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待ち伏せとノワール
7 待ち伏せとノワール
「カイ、今度はあたしのお酒どう?」
「ありがと。なにをご馳走してくれる?」
ゆるりとBGMの流れる店内を、同じようにゆるりと流れるように歩きながら、カイは掛けられる声に愛想を返す。
『ノワール』
地下にあるこの店は、地上に構える酒場よりも随分と落ち着いた雰囲気のある店で、カイの働き先の一つでもあった。
他の店と違い、チップとワンドリンクで店員と話が出来るシステムがあるのが人気で、それを目当てに訪れる客も珍しくない。
他人と関わるのは極力控えたいカイだったけれど、それが仕事となれば話は別だ。
客だって、何も真剣に人生相談をしようってわけじゃない。
日常の中での些細な愚痴と、気軽な相槌。酒の肴につまんで話せるような適度な距離感が、ここを訪れる人にとっても、カイにとってもちょうど良いのだ。
(今日はここで終わりかな)
チップとワンドリンクで店員と話が出来るシステムといったけれど、無限に受けられるわけじゃない。
誘いがあれば、最低二杯は受けること。その先は個人の自由。
カイたち店員の仕事はあくまで給仕で、それができなくなるほど飲んで酔っ払うのは厳禁だった。
カイは酒に弱い方ではなかったけれど、特別強いわけでもない。
中には、酒が好きでただ酒が飲めるからと働いているやつもいたが、カイはそういうわけでもなかったので、二杯を受けた後は適当なところで誘いを断るようにしている。
この店には、店員皆に配られる揃いの制服が有り、白いシャツに黒いベストとスラックス。首元には黒色のリボンタイを身につけるのが決まりだ。他の酒場よりフォーマルな装いで統一感を出し、より高級な他にはない雰囲気を演出している。
首元のタイを外したら、今日はもう誘いを受けられない合図だ。
「……」
ルールに則りタイを緩めようと手を伸ばしたところで、カイは背中に突き刺さるような視線を感じた。
接客中から、度々感じていた悪寒にも近いそれ。
(……なんか、すっげぇ嫌な予感がするんだよな)
そして、その予感は絶対に当たっていると思う。
カイに透視の能力があるとか、そういう現実離れした話じゃない。
カイはその視線の主に心当たりがある。
いや、ありすぎる。
(いや、でも落ち着け。あいつとこの店で会ったことはないだろ)
ただの気のせい、きっとそう。
注文をしたい客が、熱心にカイに視線を送っているだけだ。
(……)
そうっと、後ろを振り返る。
振り返って、カイはすぐに後悔をした。
一人の男と目が合う。
多分、あ。と声を上げてしまったと思うけれど、そもそも男はカイに気付いているので、カイが一生懸命知らないふりをしたところで意味がない。
そそくさとその場を逃げ出したって、すぐに捕まってしまったことだろう。
「げぇ、なんでいるんだよ……セオ」
「海!」
一人用のテーブルについたセオが、カイに向かって小さく手を挙げた。
立ち上がり、大きく手を振ってこなかった辺りは、まぁ褒めてやらないこともない。
目立つようなことはするなとニケで散々躾けられたセオは、良い子にカイの言いつけを守っていた。
今以上セオのテーブルに近づかず、そのまま離れようとしたカイは、それを察知したセオにメニュー表をちらつかされて心の中で舌打ちをする。
「何度も言うけどさぁ、俺の名前はカイ、カーイ! お前の呼び方、なんか違う気がすんだよな」
音は一緒なのに、自分ではない誰かを呼ばれているようで気持ちが悪い。
誰か対応を代わってもらえないかと場内を見るけれど、同僚達は皆手一杯のようで、カイは諦めてセオのいるテーブルに近づき、ん。と顎で注文を催促する。
「ああ、わかってる。カイ、カイ……」
口の中で名前を転がし味わうように何度も呼ばれると、それはそれで居心地が悪く、カイは顔を顰めた。
「……ご注文は?」
「カイはこの店でも働いているんだな」
