5 / 32

第5話

 その後、ベッドで二度交わって、バスルームでもいいように弄ばれ、ノエルは何度イかされたかわからないまま、日頃の疲れも相まって、気を失うように眠ってしまった。  ふわっと意識が浮上してきたノエルは、バスタブに浸かっていることに気づいた。  後ろからキースが支えてくれている。 「起きたか」 「…悪い、寝てた」 「お医者様はお疲れのようだな」 「…あんたみたいな患者がいるからな」  皮肉に皮肉で返すと、キースは少し笑ったようだった。 「そろそろ上がるぞ」  キースに促されて立ち上がろうとしたが、うまく足腰に力が入らない。  それを見て、キースは先に上がってバスローブを着た。  それから、ノエルのバスローブを腕の間に広げて、それでノエルを包み込むように抱き上げた。  長身のノエルを、まるで子供のように軽々と。 「あ、おいっ」  ノエルは慌てたが、キースは気にした風もない。  そのままバスルームを出てベッドへ寝かされると、いつの間にか汚れたシーツが取り替えられていた。  ――まさか、バスルームにいる時!?  自分のあられもない声を誰かに聞かれたかもしれないと思うと、ノエルは恥ずかしさで消えたくなった。  一体いつの間に、と思ったが、尋ねるのも(はばか)られたので黙っておく。  バスローブをきちんと着込んだノエルはシーツに顔をつけた。ほかほかと温まった頬に、シルクのひんやりとした感触が心地良い。  ノエルを横たえたあと、キースはそのままベッドルームから出ていった。  戻ってきたキースは水のボトルを二本、持っていた。一本をノエルに渡し、もう一本は自分で飲む。 「ありがとう」  礼を言って受け取り、口をつける。自分が思っていた以上に喉が渇いていたらしく、ごくごくと全て飲み干してしまった。  キースは空になったボトルを持って、ベッドルームをまた出ていった。  ところが、今度は戻ってこない。  まさかと思ったノエルは言うことをきかない足腰を叱咤して、ベッドから飛び降りた。  リビングに行くと、ウォークインクローゼットに明かりが点いているのが見えた。  思った通り、キースはクローゼットでスーツに着替えていた。 「…帰るのか」 「明日も朝から仕事だ」 「…仕事って、あの名刺、本物なのか?」 「偽物を渡して回ってどうする」 「じゃあ、このホテルは…」 「会社の持ち物だ」  ノエルは驚きを隠せなかった。キースの年齢は恐らく自分と同じくらいだろう。  この若さで、こんな大きなホテルを持つ会社を経営しているとは、(にわか)には信じられない。  だが、信じようが信じまいが、彼が帰ってしまうのは現実で。  全身鏡の前で、ネクタイを小さなノットを作って細く結ぶと、キースはノエルに向き直った。 「お前は好きなだけ居ていい。明日、ここを使う予定はないからな」 「…そうか」  ノエルは密かに拳を握りしめた。  ここで後悔はしたくない。 「なあ、連絡先を教えてくれないか? 会社じゃなくて、あんた個人の」  キースは問われることを予想していたのか、顔色ひとつ変えずに答えた。 「俺は一度寝た相手と、二度は寝ない」 「…っ」  ノエルの表情が泣き出しそうに歪んだ。  それを見られたくなくて顔を伏せると、ふとキースの雰囲気が変わった気がした。 「……だが、そうだな」  はっと顔を上げたノエルを、キースは正面から見つめていた。 「お前とのセックスは悪くなかった。もし、あのバーでまた会えたら、その時は教えてやる」  一方的に告げると、キースはノエルの横を通り過ぎ、振り返ることなく部屋を後にした。  残されたノエルはその場にへたり込んだ。  ――また、あのバーで会えたら。  それは一体、どれくらいの確率がある?  その可能性の小ささにノエルは絶望していた。            部屋を後にしたキースはエレベーターでロビーまで下りると、真っ直ぐにエントランスを出た。  到着していた車の後部座席に乗り込み、深々と息を吐き出す。  女性の運転手は何も言わずに発車させた。  静かに走り出した車は幹線道路を越えて北西へ。向かうのはキースの自宅があるレッドスティアだ。  車窓を流れる景色に目を遣りながら、キースが思っていたのはノエルのことだった。  程よく筋肉のついた(しな)やかな体、しっとりと汗ばんで吸いつく象牙の肌、潤んだ瞳は悠久の孤独を閉じ込めた琥珀。  そして、黒だと思っていた髪は、光に透かすと深い藍色をしていた。  もしも海の底に沈んだなら、見えるのはあんな色なのかもしれない。  ノエルの艶めかしい姿は、キースがこれまで同性には感じたことのない強い情欲を呼び覚ました。  快楽に浸りきったノエルの顔が、甘く濡れた声が、縋りつく繊細な指先の感触が。  思い出すだけで、体の奥に残った埋み火を(くすぶ)らせる。  本当はもっと手酷くするつもりだった。  それで自分への興味を失ってくれればいいと思っていた。  けれど、実際は――。  泣き出しそうな顔を見て、ついあんなことを言ってしまった。  