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嘘つきとモスコミュール

   8 嘘つきとモスコミュール  東の空き地に建設されている建物は、日に日にその高さを増しているらしい。  付近のどの建物よりも大きくそびえ立つそれは、ここニケでも話題に上ることが増えた。 「あの建物、どこまで大きくなるのかしら。旦那が現場で働いてるんだけど、守秘義務だって全然教えてくれないのよ」 「ん~。でも、内緒にされてた方が、実物を見たときに感動が大きいんじゃない? 旦那さんも君にサプライズしようとしてるのかも」 「やだぁ、そうかしら」 「そうそう」  客の話に適当な合いの手を挟むカイの背中には、先ほどから一つの視線が痛いほどに突き刺さっている。  どうにかして会話を引き延ばしつつ、控えめに呼ばれる名前も聞こえないふりで無視を決め込んでいたのだけれど、ついにシャツの裾を引かれてしまって、カイは渋々振り返った。  振り向きざま、睨み付けるなんて接客業にあるまじき態度を取ったのは、そこにいる客が誰なのかを知っているからだ。 「……セオ。お前、また」 「ああ。カイが待ってるって言ってくれたから来た」 「ちっ」 (っがうんだよなぁ……!)  セオを送り届けた日から、もうひと月が経った。  お世辞にも丁寧とは言えない上辺だけの営業トークを、今回も自分にだけ都合良く受け止めたセオは、あれからも度々カイの働く酒場を訪れては話しかけてくる。  出会って最初の頃はそれこそ会わない日はなく、一日と開けずに通ってきたセオも、今はだいぶ仕事が忙しいようで、突然ぱったりとやってこなくなることもあった。 “また”とは言ったけれど、実際にセオの顔を見たのは一週間ぶりだ。 「いや、俺が言いたかったのはそうじゃなく――」  待ってない。  勝手に勘違いするな。  顔を見て胸がほっとした気がするのだって、急に振り返ったから脳みそが少し誤作動を起こしただけ。  心の中で言い訳を連ね、迷惑だと続けようとしたカイの出鼻は現れた大柄な男によって遮られた。 「お。セオ、いらっしゃい。久しぶりだな」 「マスター。お邪魔してます」 「まぁたカイに会いに来てんのか。こいつは見かけによらず頑固だからなぁ。アッハッハ! 頑張れよ」 「ああ、ありがとう」  店主の大きな手にバシンッと大きく背中を叩かれても、セオは動じることなくこくりと深く頷く。 「マスター! お前も、なぁにがありがとうだ。ったくもう、注文は!?」  お決まりになった奥の一人席で、これまたお決まりになった小競り合いをする二人を見て「相変わらず、仲が良いこった」と店主が笑う。 「マスター、本当にやめてくださいってば!」 (俺は迷惑してるんだ。こいつと仲が良いなんて、やめてくれ……!)  今日は急遽欠員が出たせいで人手が足りず、珍しく店主が給仕に回っていた。  豪快で気の良い店主は、周囲からの人望も厚く話しやすい。  そのせいか、場内は店主を中心に人が集まり、いつもよりも熱気が増して盛り上がっているように思えた。  今日の売り上げは、ここ最近で一番になるだろう。 「モスコミュール」 「と?」 「……じゃあ、生ハムとチーズのスライスにキノコのパスタも」  店に来たセオが酒しか頼まないことに気付いたのは、彼に出会ってしばらくしてからのことだ。 「酒だけじゃなくて、何かお腹に入れた方が良いんじゃないか?」と余計な世話を焼いてしまったのはほんの気の迷い。  けれど、カイの言葉を素直に受け入れたセオは、それから酒以外にもいくつかのつまみと食事を一緒に注文するようになった。  ただの客にそこまでする必要はない。  飲みたいなら飲ませておけ。  そう思うけれど、その余計なお節介で店の売り上げは増えたのだから、結果的には良かっただろう……と、カイは自らの中に芽生え始めた気持ちを見ない振りで追いやった。 「ん。以上な」 「あ、カイ……」  注文を書き付けた用紙をさっとちぎり取り、カイはセオの呼ぶ声を無視してテーブルを離れる。  注文通りの品物をテーブルへ運び、並べ置く間もセオは何かを言いたそうに視線を寄越していたけれど、カイは横顔でその視線を遮りさっさと仕事へ戻った。  