をつけた『ニケ』という名のこの酒場は、カジュアルさを売りにしていて単価も安く入りやすい。  そのせいか、来る客はどちらかというと陽気で交流を求めるものが多く、大体がカウンター近くの開けた席に座るからだ。  静かに飲みたい客もいるだろうと、なんとなく設置したその席はあまり使われることがなく、たまに店員ですらその存在を忘れそうになる。  レモンを使ったメニューと同じように。  もともと室内の照明は暗く落ち着いたものになっているが、その席は隅に設置したせいで灯りが届きにくく、ここからでは顔がよく見えない。  性別は男。歳はカイと同じくらいか。でも、体つきはカイよりもしっかりしているように見えた。 (あと、多分身長は俺よりもデカそう)  疲れているようで、一人用の小さなテーブルに肘をつき俯いている。 (どんなやつなんだろ)  純粋な興味だった。  一人で静かに、ただひたすらモスコミュールだけを飲む男。  大勢いる客のうちの一人に、カイは珍しく興味を惹かれていた。 「そういや、今日はまだ注文を受けてねぇな。またモスコミュールだとは思うが……悪い、カイ。聞いてきてもらっていいいか」 「わかりました」  仕事に対して真面目なカイは、雇い主である店主の頼みを基本断ることはない。  それでも、二つ返事で引き受けたのはその男への興味が勝っていたからに他ならなかった。 (あ) 「……あの人、モスコミュール好きなんですよね?」 「そうだと思うがなぁ。いつもそればかり頼んでるし、わざわざ嫌いな酒を頼むやつはいないだろ」 「ですよね~」 (……なら、いけるか?)  ふと、頭の中に浮かんだことがある。 「……」  にんまりと企んだ顔で一度裏へ引っ込んでから、カイはそっと男に近づいた。 「お待たせしました」  カクテル用のロンググラス。テーブルの上に静かに置くと、男の肩がぴくりと揺れる。 「まだ注文をしていないが」 (……)  声には不信感と威圧感が混ざっていて、瞬時にカイはこの男を「苦手だ」と思った。  さっと顔に笑顔を貼り付ける。  カイは店員で、この男は客。仕事をするのに、カイの個人的な感情はいらない。 「オニーサン、いつもモスコミュールなんでしょ?」 「なんで」  知っているんだ、と言いたいのだろう。  口下手なのか、それとも何も言わなくても伝わるような環境で育ったのか。  カイにとってはそれがどちらでも良かったけれど、いちいち言葉の先を考えてやらなければならないのは、正直に言って面倒だ。疲れる。  苦手だ、と感じたせいで、あれだけあったはずの男への興味はすっかり薄れ、今は早くこの場を去りたいとさえ思っている。  カイがこのテーブルに来てから、男は一度もカイを見ようとはしなかった。  まるで見る価値もない存在みたいな扱いも、カイの興味を奪い、神経を逆撫でする一因になっている。  店に来る客の皆が皆、良い人ではない。 (こいつと同じようなやつも、もっとひどいやつもたくさんいる)  視線を合わせないのなんか日常茶飯事なのに、それでも、どうしてかこの男の態度はカイの心の柔らかい部分をちくちくと刺激するようで気分が悪かった。 (とっとと離れるに限るな)  無理に近づく必要なんか、まったくない。  幸いにもカイの仕事は給仕で、これを置いていけばその願いは叶う。 「マスターに聞いた。んで、これ、モスコミュール。飲んでみて」  さっさとこの男の前から去りたくて、カイは多少強引に男の前にグラスを押し出した。ほんのちょっとでも口をつけて貰えれば、カイは「じゃあ」とその場を後に出来る。 「……」  少し躊躇するようなそぶりを見せたものの、男はカイに勧められるままグラスに口をつけた。一向に視線は合わなかったけれど、すでに男から興味を失ったカイにとっては視線の一つや二つもうどうでもよかった。  一口含んだ男は、はっと目を瞠り、そして残りを一気に呷ると勢いよくグラスを机に置く。  タンッ、と硬い音が広くない酒場に響く。 (あー、失敗したか?)  まるで叩きつけるような勢いと音に、カイの背中を伝うのは冷や汗だ。  男に出したモスコミュールは、いつも彼が飲んでいるモスコミュールではない。  本来、モスコミュールにはライムを入れるのが正しいレシピだけれど、このモスコミュールには処分に困っていたあのレモンを入れてある。味の違いは歴然で、相当の味覚音痴でなければ馴染みのない味に違和感を覚えるはずだ。  メニューにはないけど、サービスで出すならいいだろう。  この男が気に入れば、正式に店のメニューにしてもらってもいいかも。  人気のないレモンは単価も安く、美味しく使えれば店の利益になる。  ――なんて気楽に構えていたが、いつもと違うものを出されて男が怒る可能性を考えていなかった。  でも、モスコミュールとレモン、その二つが頭の中で混ざり合ったとき、カイはどうしてもこのレモンでモスコミュールを作らないといけないような気がしたのだ。  実際、自分で味見をしても、そう悪いものではないと思ったのだけれど――。  カイは大事になるより先に、事態を最小限におさめようと口を開いた。 「あー、えっと。オニーサン疲れてそうだったから、サービス。俺の特別アレンジなんだけど、さっぱりしてて軽く飲めるだ――」 「っ、海!」  突然手を掴まれて、カイはその勢いと男の手のあまりの冷たさに、へらりと笑っていた表情を強ばらせた。 「ひぃえっ……冷たっ!」  顔を上げた男と、視線がぶつかる。  