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5 さよならの覚悟とスケッチブック6
「自分のことを知らなすぎる。先日会った女性よりもずっと君のほうが綺麗だ。容姿だけじゃない、中身も。だから私は君に惹かれてしまうんだろう。ここで手放して他の人の物になってしまうのが我慢できないくらい、碧くんが欲しい」
優しい手が頬を撫でる。
「そんな……」
「だから、傍にいてくれ。お願いだ。結婚を前提に私と付き合って欲しい」
お見合いとは結婚を前提にするもの。頭では理解していて言われるまで現実味がなかった。なのに、こんな熱い言葉で請われたら、しかも想いを寄せている人だったら、抗えない。
「はい……」
小さな声で返事をする。
「ありがとう、碧くん」
頬を撫でていた手が離れ、強く抱きしめられた。
「ぁ……」
服の上からではわからなかった逞しい胸板の感触だけで、碧の体温が一気に上がっていく。ワイシャツの向こうから一輝の心音が聞こえてくる。
心地よい腕の中で身体を強張らせた後、ゆっくりと力が抜けていく。頽れそうになるのをシャツにしがみついてなんとか自分を保つ。
本当にいいのだろうか、この人の隣にいても。迷いは消え去らない。けれど迷いよりも喜びが大きくなっていく。
こうして抱きしめられて安心するよりもドキドキしてしまう。なのに抜け出したいよりもずっとこのまま抱き続けて欲しいと願ってしまう。
これが、人を好きになるという事なんだろうか。
だとしたら、自分の初恋は間違いなくこの人だ。
一輝が使っているコロンの香りを胸いっぱいに吸い込んで、この人が自分を選んでくれた幸運に感謝した。
「他のスケッチブックも見ていいかい?」
「ダメですっ! ……絶対にダメ……もっと上手になったら」
「残念だ。では今日はこれで満足しよう」
一輝は碧の髪にキスを落とした。
「恋人だからね、これくらいは許してくれ」
何度も何度も髪にキスをして、それはどんどんと降りてきて、そして前髪を掻き上げると額にもキスを落とした。
物心つく頃から家族にもされたことのないキスに、心拍数が今までにないくらい跳ね上がり、心臓が爆発しそうだ。こんなのを何度もされたら死んでしまう。
真っ赤になる碧の初心すぎる反応に、なぜか一輝も赤くなっていたが自分のことでいっぱいいっぱいな碧は気付かなかった。
「週末はまたデートをしよう。国立西洋美術館とかどうだい?」
「……嬉しい」
「私も碧くんとどこかへ出かけられるのが嬉しいよ」
もう一度強く抱きしめて、一輝は碧の身体を解放する。
「今日は帰るね、また週末に迎えに来る」
碧を椅子に座らせ、それだけ言うと一輝は部屋から出て行った。ぽうっとなっている碧が、その手にスケッチブックが一冊持たれたままだったのに気付いたのは、陽も沈み始めてからだった。
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