カイが、いつ、どの店で働いているか。  セオにはもちろん教えていない。  それなのに、セオはカイがどの店で働いていても必ずと言っていいほどやってきた。  同僚や店主にも絶対に(カイにだけは)教えないように徹底していたが、そんなこと、この男には関係ないのかもしれない。  一つの店に行き、そこにカイがいなければまた別の店へ。  そうして、セオは店舗を回り都度やってくるので、酒場での二人のやり取りはもはや名物のようになってしまっている。  あの日以来、待ち伏せをされることはなくなった――というよりも、店に通うのを許可する代わりに待ち伏せはもうしないように約束させた。カイなりの妥協案だ。  今のところセオは約束を守っているけれど、カイの上がり時間を窺って遅くまで店にいるので、結局は意味がないような気もしている。  そんなこんなで、セオがいないときでも話題を振られたり、今日は来ないのか? とからかわれたり。  同僚も客も関係なく、そんな周囲の対応にカイは疲れて、若干居心地の悪い思いをしていた。 (ちょっと態度悪かったかな)  何か言いたそうにしていたのを、遮ってしまった。  でも、居心地悪く思ったカイが、むしゃくしゃした気分をぶつけるように無下にしても、セオは気にしていない……ように見えた。  実際には思うところがあるのかもしれないけれど、カイのように子供じみた態度で示すようなことはなく、店の中でカイを見つければ嬉しそうに「カイ」と呼んで小さく手を挙げる。  ノワールに来れば、最初の一杯を必ずカイと共にしたがった。  その一杯を飲みきるまで、カイの時間はセオのものになる。  客の酒に付き合うのは義務じゃない。  義務じゃないけれど、仕事として求められると断りづらく、丁寧に対応してしまうのはカイの生まれついての性だろう。  それ以外、何もあるわけがない。  特別な感情なんか、持っていない。  さっさとタイを外してしまえば良いのにそうはせず、律儀に付き合ってしまう自身の本心をカイは否定したかった。  セオに惹かれている。  そんなこと、あるわけないと――。 (そうだ。ありえない)  相変わらず、セオが見ているのはカイを通した別の誰かだ。  紫の宝石に見つめられるのが、前よりも嫌じゃなくなっていることに気付きたくない。  カイを映さないその瞳を、寂しいと思う自分を認めたくない。  セオに名前を呼ばれるたびに、逆撫でされるようにちくちくと痛んでいた胸の奥が、今はうずうずともどかしい気持ちになるのはきっと疲れているからだ。  頭のずっと奥の方で、セオのようでセオではない誰かがカイを優しく呼んでいるような気がするのも、何の根拠もない勘違い。  きっぱりとセオを突き放すことも出来ず、かといって受け入れることも出来ない中途半端な自分。  セオが捜しているのは、カイじゃない。  その人にもっと似ている人物が現れたら、セオは今までのしつこさなんて嘘みたいに、あっさりとカイの前からいなくなる。  万が一このままの関係が続いたとしても、商店に勤める高給取りと、酒場を掛け持って働くなんの取り柄もない自分とではまったく釣り合わない。 (関わりたくない)  そうすれば、こんな思いもしなくてすむ。  頭の中を、胸の中を、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられないですむ。 「……行きたくねぇ」  セオに、会いたくない。  その日、カイは初めて仕事を休んだ。  この街にやってきてから、そんなことは初めてだった。  仕事に真面目なカイが休みを申し出れば、店主はこれ以上にないほど大きく目を見開いたけれど、深くは聞かずに「ゆっくり休め」とカイの頭をひと撫でしてくれた。  いつもなら「子供扱いしないでくださいよ」と噛みつくところだが、今日ばかりは心地よかった。 「はぁ……」  自宅のベッドに突っ伏して目を閉じる。  こんな時間にベッドに横になったのは、いつぶりだろう。  酒場の喧噪は、ここにはない。  家にいても、いつも家事をしたり何かしら動いているから、何の音もしない空間で、ゆっくり体を落ち着けるのも久しぶりのような気がする。  