近づきすぎず、最低限声が聞き取れる距離を保ったまま注文を取ろうとするけれど、セオは思いがけずカイに会えたことが嬉しいのか、まったく別の話をし始める。
「ご・ちゅ・う・も・ん・は?」
ただでさえ、さっさとこの場から去りたいのに、脱線した話に時間を取られるのは迷惑だ。
仕事を遂行すべく、セオの言葉には答えず語気を強める。
もっとしつこく食い下がってくるかと思ったのに、セオはカイに三度目の催促をされる前に、もうすっかり耳馴染んでしまったカクテルの名前を口にした。
「モスコミュールを二杯」
「……」
(だろうね)
予想通り。聞かずともわかっていた答えだったが、たとえ毎回同じ答えでも聞くのがカイの仕事だ。
面白みがないな、といつでも変わらない注文をマンネリに思うと同時に、定番の酒が好きだと店によってメニューにない……という心配がないのだと気が付いた。
なくてがっかりすることもないし、ある意味ではこういう酒を推すのが外れがなくて正解なのかもしれない。
それにしても、二杯注文する場面に遭遇するのは初めてなんじゃないだろうか。
一度に二杯なんて、おかわりの時間も待てないのだから、相当好きなんだなとあきれを通り越して感心してしまう。
「少々お待ちください」
べったりと貼り付けた仕事用の笑顔で一礼し、その場を離れる。
「ねぇ、一杯どう?」
「ごめん。今手が空かないんだ。また今度お願い」
カウンターで二杯分のモスコミュールを作り戻る道すがら他の客に声を掛けられて、カイは自分がタイを外し忘れていることに気がついた。
セオの登場に気を取られてすっかり忘れ去られたタイは、カイの首元で中途半端に緩んだまま留まっている。この酒を届けたら、すぐに解かなくては。
セオのテーブルに行くのは、正直避けたい。どうしても行きたくないというわけではないけれど、行かなくていいなら是非そうしたいと思う。
一瞬、同僚に運ぶのを代わってもらおうかとも考えた。
それで、自分はそのまま別のテーブルの誘いに乗ってフェードアウト……なんて情けない考えが頭の中に浮かんだのも否定しない。
でも、中途半端に同僚に仕事を押しつけるのも気が引けたし、なにより逃げたと言われても仕方のないその行動をセオがどう受け取るかと考えるとすっきりしなくて、結局カイはセオの待つテーブルに戻ることにした。
仕事に対して真面目だと言えば聞こえが良いけれど、結局のところ、セオを突き放したいのに自分が悪者にもなりたくない、中途半端に自分勝手なだけだ。
「お待たせしました」
二杯のモスコミュールを並べ置くと、セオはグラスの片方だけを自分の前に引き寄せ、薄く笑みを浮かべる。
「……なんだよ」
「一杯は君に」
微笑みと共に、もう片方のグラスがカイの前に押し出された。
「少し付き合って欲しい」
「……悪いけど、そういうサービスは」
「ここには、そういうシステムもあるみたいだけど」
わざとらしく周囲に視線を送ってセオが言う。
(最悪だ)
後でなんて言わずに、さっさとタイを外しておくんだった。そう後悔しても、後の祭り。
システムのことはメニューにも書いてあるし、カイのタイはまだついたまま。
セオはルールを守っている。
店内には同じように楽しむ客がいて、誤魔化しは通用しない。
「……」
ちっ、小さく打った舌の音は、セオにも聞こえただろう。
「君と……カイと話がしたい」
テーブルの上に置かれる数枚の紙幣。セオとチップとを交互に見比べて、カイはふっと息を吐き出した。
「……これを飲み終わるまでな」
仕事だから。
だから、付き合ってやるだけ。
この一杯に付き合えば、明日の朝食にはいつもは迷って買わないバターがたっぷり練り込まれたデニッシュが買える。
意地悪く一気に飲み干してやろうかとも思ったが、そうするにはカイは優しすぎた。
それに、そう雑に扱っては、せっかく作ったカクテルにも悪いような気がしてしまう。この酒には、何の罪もない。
