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第6話
ノエルとキースが初めて繋がった夜から二ヶ月。
この二ヶ月間、ノエルは思わぬ事態に陥っていた。
原因は同じERで働く同僚の怪我だ。
女医のベラドンナが不運な事故で右腕を骨折し、ERでの実務ができなくなってしまったのだ。
ラグズシティ市立病院のERは、最も重篤な患者を受け入れる三次救急を担当している。当然、様々な分野の専門的で高度な知識と技術を要求される。
一時的とはいえ、穴埋めできる人材がすぐに見つかる訳もなく、病院側は各外科の医師を応援に派遣することにした。
だが、救急外来の経験がほとんどない医師が即座に対応できるかは推して知るべし。
ベラドンナも指示出しはできるが、相手が研修医か専門外では対応は遅れがちになる。それでは意味がないのだ。
結局、そのしわ寄せの大部分は若いながらも最も優秀なノエルに来てしまった。
この国の医師の勤務形態はどこの都市でも大体、同じだ。基本的には二日勤・二夜勤・二休日のローテーション。医師というストレスの多い職業にかなり配慮された待遇だ。
だが、ノエルはその休日を削り、日勤から夜勤を立て続けに行うことも出てきた。労働法違反すれすれの行為。
そうしてノエルは働き詰めになり、家には寝に帰るだけになった。
目の下には濃い隈ができ、体重が落ち、いつも疲れている。そんなノエルを周囲は心配していた。
だが、医師としての使命感がノエルを動かした。
患者が運ばれてくれば勝手に脳がフル回転し、体はその指令によって最善の処置を行うのだ。
現場にいる限り、ノエルが立ち止まることはない。それがノエルの矜持 でもあった。
だが、過酷な日々にようやく終わりが来た。
ベラドンナが現場に復帰したからだ。
「ベラ、全快おめでとう!」
「ホント後遺症もなくて良かったね!」
「ありがとう。皆にはいっぱい迷惑かけちゃってごめんなさい」
「気にしないで。ベラのせいじゃないんだから」
待機所でベラドンナを囲んで、スタッフたちがわいわいと会話を交わす。
コーヒーを飲みながら、それを見ていたノエルの元へ、ベラドンナがやって来た。
「ノエル、今回は本当にありがとう。貴方にばかり負担をかけてしまって、本当に申し訳なく思ってるわ」
「気にするな。それが俺の仕事だ」
「ありがとう。とにかく今日は、帰ってゆっくり休んで」
「ああ、そうさせてもらう」
今日は夜勤が明けて、あとは家へ帰るだけ。
明日から二日間は非番だから、時間はたっぷりある。
ノエルは医局に寄ったあと、病院を後にした。
ノエルの住む部屋は、病院へ電車一本で行けるキールヴィラという地区にある。
病院だけでなく中心街へのアクセスが便利で、観光スポットに近いこともあって治安もいい住宅街だ。
大きな公園が近くにあり、初夏になると美しい紫色の花を咲かせるジャカランダという木が群生している。
五月も半ばを過ぎたので、その枝の先には小さな花の蕾が鈴なりに生っていた。
最寄りのマンソン駅から自宅までは徒歩で十分ほど。
通勤、通学の人がいなくなった閑散とした道を、疲労で重くなった足取りで歩く。
ノエルが住んでいるのは単身者用の集合住宅 だ。いわゆるスタジオと呼ばれるワンルームである。
玄関を開けたノエルは、すぐに右手にあるバスルームに入った。
シャワーを浴びて、さっぱりとしてから、Tシャツとスウェットパンツに着替えてベッドに横になる。
二ヶ月間の激務でノエルの心身は限界まですり減っていた。
睡魔はすぐにやって来て、ノエルが次に目を覚ました時には既に日が暮れていた。
「…やばい、寝過ぎた」
本当はもう少し早く起きて、色々とやりたいことがあったのに。
ノエルは溜息をついて、長いこと放っておかれていた部屋の掃除に取り掛かった。
まずはワーキングスペースから。
ノエルがここに住むことを決めたのは、広いワーキングスペースがあったからだ。デスクにチェスト、書棚がついていて、新しく家具を買う必要がなかったのは大きかった。しかも、ブロードバンド完備である。
散らかったデスクの上を整理し、書棚の本を揃えて掃除機をかける。
それから、リビングを片付けた。
テーブルに無造作に積み上げられていた新聞をまとめて括り、ゴミを拾い、脱ぎ捨てられたままになっていた二、三日分の衣服をランドリーバスケットに放り込む。
リビングと一緒に、ベッドスペースも掃除機をかけた。