手持ち無沙汰でいることを落ち着かないと思うのに、体はベッドに沈んだまま何もする気になれなかった。  幸い、ほとんど寝に帰るだけの部屋は物も少なく、散らかっていないから掃除は次の機会で良さそうだ。  洗濯物が少し溜まっていたような気もするけれど、今日はこのまま、せっかくのお天気を無駄にすることしか出来ないだろう。  ごろごろんと裏に表にひっくり返ることを繰り返していると、コンコン、とドアをノックする音が聞こえたような気がした。 (……?)  カイの家を訪れるものは、ほとんどいない。  両親を亡くしてこの街に来たカイに家族はもういないし、仕事上付き合いのある人達はいても、友人と呼べるような親しい間柄の人はいなかった。  人口に対して土地の少ないこの地は建物同士の距離が近く、年に数回、隣家と間違えられるくらいで、カイは気のせいだろうと無視を決め込む。  すると、ノックに続いてあることも忘れていたドアベルがガロンと錆び付いた音を立てた。 (マスターかな……)  この家を知っているのは、ニケの店主くらいだ。他には、誰にも教えていない。  欠勤を申し出たときの、店主の顔を思い出す。  こんな休み方をしたから、心配をかけてしまったのかもしれない。  そうなれば、このまま居留守を決め込むわけにもいかず、カイは億劫な体に鞭打ってのろのろと起き上がり、誰と確認することもなく丸いアーチを描く木製のドアを開けた。 「はい……」 「カイ! 大丈夫か!?」  ドアの先にいたのは、店主ではなくセオだった。  開いたドアの隙間から、ごおっと濁流のようにセオの声が流れ込んできて、あまりの勢いにびっくりしたカイは開きかけたドアを思い切り引っ張った。  けれど、それは閉まる寸前に挟まれたセオの足によって叶わず、カイはさらにパニックになる。 (なんで!?)  なんで、セオがここにいるんだ!? 「おまっ、なんで!?」 「マスターにどうしてもって頼み込んで、教えてもらった」 「はっ……はぁ……?」  狭い隙間をなんとか確保したセオの足は、ぐりぐりと徐々にその幅を押し広げ、どうにかして閉められまいと奮闘している。  今日も今日とてカイを捜して酒場をはしごしたセオは、どの店にもカイがいないことを不審に思い、ニケの店主にカイの所在を尋ねた。  そこでカイが体調不良だということを知り、いてもたってもいられず、ごり押しで店主からカイの家の場所を聞き出し、今に至る……ということらしい。 (マスター!)  ドアノブを握る手を緩めないまま、カイは心の中で頭を抱えて崩れ落ちた。 『ハハッ、悪ぃな!』って、悪びれもなく笑う店主の顔が脳裏に浮かぶ。  絶対に教えないでくれってお願いしたのに。  こんなことなら、休むんじゃなかった。  セオに会いたくないから休んだのに、会わないどころか家までばれてしまって、代償が大きすぎる。 「カイ、心配なんだ。治療院に行った方がいい。俺もついていくから」 「いやっ、いい……! 大丈夫だから手離せよ、足引っ込めろって……!」  心配だと言うセオの力は強く、大丈夫だと言っているのに一向に離してくれない。  ドアは閉まるどころか少しずつ開いていくばかりで、カイは引っ張る手の力を強めた。  治療院に行ったって、カイを診察した医士は首を傾げるだけだろう。体に悪いところなんかないのだ。  ただ、セオと会いたくなかっただけ。  考えすぎてショートした頭を冷やしたかっただけなのに、距離を置きたい当の本人が来てしまっては、落ち着くものも落ち着かない。  セオが帰ってくれるのが、一番の治療だ。  言ったら、休んだ理由を吐かされそうで口には出せないけど。 「痛……っ」 「っ、セオ!?」  とにかく、セオと距離を取りたい。  その一心で、ドアを閉めようと力の限り奮闘していたカイは、セオの声を聞きはっと我に返る。  咄嗟に手を離してしまえば、力のバランスを失ったドアは大きく開かれ、カイの体は開く扉とは反対方向へ投げ出された。 「カイ」 「うっぷ……!」  後ろへ倒れるすんでのところでセオが腕を引いてくれたおかげで、カイは硬い床ではなく、それよりも幾分かは柔らかいセオの胸に顔面から受け止められる。 