あの時、生まれた感情は、同情か? 憐憫か?  それとも、もっと違う何かか。  キースは頭を振って、脳裏に浮かんだ考えを追い払った。  会社経営者としての自分はここまでだ。  キングスストリートからそう遠くないレッドスティアは、中心街に隣接していながらも、昔から犯罪の多い危険エリアである。  市自体が放置しているせいで、街頭すらまともに点かない暗くなった通りに所々、柄の悪そうな男たちがたむろしている。  古い煉瓦や石造りの低層の建物が並び、壁にはお約束のような派手な落描き。  やがて、車は周辺で一番大きなビルの地下駐車場へと入っていった。  外から見れば、ただの古ぼけたビルだが、この場所こそがラグズシティの裏社会を一手に取り仕切る『ヴィクトリアファミリー』の本拠地だった。            車を降りたキースは最上階へと続く専用エレベーターへ乗った。開閉は運転手が行う。  最上階へ着くと、広いエントランスホールから一直線に続く通路の両側に、ジャケットを着た男たちがずらりと並んでいた。 「おかえりなさいませ、若!」  一番手前にいた男の号令で一斉に「おかえりなさいませ!」という声が上がる。  キースは「ああ」と鷹揚に頷くと、着ていたジャケットを脱いだ。歩きながらネクタイも緩め、広い通路をカツカツと歩く。  古い外観からは想像できないほど、中は近代的だ。言われなければここがマフィアの根城だとは誰も思わないだろう。  天井に埋め込まれたダウンライトに明るく照らされた、清潔感のある白い塗壁と石目の美しいモダンタイルが敷かれた通路。そこにガラス扉が等間隔に並んでいる。  数年前にフルリフォームされた場所は、まるでオフィスビルのような造りだ。  そして、大勢の構成員に迎えられたキースこそ、このヴィクトリアファミリーのボスの一人息子だった。 「ヒューゴ、例の件はどうなった?」  キースは後ろに付き従う銀髪の男に問いかけた。 「奴の部下がバンクストンに出入りしてるって情報が入りました」 「そうか」 「どうやらフリーの売人に接触してるようで」 「…面倒くせぇな」  キースは乱暴に言ったが、これが彼の本来の姿だ。  微かに顔を顰めたキースに、黒い長髪の男が後ろから不満げな声を上げた。 「放っておいていいんですかい?」 「いい訳ねぇが、あそこのボスには親父が昔、世話になってる」 「もう三十年も前の話でしょう。俺らは生まれてもねぇですよ」 「だとしても、筋は通さなきゃならねぇ」  キースは苦々しく吐き捨てた。 「ワイアット、向こうの動きを探っておけ。ヒューゴは引き続き監視を頼む」 「わかりました」 「了解です」  どちらも幹部であるヒューゴとワイアットにそう言うと、キースは突き当りの部屋に入った。  そこはボスのための執務室だった。  通路のモダンさとは打って変わって、格調高い家具が目立つ。  存在感のある希少なローズウッド製の大きなデスクの横に、アンティークの革張りソファを使った豪奢な応接セット。  壁には暖炉が(しつら)えられ、その両側には背の高いガラスキャビネットや書棚が置かれていた。キャビネットには食器や年代物のウイスキーなどが所狭しと飾られている。  だが、肝心の部屋の主は、今は不在だ。  代わりに待っていたのは、金髪を長く伸ばした大柄な男だった。 「おかえり、キース」 「ただいま」  男の名はクロード。  彼はキースの父親の弟の息子、つまり従兄に当たる。キースより四歳上で、ビル内がまだ薄暗く場末の酒場のように退廃的だった頃から、ここで兄弟のように育った。 「ずいぶん遅かったな」 「……ああ、ちょっと野暮用でな」  キースが微かに眉根を寄せる。  何かあったなと勘づいたクロードは、キースを執務室の右手にあるドアの先へ促した。  ドアの外は通路になっていて、そこに扉が二つ並んでいる。左側がキースの自室で、そこへ二人で入った。 「何があった?」 「……あの医者に会った、ディヴェルで」  ディヴェルとは、キースとノエルが出会ったバーの名前だ。キースとクロードにとっては何よりも特別な場所。 「あの医者って、ERの?」 「ああ」 「それで?」 「俺が無視しても、しつこくてな」 「なるほど、それで誘いに乗ったと」 「……いや」  キースに事の成り行きを聞いて、クロードは意外だと驚いた。といっても顔は長い前髪で隠れているので表情は見えない。 「酒飲んで話でもって何だ。おままごとに付き合ってる暇はねぇよ」  キースは苛立っているようだった。 「それで押し倒したのか」 「向こうも満更でもなかったと思うぜ」  嘲るような言い方だったが、それはノエルに対してではなかった。理由のわからない行動をしてしまった自分に向けられたものだ。  普段、キースは自分から相手を誘うことはない。誘われて、後腐れなさそうな人間だったら相手をする。それが彼なりのルール。  それなのに答えの見える二者択一を迫り、あまつさえ約束までしてしまったのだ。  何をやっているのか、と自分に呆れていた。 