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14、痕は『証』
「泣き虫。いつまで泣いてんだ」
「晴兄もでしょ。目真っ赤」
「話は終わった?」
俺たちがお互いの涙を拭いあっていると、頃合いをずっと伺っていたのか、母さんが声をかけてくれた。
そういえばここはリビング、母さんもいたことをすっかり忘れていた。こんな話を聞かれるなんてすごく恥ずかしい。
俺は恥ずかしくて、額にあった濡れタオルで目元を隠した。
「あの、こんなところで話し込んじゃってすみませんでした」
「あぁいいのよ。気にしないで。それより2人ともご飯は食べられそう?」
「俺は大丈夫です。けど…」
晴兄は俺の様子を伺うようにこちらを見てきた。晴兄だって顔を真っ赤にして辛そうなのに、それでも俺の心配をしている。
「俺も大丈夫…母さん、夕飯遅くなってごめん」
「そんなの大丈夫だから。とりあえず2人とも顔洗ってきなさい」
母さんは俺たちを洗面所に行くよう言うと、父さんの書斎に行ってしまった。どうやら俺たちが話している間に、父さんは帰ってきていたみたいだ。
俺と晴兄は母さんの様子を見て、慌てて顔を洗いに行った。
「晴兄、こっち向いて。拭いてあげる」
「ありがとう」
「うん、まだ少し赤いけど、綺麗になったよ」
俺は晴兄の顔を拭き終えて、自分の顔を拭いた。お互いにまだ目は赤かったけど、涙と鼻水で汚れた顔は綺麗になった。けど晴兄は浮かない表情をしていた。
「どうしたの?」
「え、いや…あの…」
晴兄は戸惑ったように俯いてしまった。これは聞かなかった方が良かっただろうか。困らせるつもりはなかったんだけど、失敗したな。
俺は何事もなかったかのように晴兄に笑いかけ、「そろそろ行こう」と言って洗面所を出ようと晴兄に背を向けた。だけどその瞬間、晴兄が勢いよく抱きついてきた。
「待って…俺の話も聞いて」
俺の前に回された腕を震わせながら、晴兄は必死に俺にしがみついていた。きっとものすごい勇気をためて、話す決心をしてくれたに違いない。
俺は晴兄の硬く握られた手にそっと自分の手を重ねた。
「もちろん聞くよ。だから晴兄、深呼吸して、身体の力を抜いて」
俺は玄関で晴兄がしてくれたように、深呼吸を促した。一緒に何回も、吸って吐いてを繰り返していると、晴兄の身体から徐々に強張りが取れていくのが分かった。
俺はそのタイミングで、俺を抱いていた晴兄の腕をゆっくり俺から離し、晴兄の方へ向き直った。
「落ち着いた?」
晴兄はまだ緊張の色を見せながらも、小さく頷いてくれた。
「ゆっくりでいいから、聞かせてくれる?」
「これ…」
晴兄は服の袖を捲り、俺が掴んだ時にできた手の痕を見せてきた。
それを見ると、俺の中に罪悪感と高揚感が同時に押し寄せてくる。その全く違う2つの感情が、俺の心をかき乱した。
――すごく、気持ち悪い…
俺は吐き気を抑えるように口に手を当てた。
その俺の状況を見た晴兄は、すぐに袖を下ろして、痕がある部分をぎゅっと握りしめた。
「ごめん。陽介を責めたくて見せたんじゃないんだ」
「分かってるよ…晴兄は、そんなことする人じゃない…から…」
分かってる、これは俺の問題だ。大切な人の身体を傷付けたのに、俺の気持ちは昂っている。そしてそれを否定するように、罪の意識が迫ってくるんだ。それが精神的にも肉体的にも辛くて、言って吐き出したくなる。
少しは気持ちが上向きになったと思っていたけれど、そう簡単にはいかないみたいだ。
俺は目を閉じて、大きく深呼吸した。
その間、晴兄はずっと俺を抱きしめて、背中をさすってくれていた。晴兄の冷たいのに温かい手が、俺の腹の中でぐるぐるしている感情を、少しだけ落ち着けてくれた。
「ありがとう、晴兄…また助けてもらっちゃった」
「俺は何もしてない…むしろ陽介を…」
晴兄は何かを言いかけてやめてしまった。でも俺は、晴兄がその先に言おうとしていることはなんとなく分かった。
「俺たち、似たもの同士だね」
「そんなことないだろ…」
「だってさ、俺は晴兄が晴兄自身を責めてるの嫌だよ…晴兄もそうなんでしょ」
「あ…うん…そう…陽介は悪くないから、自分を責めないでほしい」