「お、お前、騙したな……!」 「騙してなんかない。本当に痛かった……少しだけ」  カイを腕に抱いたまま図々しく家の中に入ってきた侵入者に、ふっと勝ち誇った笑みを浮かべられて、カイはぐっと奥歯を噛んだ。 「かえ、っ……な!?」 「熱は……ないな」 「ちょっ、変なとこ触るな、あっ……!」  あちこち大事ないか確かめられて、思わず出てしまった声をのみ込むように口を押さえる。 「カイ」 「……それ以上何か言ったら、出禁にする」  ちら、とセオを窺い見ると、カイの反応に目を瞬かせつつも溢れ出る嬉しさを隠し切れていない。  カイは真っ赤になった顔を隠すように、セオの胸に額を押しつけた。 「やっぱり熱がある?」  わかってるくせに白々しくそう言われて、硬い胸をひとつ叩く。  そうしても、相手は少しのダメージも感じていないどころか、頭頂部に頬ずりをされてカイは余計に面白くなくなった。 「……熱はねぇし、体の調子も悪くない」  お前に会いたくなかっただけなんだから。  とん、と胸を押し、体を離す。伸びてきたセオの手を躱すようにしてカイは身を翻した。 「とりあえず、上がれよ」  そう言わずとも、セオの体はすでに家の中。  追い返し作戦は失敗に終わり、こうなってしまっては、もうどうにでもなれだ。 「何飲む? つっても、大したもんないけど……」 「いいのか?」 「せっかく来てもらって、そのまま帰すわけにもいかないだろ」  望んで来てもらったわけではないが、一応は客人だ。 「なんでもいい」 (……そういうのが一番困るんですけど!)  そもそも、客を招くようには出来ていない家だ。なんでもいいって言ったって、選べるほどのものはない。  カイの住むこの家は、玄関を入ってすぐにキッチンがあり、キッチンの奥にある扉の先が居室になっていた。  先にセオを居室へと案内してから、自分はキッチンに戻る。  物にも、人にも、自分自身にも。様々なものに、カイはこだわりがなかった。  この家の家具もすべてニケの店主からもらったもので、多少古く傷がついていても使えればそれでよかった。色や素材の統一感なんて二の次で、自分であれこれ考えて選ぶ手間が省ける分、選択肢が少ないことをありがたいと思うほど。しかも、ただでもらえるのだから、感謝以外に言葉はない。 (確かもらった茶葉……げっ、湿気ってる……あー、水? いや、仮にも客に水ってどうよ……あ)  街で人気のコーヒーや紅茶などの嗜好品をたしなむわけでもないから、おしゃれな茶器や道具だって揃っていない。  がさごそと棚を漁ってみても、奥を見れば見るほど使えない物ばかりで、カイは迷った末にいつもの“あれ”を出すことにした。  店で消費しきれなかったレモンが、持ち帰ったままになっていたのを思い出したのだ。  あの日――一番最初にレモンでモスコミュールを作った日から、レモンを見るとどうにもセオの顔がちらつくようになっていた。  処分するのが忍びなく、余れば持ち帰るようになっていたのだけれど、ひとつが大きいせいでカイ一人でどう消費しようか悩んでいたところだったから、ちょうど良い。  慣れた手付きで、カイはモスコミュールを二人分作る。毎日のように作っているそれの作り方は、何を考えずとも体が覚えている。  だから、レモンを見てセオを思い出す理由も、突然押しかけてきた迷惑な客にわざわざ手間のかかる酒を作ろうと思った理由も、グラスの中でくるくると回るだけでカイは気付かない。 「すまない。見舞いに来たのに、何も持ってこなくて……」  モスコミュールを手に室内へ入ると、セオは立ったまま部屋の中を見回していた。  特に珍しい物は何もない。玄関ドアと同じ丸いアーチを描く窓辺に、育ちすぎてもらい手のなかった観葉植物がいくつか置いてあるだけ。見たって、何の面白みもないだろう。 「別に良いって。それより、立ってないで座れよ」 (仮病だし)  逆に、わざわざ見舞いの品を持ってこられた方が萎縮してしまう。  さっきは余裕がなくて気付かなかったけれど、きょろきょろと視線を巡らせるセオの髪は少し乱れていた。 (走ってきたのか?)  