「あまり深く考えるな」  クロードは慰めるように肩をぽんと叩くと、キースのジャケットを受け取った。  そこでクロードはポケットが膨らんでいることに気づいた。取り出してみると、それは(くだん)の医者から貰ったと思われる名刺だった。  クロードはそれをこっそり自分のポケットに入れ、ジャケットをクローゼットにしまった。 「お前がディヴェルに行くのは月に一回か二回だ。そう簡単に会えるものでもないさ」 「……そうだな」  キースは頷いたが、その表情は晴れない。  自分らしくない行動を悔いているのだ。 「疲れてるんだろう。お前は働き過ぎだ。表の仕事も、もっと部下に回せばいい」 「そうは言っても人手が足りねぇ。来月、中途採用の奴らが入るから、そうしたら少しは楽になるかもな」 「経営者として有能すぎるのも考えものだな」  クロードは苦笑して、部屋を出た。  一度、執務室へ戻って照明を落とすと、キースの部屋の隣にある自室へ入る。  防犯のために小さくした窓から、淡い月明かりが差し込んでいた。  クロードはポケットから名刺を出して、まじまじと見た。 『ノエル・ファウラー』  名前の下に、几帳面そうな文字で携帯番号が綴ってある。  この男がキースの命を救ってくれた。  そう思うと、クロードには感謝しかない。  クロードは三ヶ月前のことを思い出した。            あの夜、キースとクロードは二人で飲みに出ていた。レッドスティアから南に位置する、ダールハーバーにあるナイトクラブだった。  そろそろ帰ろうと駐車場へ歩いていた時、運悪く人通りのない所で、銃を持った三人組の路上強盗に遭ったのだ。  クロードも銃は携帯していたが、あんな街中で使う訳にはいかなかった。相手はホームレスにも見えるような痩せた男たちで、純粋な腕力でいけば自分たちの方が上だ。  隙をつけば難なく延せると高を括ったのが間違いだった。  三人組の一人が麻薬中毒者だったらしく、突然、こちらに向けて無茶苦茶に銃を撃ってきたのだ。  禁断症状に襲われて、幻覚でも見ていたのだろう。血走った目、震える手足、錯乱した表情がそれを物語っていた。  相手の様子をしっかり確認していたら気づけたかもしれない。自分の落ち度だとクロードは思っている。  瞬間的に身構えたクロードだったが、銃弾が当たることはなかった。  何故ならクロードの前にキースが立ちはだかっていたからだ。  キースが力なく崩れ落ちる。  倒れたキースを見て、犯人たちは怖くなったのか、その場から逃げていった。  慌てて駆け寄ったクロードはそこで青褪めた。  撃たれた左脚から(おびただ)しい量の出血があったのだ。鼓動に合わせるように、どくどくと真っ赤な血が噴き出していた。  他にも右腕を撃たれていて、キースの顔から一気に血の気が引いていく。  キースの首からネクタイを抜き取って、脚の付け根をきつく縛ったクロードは、すぐさま救急車を呼んだ。  レッドスティアに戻ればいわゆる闇医者もいるが、そこの設備ではとても対処できないと思った。  クロードはキースのコートをなんとか剥ぎ取って、それに財布と携帯、名刺入れを抜き取って包んだ。  キースが身に着けているスーツとコートは、既製品が体に合わないせいで全てオーダーメイドだ。とにかくコートだけでも脱がせて、そこから身元が割れるのを防ぎたかった。  このままだとキースの命が助かったとしても、DNAなどの情報を取られてしまうかもしれない。  それが名前や顔と紐づけられると、いつか命取りになる恐れがある。それだけは避けなければ。  サイレンが近くに聞こえてくるまで傷を圧迫止血したあと、物陰に隠れたクロードは駐車場で待っていた運転手に電話し、近くで車を待機させた。  そして、到着した救急車にキースが収容されたのを見届け、その後を車で追ったのだった。  ファミリーの総力をかけて情報を集め、二日がかりでキースを病院から連れ出す方法を考え出した。  あとは一般病棟へ移された直後を狙って計画を実行。あの日の昼、病室にいたのは実はキースではなく、身代わりの男だったのだ。  その後、闇医者の診察を受けながら、キースは二週間をベッドの上で過ごした。  そして、リハビリを経てようやく完治へと至ったのだった。  これがあの日、起きた事件の真相だ。  そして、先週。  気分転換がてら取り引き先に歩いて向かっていたキースは、偶然にもノエルに会った。      『生きてて良かった』って言われた。      そう話してくれた時のキースを思い出す。  滅多に感情を表に出すことのないキースは複雑そうな、けれど、どこか嬉しそうにも見える顔をしていた。  それはたぶん、クロードにしかわからないくらいの小さな変化。  ――あの時、ノエル・ファウラーは確かにキースの琴線に触れたのだ。  もう誰も愛さない、と固く閉ざした心を震わせた。  キースもまた彼に惹かれている。  そうでなければ、条件つきといえども約束などしなかっただろう。  それを喜ぶべきか否か、クロードには判断することができなかった。      

ともだちにシェアしよう!