チップをベストの裏へ差し込み、カイはグラスを持ち上げた。同じようにグラスを持ったセオがそれを近づけ、カチ、と小さく乾杯の音が鳴る。
「乾杯」
「……乾杯」
喉を落ちていくモスコミュールは、あたりまえだけれどライムの味がした。
相変わらずセオはカイをじっと見つめていて、その視線を居心地悪く感じる。
毎回毎回、何の代わり映えもしないのによく飽きないもんだと思う。穴があきそうだ。
「カイは、この街の生まれ?」
「んー? いや、生まれはもっと田舎の方だよ。ここから歩いたら一ヶ月はかかるような、山一つ越えた西の外れのほう。十八のときに出て来たから、この街で暮らしてもう四年経つな」
指折り数えて、自分でもびっくりする。
この街に来てからの四年は、毎日生活するのに必死で、本当にあっという間だった。最近になって、ようやく慣れてきたような気がする。
「そうか……ということは、二十二歳……俺がもっと早くここに来ていれば……いやでも一年は同じ土地に……」
何で今まで気づけなかったんだとぶつぶつ独り言ちるセオを横目に、カイは静かにグラスを傾けた。
「年下のカイもいいな」
「は?」
「ああ、いや、なんでもない。ちなみに、俺は二十四だ。この街には一年ほど前に仕事で。今は、中央広場の前にある商店で働いている」
「へぇ」
中央広場には、街の中でも大きく力のある店が集まっている。この街の流行は、そこから発信されると言っても過言ではないくらいだ。
中でもセオの言う商店はいち早く建設業に手を出したところでもあって、現在進行形でその事業を拡大していた。
間違いなくこの街で一番影響力があると言っていいだろう。
そこで働いているとなれば、連日こうして酒場に通えるのも納得だ。
今は安価で楽しめる店も増えているけれど、酒は決して安いものではなく、カイのような平凡な人間では週に一度ご褒美で飲めるかどうか。
「まさか、この店でもカイに会えるなんて驚いた。ここにもニケにも結構通っていたつもりだったが、君がいるなんて知らなかった」
思いがけず会えたことに、セオは喜びを隠さない。
「まぁ……俺も毎日同じ店にいるわけじゃないし」
カイのような働き方をする人は、案外多くいる。
そして、その誰もがカイと同じように毎日同じ店で働くことはしなかった。
――こうして、客に付き纏われることを防ぐためだ。
酒は少なからず、思考を麻痺させる。酒に強い、弱い関係なく。
酒にのまれ正気を失ったとしても、それは客の責任でカイ達は何も悪くない。それでも、こういう店で働く以上、自分で身を守る努力もしなければならないのだ。
だから、カイもそう努力してるっていうのに、この男は――。
「他にはどこの店で働いているんだ?」
「教えねぇ」
(言うわけねぇだろ)
べっと心の中で舌を出す。
「ガードが堅いな」
「そのうち、またどこかで会えるよ。オニーサンと俺にご縁があったらね」
にっこり。そんなこと少しも思っていない上辺だけの笑み。
社交辞令のつもりだったのに、セオはその言葉を真に受けて自分に都合良く解釈したらしい。
「そうだな。同じ街にいてこれまでずっと会えなかったのに、このタイミングで再会したんだ。そして、この店でも会えた。カイがどの店で働いていても、きっとまたすぐに会える」
「……」
(こいつ、ポジティブに捉えすぎだろ)
“再会”の部分は、聞かなかったことにする。
でも、確かに奇妙な縁ではあった。
四年前、この街にやってきたときからカイはニケでもこのノワールでもずっとお世話になっている。
一年前にやってきたとはいえ、どちらにもセオは通い慣れているようだったし、今まで一度も出会わなかったのは奇跡のようなものだ。
(つって、ほんとは会ってたかもしんないけどさ)
セオがカイを探し人と意識したのは、カイがレモンのモスコミュールを出したのがきっかけだ。そうしなければ、あの日、セオはカイに気付くことはなかったかもしれない。
(いや、違う。気付くとか、違うじゃん。だって、俺はセオの探してるやつじゃないし、人違い……)