カイの体調が悪いと聞いて、慌てて来てくれたのだとしたら……と都合の良いことを思うと、どうしてか口元がにやついてしまう。  カイの家は、以前見たセオの家とは比べものにならないくらい小さく、そして狭い。小さなキッチンに、トイレと風呂が一つになったユニットバス、その他に一部屋あるだけの質素な作りだ。  そのうえ、人を招くことを想定していないから、すべてのものが自分一人で足りる分だけになっている。  置いてあるソファはかろうじて二人がけだったけれど、実際には一人で座って少し余裕があるくらい。  セオをそこに座らせて、自分は床に腰を下ろした。 「カイ、こっちに座って」 「いや、良いよ。客を床に座らせるわけにいかないだろ」 「そんなことを言ったら、病人を床に座らせるわけにはいかない」 「いや、だから」 (病気じゃないんだって)  とは言えず、言葉を飲み込む。  かといって、仮病の自分が堂々とソファに座るのも気が引けて、カイは立ち上がりかけたセオの肩を手で押し戻した。 「遠慮するな」 「それはこっちのセリフだってば。客は黙って家主の言うこと聞けって!」 「……じゃあ、こうしよう」 「はぁ? ちょ、おい……!」  ぐっと腕を引かれて、あっと思ったときには強引にセオの隣に座らされていた。 「これならいい」  そう満足そうに笑む男の手は、ちゃっかりカイの腰に回されている。 「……いや、せっま」  なんで、狭いソファに男二人でぎちぎちになって座らないといけないんだ。  寄り添った体が、ぴたりと密着している。セオは隙あらばカイの腰に手を回してくるが、今日はその手に労るような優しさを感じて振り払うのを躊躇してしまう。  気まずいだけでもない妙な心地がしてしまうのは、自分に仮病だという後ろめたさがあるからだろうか。  なんとも言いがたい心境から眉間に皺を寄せるカイとは裏腹に、セオは満足そうな顔でカイの手からグラスを受け取った。  セオは頑固だ。一度言い出したら聞かない。  カイが何を言っても、この体勢が崩されることはないだろう。  少し汗をかきはじめたグラスの側面を指先で拭って、カイは小さくため息を零す。 「モスコミュールだ。嬉しい、いただきます」 「ん」  カチ、とグラスがぶつかる。いつもの味を口の中で楽しみながら、セオはひどく満たされた表情でカイを見つめた。  カイの家にあるウォッカは、店で使っているものよりも安価な物だ。ジンジャーエールだって開栓して数日経っているから、少し気が抜けてしまっていただろう。  それなのに、どんな高級な酒よりも美味しそうにグラスを傾けられて、カイは複雑な気持ちで視線を逸らした。 (高くもない酒だぞ……そんなに好きかよ、モスコミュールが) 「うまい?」  オリジナルとは異なる味。それがそんなに気に入ったのかと問えば、セオは少し溜めて 「美味しいよ。……最高に大好きな味だ」  と答えた。  セオが“大好きな味”と言ったのは、レモン味のことではなく“カイが自分のために特別にアレンジしてくれた味”だったのだけれど、カイにその言葉の本当の意味は伝わらない。 「ふーん。じゃあ、正式にニケのメニューに入れてもらおうかな。ニケに来る商人のおっちゃん、たまにおまけでレモンくれるから――」 「駄目だ!」  すぐ隣から響いた突然の大声に、カイはびくりと身を強ばらせる。  手にしたグラスの中で、モスコミュールがちゃぷんと揺れた。 「え?」 「あ、あ……ええと、そのなんだ……」  自分でもびっくりしたのだろう。  セオは、歯切れ悪くしどろもどろに言葉を探しているようだった。 「……なんだよ、本当はうまくないのか? だったら、無理して飲まなくてもいい……」  ずっと、セオが気に入ってくれたのだと思っていた。このモスコミュールの味を。  だから、カイとしてはもてなしのつもりでこうして出したわけだけれど、本当は違うのなら正直に言って欲しい。  そうすれば、カイは勘違いしたまま美味しくないものを出し続けなくて済むし、セオだって無理して飲む必要もなくなる。  店でも、セオがモスコミュールを頼めばカイは何も言わずにレモンを使った物を提供していたけれど、それも余計なお世話だったというわけだ。 「違う! そうじゃなくて」 「?」  