この物件の間取りは少し変わっている。玄関を入って、すぐ左手がベッドスペースなのだ。作りつけのクローゼットが壁の代わりになっていて、その奥にダブルサイズのベッドが置かれている。
そして、ベッドスペースからリビングへは短い階段を下りる必要があった。
デザインの問題なのだろうが、ノエルはいつもこの段差と階段は必要かと疑問に思っている。
だが、一番の問題は部屋にキッチンがないことだろう。
これは自炊する人にとっては大問題だ。
ところが、ノエルは大学を卒業するまで実家暮らしで、家事は掃除と洗濯しかしていなかった。料理をした経験が少なかったので、最初から自炊する気がなかったのだ。
(ちなみに住人が自由に使える共同のキッチンはある)
だから、ノエルの部屋にはリビングの隅に簡易的な洗い場しかなく、中くらいの冷蔵庫の上にコーヒーメーカーが置かれているだけだ。
ノエルはコーヒーをセットして、ランドリールームへ向かった。バスケットから洗濯物を放り込んで回し、それからゴミ出しを兼ねて、歩いて三分のスーパーマーケットへ行く。
ずっと病院と家の往復だけで冷蔵庫の中は空っぽだ。好物のライスボールと惣菜をいくつか、水やエネルギーゼリー、朝食用のシリアルやフルーツ、ヨーグルトなどを買い込んで部屋へ戻った。
買ってきたもので夕食を済ませ、ランドリーから洗濯物を取ってきて、クローゼットへしまう。
それから、ようやくコーヒーをカップに注いでソファに座った。
テレビをつけて画面を見ながら、少し煮詰まったコーヒーを飲む。
慌ただしい日々からやっと解放されたノエルが今、考えているのはキースのことだった。
あれから、ノエルはキースのことを思い出さないようにしていた。
仕事が忙しくなったから、それを言い訳にして頭の隅に追いやっていた。
何故なら、考えたら答えを出さなければならないから。これから自分がどうすべきかを。
今、ノエルにある選択肢は三つだ。
1.キースに会えるまでバーへ通う
2.何度か行ってみて会えなかったら諦める
3.もう二度とバーには行かない
果たして自分はどうしたいのか、自身に問いかけてみた。
ノエルが悩んでいるのは、どれを選んでも自分の望む未来がないからだ。
選択肢は三つあると言ったが、実質的には二つだけだ。キースと会うか否か、である。
キースと自分の求めるものには大きな隔たりがある、とノエルは思っている。
キースは単にセックスの相手が欲しいだけ。
だが、ノエルはキースの心を欲している。
どうしてここまで彼にこだわるのか、実はノエル自身にもよくわからなかった。
ただ、キースのことをもっと知りたい。
できれば、あの冷めた瞳の理由を知りたかった。
きっと初めて目を合わせた瞬間に、ノエルの心は奪われていたのだろう。
一目惚れなんて、信じていなかった。
それが、今は一度抱かれただけの相手に、こんなにも焦がれている。
ノエルは恋人として選ばれたい。
けれど、キースはそれを必要としていない。
必要なのは、体だけ。
もしキースと会えて、連絡先を知ったとしても、ノエルが会いたい時に会える相手ではないのだ。
この隔たりは、いつかノエルを酷く苦しめるだろう。
今、もう既に苦しいのだから。
だから、理性的に考えれば、ノエルが取るべき選択肢は3だ。もう二度とあのバーに行くべきではない。
期待を捨てて、この気持ちが薄れて、いつか消えるのを待つのだ。
どんなに辛くとも、ノエルにとってはそれが最善の道だろう。
わかっているのに、まだ迷っているのはキースが気紛れに見せた優しさのせい。
もしかしたら、キースの気持ちを変えることができるかもしれない。可能性が1%でもあるうちは、諦めるのがつらかった。
――本当は諦めたくなんかない。
だって、もう知ってしまった。
キースの口づけの甘さを、触れる手の温かさを、深く穿 つ熱を。
知ってしまったら、もう戻れない。
キースと出会う前の自分には、もう戻れないのだ。
その夜、苦しい胸の裡を抱えながら、ノエルはまだ疲れの取れない体をベッドへ横たえた。
夢の中でさえも彷徨う自分が哀れだった。
翌日、夜八時すぎ。
ノエルはキングスストリート駅の前に立っていた。
一日中、悩んで考えて、ノエルが選んだ選択肢は2だった。何度か行ってみて、会えなかったら諦めること。
我ながら中途半端な答えだと思う。
ただ、何もしないではいられなかった。
赤い糸なんて信じていないが、もし二人の間に目には見えない何かしらの繋がりがあるのなら、きっと出会えるはずだ。
それを確かめるだけ。
ノエルはそう自分に言い聞かせて、ここまで来た。
あの日と同じくらいの時間、同じカフェで夕食を取って、同じようなタイミングで外へ出る。