いずれにしても、ここで働いていることがばれてしまった以上、セオとはこの店でも頻繁に会うことになるだろう。
(それにしても)
どこの店でもモスコミュールばかり。
やっぱりモスコミュール愛好家は違う。
ただ、好きな割に酒にはそこまで強いわけでもないようで、視線を上げた先の男の顔は、暗い照明の中でもわかるほどほんのりと赤くなっていた。
もう一、二杯飲んで、帰る頃にはいつものように真っ赤になっているのだろうと思うと、どうにも憎めなくなってしまう。
(いやいや、憎めないって、憎めないってなんだよ。人違いで付き纏ってくる変なやつだぞ。おかしいって、俺)
珍しく、酔っ払ってしまったんだろうか。
セオは初対面のカイに向かって、前世とか恋人とか言ってくる変なやつだ。
人違いだと何度この男に言ったか、カイはもう忘れてしまった。数え切れないほどに否定しても、セオは少しも聞きやしない。
カイが否定するたびに、セオは
『わかってる』
って、何もわかってない返事をして、カイの前に現れる。そんなおかしなやつなのだ。
少し愛嬌を感じたくらいで絆されるな。
「あんた、街中の酒場を回ってるのか?」
ニケでよく会うから、あの店のモスコミュールが好きなのかと思っていた。
でも、この店でも会ったということは、必ずしもニケのモスコミュールがいいというわけでもないのだろう。
街中の酒場を回って、好みのモスコミュールを探しているのかもしれない。
「いや、回ってるって程じゃない。気分によって店を変えることはあるが……最近はお気に入りの店があったんだがな」
なんとなく含みを持った言い方でじっと見つめられて、カイは「へぇ」と素っ気ない相槌で受け流す。
(その店って絶対ニケじゃん……俺がいるから)
はん、と鼻で笑ってしまうような自意識過剰びっくり発言だけれど、残念ながらこれは間違っていない自信がある。悲しいけど。
「今日はカイのことをゆっくり考えたくて――ここは他の店と比べて幾分静かだから。そうしたら、君がいたんだ。運命かな」
ぶわっと全身の毛が総毛立つのを感じた。
「……あーっそ。随分、軽い運命もあったもんだ」
前世に恋人。今度は運命なんて言葉まで飛び出して、カイはぞっと肩を竦める。
勘違いもここまでくると、いっそどこまで行くのか行方を追ってみたくなるもんだ。
「今日は何時に上がるんだ?」
「んー、どうかなぁ」
「ラストまで?」
「そこまではいないかも?」
たとえセオを憎からず思い始めていたとしても、絆され始めていたとしても、それはあくまで店の中でのこと。
仕事上、顔なじみになっただけで、プライベートまで付き合うつもりはない。
「そろそろ、適当に上がるかもね」
なんて、嘘だった。
カイの勤務はラストまでで、今日は鍵締めも任されているからいつもよりも遅くなるだろう。
でも、それをセオに教えるつもりはない。
ぐっ、と一気にグラスの残りをあおり、すでに空になっていたセオのグラスも掴んで席を立った。
「ご馳走様。また来てよ」
適当にはぐらかし、最後にリップサービスをつけてセオを追い出す。
「もう一杯」とか粘られるんじゃないかと思ったけれど、カイの予想を裏切り、セオは「また」と小さく手を挙げて、おかわりをすることもなく店をあとにした。
「……あ、うん」
(……なんだよ。随分あっさりしてんじゃん)
すんなりと受け入れられて、拍子抜けする。
客と店員の関係なんて、そんなもんだ。それが普通。
しつこくされたらされたで迷惑に思うくせに、あんまりにもあっさりと引き下がられれば、それはそれで面白くないなんて、自分はいつからそんなに自分勝手になってしまったのだろう。
(よかったじゃん。付き纏われなくてさ。変なこと、言われなくてさ)
前世とか、恋人とか、運命とか。
(……言われなくて、よかったじゃん)
カイを通してカイじゃない誰かを見ているセオの紫色は、今頃、その瞳一杯に星空を映しているだろう。
(迷惑だったんだし……)
物足りないなんて、寂しいなんて思ってない。
(全然!)