あんなに合わないと不満に思っていた瞳が、今はしっかりとカイを見ていた。  綺麗な顔。  男の顔に対する第一印象はそれだった。  凜々しすぎない眉、すっと通った鼻筋、唇は薄めで柔らかそう。  カイをまっすぐに見つめる瞳は滑らかな紫色をしていて、少し前にお遣いで立ち寄った宝石店のショーウィンドウに、確か同じような色をした綺麗な宝石が飾られていた。  宝石になんて興味ない。でも、そんなカイが興味のない宝石を引き合いに出してしまうほど男の瞳は綺麗で、いいや瞳だけじゃなくすべての造形が整っていて、そんな気がなくても目を奪われてしまう。  あんなにカイを見ようとしなかったのに。  今は穴が空きそうなほど強い力でまっすぐに見つめられて、カイはたじろいだ。  一歩引いたカイを見逃さず、椅子から立ち上がった男は囲い込むようにカイをその腕の中に抱き締める。 「ああっ、海、海……っ! 会いたかった。ずっと、捜していたんだ。絶対にまた会えるって信じてた……!」 「はぁ!? ちょっ、おい、離せって……!」  男はカイの名前を呼んでいたが、その音はカイを呼んでいるようでいて、そうではないような気もした。  大体、カイはこの男にまったく覚えがない。  こんな美形が知り合いにいたら、たとえ一度挨拶を交わしたきりの間柄でも忘れないはずだ。 「あの後――あの後、海はどうなった? 俺はちゃんと海を守れたか? 真っ暗になっていく意識の中で、海の手のあたたかさはずっと残っていたんだ……海……」  感極まった男はカイを抱きしめたままその肩口をびしょびしょに濡らし、さらにカイの手を取り指先に口づける。 「ひっ」  ぞわりと鳥肌が立って、カイは手を引っ込めようとするけれど、男の力は思うよりも強く叶わない。 「本当に、ずっと会いたかった。捜していた……海。もう離れない、離さないって決めた」 (何、勝手に決めてんだ! 気持ち悪い!)  ぎゅうう、と強い力で抱き締められて苦しい。  ずっと会いたかった。  捜していた。  泣き腫らした目、真っ赤になった鼻。  カイを誰かと間違えている男は紫色の宝石を熱く潤ませて繰り返しカイに想いをぶつけてくるけれど、まったく覚えのないカイは突然のことに戸惑うばかりだ。 「なっ、なんなんだよ! 離せってば! あんた誰!?」  びくっ、と男の肩が揺れる。カイを見るその顔には、隠しきれないショックの色が滲んでいる。 「――もしかして、覚えていないのか?」 「覚えてないもなにも、俺はあんたと今日初めて会ったと思うけど!」  どこを探しても、カイの記憶にこの男はいない。 「……」  なのに、目の前でみるみるうちに元気をなくし萎れていく男を見ると、カイは自分が悪いことをしたような気持ちになってしまう。ただ、本当のことを言っているだけなのに。 「俺の……名前は清皇だ」 「セオ……」  その名前を口にしたとき、胸の奥がとくんと跳ねた気がした。  でも――。 「……やっぱ、知らねぇ。人違いだと思う」  期待を込めて瞳を潤ませ、縋るように熱くカイを見ていたセオは、その返事に切なく眉を寄せた。 「……そうか」  様子から察するに、セオはカイと同じ名前を持った人物を長い間探していたのだろう。  でも、そんな目で見つめられても、自分はセオの探す人ではないし、その人の代わりが出来るわけでもない。  残念だけれど、カイには何もしてやれないのだ。  人違いだとわかったはずなのに、セオはカイを抱き締める腕を緩めてはくれない。 「わかったら、いい加減離して――」  多少の身じろぎでは解けそうもない抱擁から解放されたくて口を開くけれど、言い終わるよりも先にセオの口からとんでもないことが告げられて、カイは固まった。 「俺たちは前世で恋人だったんだ」 「――ハ?」  前世? 恋人?  耳馴染みのない言葉でカイの動きを封じたセオの抱擁は、ますます強くなるばかり。 (こいつ、頭おかしい……!)  カイはセオを知らない。完全に人違いだ。  にもかかわらず、初対面のカイに向かって、前世だの恋人だの正気じゃない。  冗談を言っているようには見えなかった。  だからこそ、危ないと感じる。  真剣な顔でおかしなことを言うセオに恐怖を感じ、カイはその体を勢いよく突き飛ばして強引に腕の中から逃げ出した。  酒場内は今日も賑わっていて、奥まった場所で揉める二人のことなど些細な小競り合いだと受け流して誰も気に留めない。  カイは混み合った人波をかき分けるように店主のいるカウンターを目指し、はたとその足を止めた。 (やべ、金もらってない)  一連の出来事で、カイの頭は本人が思うより混乱していた。  カイが勝手にアレンジした、メニューにないモスコミュール。  サービスで出してやろうと思っていたこともすっぽりと頭から抜け落ちて、男がその酒を気に入ったかどうかなんてもうどうでも良かった。  品物と金を交換したら、給仕のカイの仕事は終わり。  さっさと金を回収して、さっさと帰ってもらわなくては。  踵を返し、ずんずんと音がしそうな程の勢いでテーブルへ戻るカイを、セオは何を勘違いしたのか嬉しそうな顔で見つめてくる。 (クソ、最悪だ。そんな顔で見るなよ!)  カイは混乱したままセオに向かって手のひらを突き出し、そして、すうっと大きく息を吸うと、腹の奥から大きく声を吐き出した。 「酒代!」

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