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13、器の限界 前編

 最初は遠いと思っていた金曜日も、学校に来て授業を受けて、晴兄と放課後勉強していたら、あっという間だった。  しかも晴兄の説明は専門外でも分かりやすくて、すごく頭に入ってきた。下校時間までの数時間だったけれど、これなら中間テストは順位を落とさずにすみそうだ。  それに俺に教える時の、晴兄の真剣な横顔は、いつまでも見れるくらい綺麗だった。 「おい、聞いてるのか?」 「へ?あ、うん。ありがとう晴兄。すごく分かりやすかった」 「ならよし。あと一応学校では『先生』と呼べ。それと敬語な」 「晴兄だって俺の前だと全然違うじゃん」 「俺はいいの。ずっと猫被ってんのは疲れんだよ」 そう言って晴兄は机に突っ伏してしまった。そしてこのポーズは褒めろの合図だ。数日ここで勉強している間に、俺はある晴兄の癖に気付いた。  それは、褒めてほしい時に頭上を俺に見せようとしてくる癖だ。勉強会初日に、このポーズを見て、思わず撫でたところ、目を細めて気持ち良さそうな顔をしていた。まるで晴兄の周りに花が飛んでいるかのように、そこだけふわふわしていて、晴兄が癒されているのが一目で分かった。  それから俺はこうして勉強を教えてもらったお礼に、晴兄に癒している。今日も頭を撫でて「Good Boy(いい子だね)」と囁くと、嬉しそうにこちらを見てくる。  晴兄も俺の真似をして「陽介も、勉強頑張っててえらいな」って言って俺の頭を撫でてくれる。  これだけでも欲求が満たされるのか、俺たちはこうやって触れる時にはお互いを触って、愛情表現する。 ――キーンコーンカーンコーン 「もう下校時間か…」 「あーあ、楽しい時間って本当にあっという間だよね」 今日ももう下校時間がきてしまった。でも今日は金曜日、約束の日だ。  母さんに話したら、もちろん泊まってもいいって言ってくれた。母さんも父さんも晴兄に会いたがっていて、それがまた嬉しかった。 「今日はお泊まりだから、着替え持ってきてね」 「はいはい。じゃ、気を付けて帰れよ」 「晴兄も気を付けて来てね」 「あぁ、またあとで」 俺は晴兄に手を振って、一足先に帰路についた。俺は晴兄が泊まりに来てくれることが嬉しくて、子供のように走って家に帰った。 「ただいまー母さーん」 「陽介おかえりー」 「すごいイイ匂い!」 「気合い入れて作ってるからね」 「俺も手伝う!何かできることある?」 「それじゃあ――」 俺は母さんと一緒に夕飯の支度をした。  その間、学校であったことを話すのが、晴兄と話した日からの日課になっている。  俺の話を聞きながら、母さんは自分のことのように喜んで嬉しそうにしてくれた。思えば、学校であった出来事を親に話すのなんて、晴兄がいなくなった時以来な気がする。  急に何も話さなくなった俺を、母さんたちはずっと見守ってくれていたけれど、きっと寂しい思いをさせていたに違いない。「またこんなに話してくれるなんて嬉しいわ」と言われた時は、心が痛かった。 ――ピンポーン 夕飯の準備が終わったタイミングで、ちょうどインターホンが鳴った。  俺は母さんに「俺が行く」と告げドアを開けに行った。勢いよくドアを開けると、ビックリした晴兄が立っていた。 「ビックリした」 「ごめん、嬉しくてつい」 「あはっ、なんだそれ」 呆れたように笑いながらも、嬉しそうに目を細める晴兄は、学校とは印象が違って輝いて見えた。  学校でのカッチリとした印象とは正反対の、オーバーサイズのゆるい印象の洋服が晴兄の可愛さを増長させていた。  そんな格好で見上げられ、俺は思わず玄関先で晴兄を抱きしめた。 「ちょ…誰かに見られる」 「誰も見てないよ」 「私が見てるわよー、陽介」 「げっ、母さん…」 母さんの声がして振り返ると、腕を組みながら仁王立ちする母さんの姿があった。心なしか母さんの後ろに般若の顔が浮かび上がって見えた。 「と、とりあえず中入って、晴兄」 「えっ…イッタ…」 俺は強引に晴兄の腕を引っ張って、家の中に招き入れた。でもそれがよくなかったらしい。久しぶりに母さんに怒られてしまった。 「強引に引っ張るなんてあり得ないわよ、陽介」 「うっ…ごめんなさい…」 怒られるなんて久々で、俺は思わず小さい頃のように晴兄の後ろに隠れた。だけど、晴兄より身長の高い俺は全く隠れられていなかった。  そんな俺を晴兄はおかしそう笑いながら見上げてきた。 「あの(ひかり)さん、僕は大丈夫ですから。あまり陽介を怒らないであげてください」 「晴陽くん甘やかしちゃダメよ。やだ鬱血してるじゃない。冷やさないと」 母さんは慌ててリビングに走っていってしまった。 「晴兄、ごめん…それ…」 晴兄の腕をみると、確かに赤く掴まれた痕が残っていた。俺が強引に引っ張ったせいで、晴兄にケガを。そう認識した瞬間一気に全身から血の気が引いた。  そんなつもりなかったのに、知らずに強く握っていたなんて、晴兄はこれを見て、嫌な気持ちになったり、俺のこと怖くなったり、するんじゃないのか。そう思ったらうまく呼吸ができなくなった。  そんな俺の様子を見て、晴兄は優しく背中を摩ってくれた。 「陽介、落ち着け。深呼吸するんだ。ゆっくり吸って、吐いて…」 「はぁ…はぁ…晴兄、俺…」 「いいか、これは不可抗力だ。陽介のせいじゃない」 「俺のせいじゃない?」 「そうだ、だから落ち着け」 俺のせいじゃない、そう言って晴兄は俺が落ち着くまで背中を摩ってくれた。何度も俺に暗示をかけるように、晴兄は俺の耳元で「陽介のせいじゃない」と囁いてくれていた。  俺が落ち着いた頃、母さんが濡れタオルを持って戻ってきた。でもまさか俺が晴兄に介抱されているなんて、夢にも思わなかったのだろう。驚いてせっかく持ってきた濡れタオルを落としていた。 「陽介真っ青じゃない。一体何があったの…って晴陽くんは顔が赤いわ…早く上がってとりあえずリビングで休んで」 「あ…ありがとうございます」 晴兄は俺を支えながら玄関を上がり、リビングに向かった。

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