「陽介は」か…それって晴兄自身は責めてるって、俺は思う。それが俺は嫌なんだけどな。
「それじゃあ晴兄は自分を責めてるじゃん」
「それは本当に俺が悪いから」
「俺はそれが嫌なんだよね…晴兄が自分を責めるなら、俺も自分を責め続けるよ?」
「そ、それはダメ!」
晴兄は必死な顔をして、俺を強く抱きしめた。
晴兄は責められることに慣れすぎてるんだ、きっと。だからすぐに自分を責めて、それが当たり前になっているんだ。
「ダメって言うならさ、俺の今気付いたこと、話していい?」
「わ、分かった」
晴兄は抱きしめる強さを緩め、俺の顔を真剣に見てきた。
俺は今から酷いことを話すのに、晴兄は真剣に受け止めようとしてくれているんだ。この真摯な態度に報いるためにも、ちゃんと話さなければいけない。
俺は一呼吸おいて、話し始めた。
「俺が昔と変わらないって言った時、晴兄は絶対離れて行くと思ったんだ」
「うん…」
「でも、解消するくらいなら俺に何されてもいいからパートナーでいたいって言ってくれて、多分嬉しかった」
「多分って…」
「自分でもよく分かんない…『何をされてもいい』ってさ、俺は晴兄を罪悪感の中に縛り付けることになると思ったんだ」
そう、俺は「何されてもいい」って言われた時、最悪かもしれないけど『底なしの支配欲』が湧き上がってきていたんだ。
そんな欲を俺は、解消しなくて済んだことばかりに気を取られて、見逃してしまっていた。そのことに今更気付くなんて、俺は本当にバカだ。
「なんでそうなるんだ…」
「だって俺…晴兄についた痕見て、『俺の痕だ』ってすごく興奮した…ごめんね」
俺は謝りながら、今思っている胸の内を晴兄に話した。話したら引かれるかなって思ってたけれど、晴兄は案外嬉しそうだった。
「謝るなよ。俺も話していいか?」
「うん、さっきは遮っちゃってごめんね」
「謝りすぎ、気にするな」
「あ、ありがとう」
晴兄は手を伸ばして俺の頭を撫でてくれた。そして俺を撫でながら話し始めてくれた。
「俺が玄関で赤くなったの、『陽介の痕だ』って思って興奮したからなんだ」
「そ、そうだったんだ…」
「陽介が倒れるくらい自分を責めてる時、俺は興奮してるなんて最悪だろ」
「最悪なんてそんなこ――」
「そんなことあるんだ」
俺の言葉を遮って強く言う晴兄の顔は、憎そうに歪めながら笑っていた。かと思ったらすぐに俺に向かって優しく微笑んだ。そして優しく、頭に響くような甘い声で囁いた。
「だから、お前は自分を責めるな。これは、俺へのご褒美。そう思え。いいな。傷付けたんじゃない。『自分の証』を付けたんだ…」
まるで暗示でも書けるように、晴兄は必死に俺に告げてきた。そして暗示が成功したかのように、「自分の証を付けた」という言葉は、俺の脳に響き続けた。
そして俺は痕のついた方の袖を捲って、腕を優しくさすった。
「晴兄は『俺の証』があったら嬉しい?」
「嬉しい。大切にしてくれるのも嬉しいけど、こういうのも…欲しい」
「じゃあさ、晴兄が、もう自分のこと責めないって約束してくれるなら、付けてもいいよ」
俺は本当に暗示をかけられたのだろうか。自分から「付ける」と言って、さっきまで見られなかったその痕を、湧き上がる気持ちを抱えて見ている。
「付けてくれるなら、もう自分を責めない…」
「約束…指切りしよ?」
「ふっ…お前、指切り好きすぎ…」
晴兄は笑って俺の指に自分の指を絡めてくれた。相変わらず細くて白い指が、俺のゴツゴツとした指に離すまいと絡みついている。
晴兄は無意識かもしれないけれど、本当に俺を離したくないと思っていることが伝わってきた。
「ねぇ、キスマーク付けてもいい?」
「あぁ、いっぱい付けてくれ」
俺は晴兄の首筋に顔を埋め、皮膚を吸い上げた。たくさん場所を変えて夢中でキスをしていると、いつの間にか晴兄の白い首筋にはたくさんの赤い点ができていた。
「雪の中に花が咲いてるみたいだ…」
「ふふ…ロマンチックな言い方だな」
俺たちは洗面所に顔を洗いにきただけということを忘れ、夢中で唇を重ね合った。
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