カイを見つめるセオの目は真剣で、どう伝えようかと言葉を探す様には必死さまで滲んでいた。 「……これは、俺だけの特別なんだ。だから、俺以外に出すのは、やめて欲しい」 「特別?」 「ああ」  セオの紫の宝石が、じっとカイを見つめている。 (まぁ、レモンのモスコミュールなんてどこの店でも出してないだろうし、たしかに特別だよな。モスコミュール愛好家なら独り占めしたいか……)  本当は二人の思い出の酒だからなのだけれど、記憶のないカイがもちろん気付くはずもない。 「ぷっ、はは……!」  大好きなカクテルを独り占めしたいだなんて、セオにも随分子供っぽいところがある。  まるで駄々っ子のような言い分だと、勘違いしたカイは声を出して笑った。 「カイ?」 「そんなに好き?」 「すっ、好きだ!」 「ハッ、ハハ……! 必死すぎ、わかったよ。店のメニューにはしない。しょうがねぇから、お前と独占契約を結んでやろう」  契約料は、これで。と指で数字を作ってセオの前に突きつけると、セオは目を瞬かせて、それから不満そうに目を眇めた。 「カイ、……わかってる?」 「? わかってるよ。モスコミュール、好きなんだろ? そんな怖い顔するなよ。冗談だろ、金は取らないって」 「いや、そうじゃ……ハァ」  わかってない……とあからさまにがっくりと肩を落とされて、カイは口を尖らせた。 (なんだよ、ちょっとからかっただけじゃん) 「ほれ」 「んっ」  せっかく、家がばれてしまったことを忘れて楽しめていたのに。  辛気くさい雰囲気になってしまったのが面倒で、カイはため息を吐くセオの口に、男の手から奪ったグラスを押しつけた。  こうなったら、どんどん飲ませて、酔っ払わせて、とっととさっさと帰ってもらおう。 「まだレモンあるからさ、消費して帰って……」 「カイ」  グラスを持ったカイの手に、セオの手が重なる。 「な、んだよ……離せって。あ、自分で飲む? だったら俺、手ぇ離すから」 「カイ」  手を離そうとしても、上からきつく握りしめられて解けない。  視線を逸らそうとしても、空いた手に顎を捉えられて叶わなかった。  狭い部屋は、沈黙で満ちている。  セオのカイを見つめる瞳は熱く、これ以上見つめ合っていたらやけどしてしまいそうだ。  すぐにでも目を逸らしてしまいたい。  そうするほうがいい。  なのに、先に逸らしたら負けたような気がする、なんて変な対抗心でカイはじっとセオを見つめ続けた。 (いや、やっぱ無理……)  負けでもいい。この雰囲気の中、ずっとこうして向かい合っている方が無理だ。  堪えきれず目を逸らそうとすると、視界の端に跳ねたセオの髪の毛が見えた。  普段、何を考えているかわからない男。冷静で何事にも動じないセオが、なりふり構わずカイのもとへ駆けつけてくれた証。  心配してくれたことへのせめてもの礼にと、乱れた髪を直すべく伸ばした手は、彼の頭には届かなかった。 「――!? おいっ……やめろ! ン!?」  その手はセオの手に掴まれ、唇にセオの唇が触れている。  キスを、されている。 「ごめん、カイ。わかってる、ごめん」  でも、少しだけ。  そう言うセオの声は、切羽詰まったように掠れていた。 「はっ……」 (少し、ってなんだよ)  キスするのに少しってなんだ。少しも何も、あったもんか。  混乱して、上手く頭が働かない。  逃げようと、拘束された手を振りほどくようにもがくけれど、堪えるように切ない顔で見つめられて、縋るような手の震えを感じたら、カイにはどうしてもセオを突き放すことが出来なかった。  握られた手は、次第に指が絡み繋がれていく。  ちゅ、ちゅ、と何度も触れてくる唇は、しっとりと柔らかかった。 「……手、冷たい」 「え?」 「……お前の手、冷たいんだよ」 「あ。すまな」  唇からはほっとするあたたかささえ感じるのに、男の手はこんなときでも冷たかった。  キスの合間にそう文句を言えば、セオはびくりと肩を震わせて慌てて繋いだ手を解こうとする。 (でもさ、この冷たさが嫌じゃないんだよな。……なんでだろ)  ふっと諦めたように笑みを零して、カイは解けそうになる男の手をきつく握り直す。  