「カイ、この後どっか寄ってかねぇ?」
そんな、なんとも消化しがたい気持ちを持て余していたら、いつの間にか閉店時間になっていた。
「ん~今日は疲れたし、まっすぐ帰りたいかなぁ」
「そう言って、いつも付き合ってくんねぇじゃん!」
「はは」
(毎回断ってんだから、こっちは察して欲しいんだけど……つか、肩組んでくんなし)
軽く掃除を済ませ、同じくラストまでだった同僚と店を出る。
施錠をして、他愛ない会話と一緒に地上へ続く階段をのぼりきったところで、カイの目がぎょっと見開かれた。
「セオ!?」
扉の外、灯りの消えた看板の隣に、数時間前に見送ったはずのセオが立っていた。
「カイ! ……」
カイの姿を目に、ぱっと顔を輝かせたセオは、けれどカイの肩に回された同僚の腕を見て、途端に顔を顰める。
(なんだ、不機嫌?)
むっと引き結ばれた唇。眉間に深く寄った皺。
(……あ)
咄嗟に視線を逸らしたのは、原因に思い至ったからだ。
(俺が嘘ついたから、だよな)
「あ、あ~……何してんだよ。こんなところで」
こんな時間に。
なんて、白々しい。
セオは待っていたのだ。カイが、もうすぐに上がると言ったから。
正確に言えば疑問形だったけれど、カイの適当な嘘を本気にしてセオは待っていたのだ。
カイが出てくるまで、ここで、何時間も、ずっと……。
(いや、でも)
それは、カイの都合の良い勘違いかも。
「っなに、まさか待ってたなん――」
「待ってた」
「はぁ!?」
「本当は、帰ろうと思ったんだ。迷惑だろうってわかっていたし。でも――もう少しだけ一緒にいたいと思ってしまった」
だから、ずっと待ってた。そう言うセオの鼻の頭は酔いだけではなく赤くなっていて、開いた唇からは白い靄がわずかに漏れる。
この国は一年を通して気温の変化が少ないけれど、山間にあるこの街は、昼と夜の寒暖差が大きい。
日が沈んでからの時間よりも、日が昇るまでの時間を数える方が早いこの時間は、中でも一番気温が低くなる頃だ。
そう上手くないセオの笑顔が、今は冷えてさらに堅くなっていて、カイは自分の吐いた些細な嘘に罪悪感を覚える。
「カイ? どした、揉めてる?」
警備呼ぼうか? と、背中から同僚の心配する声が聞こえて、カイははっと我に返ると、ははと愛想笑いを浮かべた。
「あ、あー……ごめん、待ち合わせしてんの忘れてたわ! わり、俺こいつと帰るから、またな!」
セオの肩に腕を回し、ぐいと強く引き寄せるとその場を歩き出す。
「カイ」
「しっ、黙ってついてこい。あいつちょっとしつこくて、面倒なんだよ」
耳元へ唇を寄せ、内緒話のように囁けば、びく、とセオの体が一瞬強ばる。
「……」
こっくりとゆっくり頷いたセオが、無言で腰を抱いてくるのを調子に乗るなと振りほどいてやりたかったけれど、そうすることでまた同僚と関わることになるのも面倒で、カイは二つを天秤に掛けた結果、ここから離れるまではそのままにすることにした。
「あんた、家どこ?」
「送ってくれるのか?」
「チップの分な。サービスしてやる」
何度か路地を曲がったところで肩に回していた腕を外し、腰に回ったセオの腕を引っぺがす。
追ってくる手を叩き落としても、セオは嫌な顔をすることなく、むしろ少しの笑みさえ浮かべていた。
カイが自ら『送る』だなんて言い出したのは、全部が善意ではない。
同僚の誘いを断った手前、少し遠回りして時間を稼いで帰りたかったのと、寒い中待たせてしまったことへの償いをして自分が楽になりたいだけだった。
ただ、それだけ。
セオの気持ちを慮った部分は少しもない。……と思う。
「俺がカイを送っていきたい」
「あ?」
「送っていきたい」
「……お前」
(そう言って、まさか俺の家の場所を突き止めようって魂胆じゃないだろうな)
じと、とカイは疑わしさを隠さずに目を細めてセオを見る。
今日、ノワールで会ったのが偶然とわかってはいても、初対面の印象が強すぎて、本当は偶然じゃないんじゃないか? と疑ってしまう。
か弱い女性でもないし、別に家を知られたところでどうってことはない。
いざとなれば引っ越せば良いし……とは思うけれど、カイを渋らせるのは別の心配事だった。
