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19、後悔はもうしたくない
俺は呆然と立ち尽くす陽介のところまで行き、強く抱きしめた。温かいのに冷たい陽介の身体は、微かに震えていた。
「こんなになるくらい悩んでいたんだな…夕方のは前兆に過ぎなかったんだ…」
俺は陽介の身体をソファの方へ無理やり押し倒し、何も喋らない陽介を座らせた。
陽介はただ一点を見つめて呆けている。その姿から、自分の胸の内を聞かれた、『俺が離れていく』とでも思っていることが丸わかりだった。この世の終わりだとでも言いそうな顔になっている。
俺はそんな陽介の顔の前で手を振った。
「陽介、聞こえてるか?」
「はる…にい…おれ…」
「全部聞いちゃった…陽介の、本能と理性のギャップの話」
陽介は俺のことを大事に思ってくれている。聞いてる俺も泣けてくるほど痛かった。
この1週間、ずっと本能を抑え込んで頑張ってきたのに、今日俺が台無しにした。洗面所でいくら俺が言ったって、その場しのぎのものにしかならなかったんだ。
それなのに俺は勝手に盛り上がって、陽介を煽って、『お仕置き』って言ってお尻を叩かせて、陽介に俺を噛ませた。
「俺、陽介よりずっと年上なのに、自分の本能に抗えなくて、陽介に無理なお願いしてたよな…ごめんな?」
「な、なんで晴兄が謝るの…俺が勝手に変な妄想して自爆してただけなのに」
陽介は俺を責めることなく、自分が悪いのだと言い放った。
「確かに陽介の想像力は凄まじいな。ただ噛んだだけ、ちょっと強く握っただけ、子供を叱るようにお尻を叩いただけ。それだけなのに、俺が陽介のことを『怖い』って言うと思うなんて、それって被害妄想すぎじゃないか?」
「だっ…だって…その先のことが起こったらどうするの?う、動けなくするために、手とか…切っちゃうかもよ…っ…」
“俺の手を切り落とす”そんな想像してしまったのか、陽介は青ざめて咄嗟に口に手を当てて、吐きそうになっていた。
こんなやつが、本当に俺に暴力を振るえるのか、甚だ疑問だ。裕人のことがあったから、Dom はみんな同じなんじゃないかと、だから自分もと、錯覚しているのかもしれない。
俺は陽介の背中を摩って、陽介を落ち着けるように口を抑えていない方の手を握った。
「俺の手足がなくなる想像でもした?」
陽介は素直に頷いた。そこには陽さんと言い合っていた勢いはなく、幼い頃の陽介を思い出させるほど縮こまった陽介がいる。
「それで気持ち悪くなっちゃったのか…よしよし」
俺は陽介をあやすように言って頭を撫でた。
こうしていると幼かった頃の陽介を思い出す。イヤイヤ期の陽介に手を焼いていた陽さんの代わりにこうやってあやしていたのを思い出す。まさかこんなに大きくなってもやるとは思わなかったけど。悪くはないな。
「俺の可愛い陽介。陽介に俺を裕人みたいに傷付けるのは無理だ。お前は俺を大切に思ってくれてる。ただの友達だった裕人とは違う。だからこそこんなに悩んで、俺じゃなくて自分を責めてる」
俺は諭すように陽介に言った。そして口を押さえていた手をゆっくりと外し、優しく陽介の唇に自分の唇重ねた。罪悪感を消し去るように、そっと。
裕人のことを引き合いに出すなんて、俺は最悪だな。「友達を堕とすような言い方」って言われたくなくて、すぐに陽介の唇を塞いでしまった。こんなことでしか、陽介のことを助けられないなんて、つくづく自分が嫌になる。
それでも、陽介の心が軽くなるならそれでいい。俺が何より大切なのは陽介、お前だけなんだ。
俺は驚きを隠せない陽介に、さらに話続けた。
「今はさ、久々に欲求が満たされていくことが嬉しくて、俺たちおかしくなってるんだよ。だから陽介も興奮してるし、俺も…」
俺はその先が言えずに、また優しく陽介にキスをした。本当に俺はズルい奴だ。陽介がまた気にすると思って、言えなかった。
その代わりに恰 も恋人に痕をつけることは当たり前のようにこう言った。
「好きな人に付けられた痕ってさ、誰でも興奮すると思うんだ。これくらいならな」
俺はにこりと微笑み、陽介の首筋に噛みついた。
「イッ…何すんの」
「陽介に『俺のモノ』って印つけた。嬉しくない?」
「そ、それは…嬉しいかも…」
陽介は少し考えて、顔を赤らめながら『嬉しい』と言った。
「な、嬉しいだろ?俺も同じ。だからこれは“傷”じゃなくて“証”」
戸惑う陽介を余所に俺は陽介の傷口をぺろぺろと舐めた。口の中に広がる鉄の味はとても美味しかった。陽介の体液だと思うと余計に興奮した。
このままDom に傷を付けたっていうことにして、また『お仕置き』されたいくらいには、俺は興奮していた。だけど俺はその気持ちを無理やり抑え込んだ。