驚きに目を瞠るセオの瞳は、少しだけ潤んでいた。 「繋いでたら、あったかくなるかもしんねぇけど」  ちゅっと繋いだ手にキスをする。 「……っ!」  カイの行動に、セオは面白いくらいに赤くなったり青くなったり七面相をして、それから、カイがしたのと同じように反対側から繋いだ手に口づけた。  繋いだ手を通してキスをして、どちらが先にその手を下ろしたのかはわからない。  直接触れ合った唇はくっつくたびに深く交わり、舌が深く絡み合う。  セオのキスは優しいけれど、強引だった。まるで、カイが離れていくのを怖がるような、そんな性急さと焦りが頭の後ろを支える手にあらわれている。  けれど、そんな強引さにさえ求められている喜びを感じるなんて、カイも大概どうかしている。  もしかしたら、自分が気付かないだけで、本当に体調が悪かったのかも知れない。だから、こんなことを思ってしまうに違いない。 「セオ」  誘ったのは、カイだ。  熱のこもったカイの声にセオは一瞬戸惑った表情を見せたけれど、それでも、繋いだ手を引くとゆっくりとカイの上に覆い被さってくる。 「カイ……」  彼の見せた戸惑いは、カイがセオの捜す“カイ”ではないと、セオ自身も気付いているからじゃないだろうか。  それでも、カイは今この瞬間、自らの腕の中にいる男を離したくはなかった。  今だけは、セオに目の前の自分を見て欲しかった。 (あ……そうか)  カイはずっと嫉妬していたのだ。  自分の先にいる“カイ”に。  セオの見る“カイ”という人物に。  こんなところで気がつくなんて皮肉だ。  この男は、一生自分の物にはならないのに。  カイは、代わりでしかないのに。 「カイ? どうした? やっぱり具合が悪いんじゃ……」  でも“カイ”はここにはいないのだ。  今、セオの瞳に映っているのは紛れもなくカイで、それ以外のなにものでもない。  だったら、今この瞬間を思い切り楽しもう。 「平気だって、何度も言っただろ。体に悪いところはない」  ただ、今は少し……胸が痛むだけ。 「だから――」  ――触って。  解いたセオの手を、服の中へ導く。  男の手が肌を撫でるのを感じて、カイはほっと息を吐いた。  どくどく、心臓が痛いほどに逸っている。  自分でだってわかるくらいだから、胸に手を触れているセオにだって伝わっているだろう。  セオの手はカイの体を確かめるように触れ、撫でて“カイ”との違いを探されているようで緊張した。 「ぅ、ン……っ」  臍の下を解すように押されると、吐息と共に喘ぎが漏れる。  ずらされたズボンから覗いたカイのペニスはすでに芯を持ち、セオにあやされてさっそく蜜を零していた。  こんな状況でも昂ぶってしまう体をはしたないと思うけれど、自分のペニスの上に同じように昂ぶったセオのそれを見れば、自分だけではないことに安心する。 「っ、カイ」  そっと触れると、セオはぐっと奥歯を噛む。  見つめた瞳は戸惑うように揺れていたけれど、控えめに吐き出される息は熱く、カイは自らの上に降り注ぐそれを受け止めるように舌を伸ばした。 「ん……っ、ンン」  唇を合わせ、深く口内を探りながら互いの性器に触れる。  次第に手で触れるだけでは足りなくなって、重ねた体を揺すり合わせた。 「あっ、せ、お」  はっはっと揺れに合わせて短く息が零れる。  セオに余裕がなくなってくると、掛かる重みが増したけれど、押し潰されそうな圧迫感と触れる熱さが気持ちよくて、カイは掴んだセオの腕に爪を立てた。 「ッ」  びくっとセオの体が震え、腹の上が彼の精で濡れる。  震える脈動に煽られるように、少し遅れてカイも果てた。「はぁ……っは、……ッ」  セオほど、量は多くない。混ざり合った白で腹の上を汚したまま、覆い被さってくるセオの体を抱き締める。 (……)  男の体は確かにカイの腕の中にあるのに、この男の心はカイと同じ名前を持った別の誰かのものらしい。  むなしさに冷えていく心から目を逸らすように、カイはきつく抱き返してくれるセオの腕の中で目を閉じた。

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