カイが暮らす家は、お世辞にも綺麗とは言えない。
不潔とか不衛生とかそういうことではなく、見た目に年季が入っているのだ。
首都の経済は潤っていて、暮らす人はそれなりに豊かな生活を送っている。とすると、家もそこに住む人々に合わせた価格と設備に自ずとなってくるけれど、中心部を少し離れると安価な家賃で暮らせる場所もあった。
けれど、そこは安価ではあるものの価格相応といった状態で、自分一人で暮らすには良いけれど、誰かを招くとなると二つ返事とはいかず躊躇してしまう。
見たところ、セオは良い身なりをしていて、頻繁に酒場に通っているくらいだからその暮らしぶりも豊かに見える。
首都の、それも酒場をいくつも掛け持ちで働くカイの経済状況だって決して悪くない。
悪くないけれど、そんなセオに自分の生活を見られるのにはどうしても抵抗があった。
それに――。
(これ以上セオと深く関わったら、なんかダメな気がする)
家なんて一番カイの内側に近いところ、そんなところに一度でも招いてしまったら、この先この男を今と同じように突き放すのはきっと無理だ。
「悪いけど、それはダメ」
「……」
不服そうに、セオは足を止める。
まるで、散歩が楽しくて帰りたくないと駄々を捏ねる犬のようだ。
「嫌なら、ここでバイバイだ」
「送ってくれ」
歩みを止めないままひらひらと手を振って進んでいくと、焦ったセオは早足にカイの隣に並ぶ。
ほんの数歩で追いつかれてしまうリーチの差が悔しいが、間髪容れず、でも渋々了承する様子がかわいくて、少し笑ってしまった。
「つか、良いとこ住んでんねぇ……」
予想通りと言えば、その通りなのだけれど。
案内されるままについていったセオの家は、街の中心部に近い所謂高級地にあった。
一つ意外だったのは、場所の割にその家があまり広く大きくないことだ。周辺の家は、その財力を誇示するかのように豪華に飾り立てられ、庭も広い。
それでも、カイの住む家と比べれば小さくなんて全然ないのだが。
「……誰かと一緒に暮らしてるのか?」
「いや、一人だ。安心して良い」
「何に?」
聞いたのは一人で暮らすには大きいんじゃないかという純粋な疑問からで、他にも住人がいるだろうと思ったからだ。
なのに、何を勘違いしたのか目の前の男は機嫌良く目を細める。
「嫉妬してるのかと思って」
「お前が誰かと暮らしてたら? はぁ、んなわけあるか」
「大丈夫だ。俺にはカイだけだから」
昔も、今も。
ひそ、とさっきカイがしたみたいに耳元で内緒話をされて、カイはくすぐったさに首を竦め、真っ赤になっているであろう耳を覆い隠した。
「あーっ、だから俺はお前の探してるカイってやつじゃないっての!」
どさくさに紛れてまた腰を抱かれ、不埒な手の甲をぎゅっとつねるけれど、セオはどこ吹く風だ。
「寄っていかないか? 酒……はもういいな。冷えただろうし、お茶をご馳走する」
(冷えてんのは、お前の方だろ)
あんなところでずっと待ってて。
とっとと見切りをつけて帰れば良いのにさ。
「嫌だよ。お前、どさくさに紛れて変なことしてきそうだもん」
現に、今も隙あらば抱き寄せようとしている手の動きが見える。
なにより、それで流されてしまいそうな自分が一番不安だ。
「じゃあな」
送る、というお詫びは果たしたわけだし、これ以上の長居は無用だろう。
「カイ」
「ひっ、お前……!」
セオの手は、今日も冷たい。
「手が冷たいんだって! 急に掴むなよ、びっくりする」
「また、会いに行く」
繋ぎ直された手からカイの温もりがセオへ移って、氷のような冷たさが、じんわりと溶けていく。
「……ありがとうございます、オキャクサマ。またお待ちしてます」
にっこり、社交辞令の営業スマイル。それに、今度のセオは嬉しそうにはしなかった。
繕ったカイの態度を不服そうにしていたけれど、カイはそのままセオの家を後にする。
「……」
じん、と手のひらに冷たさが残っている。
そんな冷たさとは比べものにならない熱い視線を背中に感じながら、それでもカイは一度も後ろを振り返らなかった。
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