俺のニオイを嗅いで、陽介がまた自分を責めることになってしまったら、ここまで落ち着かせた意味がなくなる。
俺は舐めるのをやめて陽介を見つめた。何も言わずに、ただ陽介を見つめ続けた。
その俺の視線に耐えかねた陽介が、観念したかのように話し始めた。
「俺、考えすぎだったかも…晴兄の手がなくなっちゃったら俺を抱きしめてくれることも、頭を撫でてくれることもなくなっちゃうってことだもんね。それは嫌だな」
「そうだろ?俺だってできなくなるの嫌だから、そうなりそうだったら絶対Safe Word を使うし」
「そうだよね…俺、1人で勝手に決めつけて何やってたんだろ…」
「本当だよ。明日陽さんにも謝れよ?」
「そうだね…感情的になりすぎたかも。母さんに申し訳ないことしたな…」
陽介はそう言って、困ったように笑った。その笑顔に俺もつられて笑ってしまった。
陽介が笑ってくれてよかった。これから俺が気を付ければ、陽介は迷わずにいられるはずだ。
お互いの欲求を満たせば、陽介の加虐性も少しは治まるのかもしれない。今はその“かもしれない”ことに縋ることしか、俺にはできなかった。
それに俺だって、尽くされるだけで満たされるかもしれない。
「なぁ、俺めっちゃ頑張ってお前の気持ちを持ち上げてやったんだけど…」
「うん、ありがとう」
「そーじゃなくてさ…褒めて欲しいんだけど…」
本当はもっと可愛く言えたらいいのに、俺は太々しく陽介に『ご褒美』を要求した。
陽介は俺と違って、愛情を持って俺に尽くしても欲求を満たせるはずだ。だからいっぱい俺を甘やかさせば、落ち着くはず。
できれば痛いくらい噛むのはやめないでほしいんだけど、あまりお願いすると今日みたいなことになりかねない。
それに俺も陽介に褒められたり、尽くされたりするのは好きだし、多分大丈夫だろう。
本当にこの選択があっているのかは分からない。だけど俺にはもう陽介の不安を軽くするにはこれしか思いつかなかった。
こうやっていくら自分の頭の中で、御託を並べても、俺の気持ちは全然落ち着かなかった。
俺は緊張しながら陽介からの『Good Boy 』を待った。
「Good Boy 。俺も不安を軽くすることに成功だよ」
そう言って陽介は俺の頭を撫でてくれた。
さっきまで緊張してたけど、これだけで俺の心は溶かされていった。
陽介に撫でられるのも、『Good Boy 』と言われるのも、俺は好きだ。ふわふわして温かくて、気持ちが良い。俺だってこれだけで満たされる。ただちょっと恥ずかしいくらい。
すると陽介がクスクスと笑いながら変なことを言ってきた。
「晴兄は本当に昔と変わったね」
「え…変わらないだろ」
「変わったよ。昔は犬みたいだったけど、今は猫みたい」
「なんだそれ、意味わかんないんだけど」
「だって、ツンデレだし?でも慣れると甘えん坊。昔は従順な感じだった」
「バカにしてんのかよ。てか年上に向かって従順ってなんだ」
俺は陽介の発言に、陽介の頬をつねって反抗した。
確かに昔は陽介が可愛くて、なんでも「良いよ」って返してきたかもしれない。それを従順と捉えられていたと思うと少し複雑だ。
でも、そんなことを笑って言えるようになった時点で、そんな些細なことどうでもよかった。
「陽介は今の俺より、従順だった昔の方が良かったか?」
「そんなことないよ。どっちも晴兄に変わりないから」
「そっか…」
そう言ってもらえて良かった。俺はホッと胸を撫で下ろし、陽介に力の限り抱きついた。
冷たいと感じた陽介の身体は、熱いくらい体温を取り戻していた。
良かった、今はもう落ち着いてるんだ。本当に良かったと、俺は陽介の胸の中で脱力した。
陽介は俺を支えるように抱きしめてくれて、そのまま陽介は俺を自分の身体に乗せてソファに寝転んだ。
「意外と重い…」
「当たり前だろ」
「でももう動きたくない…」
「じゃあ…このままここで寝るか?」
人様の家で堂々と何言ってるのかと思うけど、陽介の言った通りもう動く気力が残っていなかった。
陽介が呼吸するたびに揺れるお腹の上も、少し早い鼓動の音も、どちらも心地良い。
この心地良さと眠気と疲労で、俺は今にも夢の中に旅立ちそうだった。そして陽介も一緒だったようで、同じような提案をしてきてくれた。
「ちょっとだけ寝よ…」
「んー…起きたら俺を運んでおいてくれ」
「晴兄、相変わらず朝弱いんだ」
「あぁ…」
薄れゆく意識の中で、なんとなく陽介に笑われた気がする。だけど、それさえも俺にとっては心地良い子守唄だった。
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