迷っていた二十分を散策に費やしてから、覚えのある道を辿った。
裏通りの更に小路に入ったビル。
二階の入口まで階段を上り、中に入ってエレベーターで地下一階へ。
そこへ近づくにつれて、ノエルの心音はどくどくと速まった。
どうせ会えるはずはないと思うのに、もし会えたらなんて当てのない空想をして、自分勝手に緊張している。
コツコツと足音を鳴らして、扉の前に立つ。
ドアの取手に手を伸ばした瞬間だった。
店の内側から、それが開けられたのだ。
出てきた人物と正面からぶつかりそうになって、ノエルは咄嗟に後退 った。
「すいません!」
「いや、こちらこそ」
謝罪し合った二人は、互いに顔を見合わせた。
そこに立っていたのは、ノエルが焦がれてやまない男だった。
キースは少し体を引いて、ノエルを中に入るよう促した。
ノエルはそれに従うと、キースがテーブル席についたので、その向かいに腰を下ろす。
キースは今日もスーツ姿だ。チャコールグレーのピンストライプ柄に、ブラウン&ブラックのレジメンタルタイをしている。
落ち着きのある紳士然とした装いに、しばし見惚れた。
マスターが注文を取りにきたので、ノエルはウイスキーをロックで頼んだ。強い酒が飲みたかった。
キースはもう帰るところだったようなので、何も言わない。
ノエルの注文したウイスキーが来るまで、二人は無言だった。
ノエルがグラスに口をつけると、キースがようやく口を開いた。
「縁があるというのは本当らしいな」
「……そう、かもな」
ノエルは曖昧に頷いた。
まさか本当に会えるとは。
嬉しいはずなのに、ノエルの心は複雑だった。
キースはあの日と同じように名刺を出して、その裏に携帯番号を書きつけた。
「約束だからな」
それをノエルの前に差し出す。
ノエルは黙って、それを見つめた。
あの日、必死に求めたものが今、目の前にある。
だというのに、ノエルの胸にあったのは躊躇いだった。
これを受け取れば、この先は茨の道だ。
何ら建設性のない関係を、キースが飽きるまで続けなくてはならないのだ。
自分から終わらせるという結末は考えなかった。そういう気持ちになることが想像できなかった。
「もう必要ないか?」
キースが問いかける。
そこには何の感情も見えない。
どこまでも透徹とした、静かな声だった。
一拍置いて、ノエルは名刺を受け取った。
――後戻りはできない。
ノエルの名刺を掴む指に力がこもる。
自分は選んだのだ。
これから何が起こっても、全ては己の選んだ道だ。誰のせいにもできない。
痛みも苦しみも、全て自分で引き受けなければ。たとえ自分が愛されないとしても。
「……これから、どうすればいい?」
「俺に会いたいなら、まずはお前の都合のいい日を予め教えること。電話は禁止だ。俺は忙しいからな」
「じゃあ、メッセージでってことだな」
「それを見て、俺が会う日を指定する。場所はあの部屋で、夜八時以降。例外は認めない」
ノエルはキースが淡々と話すのを聞いていた。
余計な遣り取りはしたくない、というのはよくわかった。
知っていたはずだ。
傷つくのは間違っている。
「何か質問は?」
「……いや、大丈夫だ」
「なら、俺はもう行く」
キースはノエルを見ずに、席を立つと店を出ていった。
ノエルは俯いて、その音を聞いていた。
それからグラスを持って、残っていたウイスキーを一気に飲み干した。
ひりひりと灼けつくような熱さが、心に落ちた黒い雫を消し去ってくれればいい。
しばらく、ひとり茫然としていたノエルだったが、気を取り直して携帯を取り出した。
キースの番号を登録する。
名前をそのままにするのは良くないだろう。
以前、どこかでテレビタレントが《友人全てを過去の偉人の名前で登録している》と言っていたのを思い出して、ヘンリーという名にした。かつて世界の海を統べた男だ。
それから、自分の六月のスケジュールを確認した。
非番の日を確かめて、その前日と一日目の日付のみを、登録した番号にショートメッセージで送った。
今、キースはどこでどうしているだろう。
電車を使うイメージがないから、タクシーか。もしかしたら、運転手つきの車にでも乗っているかもしれない。
返信は数分で来た。
指定されたのは一日だけ。
それを寂しいと思うのに、同時に、その日が永遠に来なければいいとも思う。
ノエルの心は、あらゆる色をめちゃくちゃに塗りたくったキャンバスのように乱れていた。
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