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第7話
夏きざす六月、ラグズシティではあちこちでジャカランダが紫色をした釣鐘形の可憐な花を満開に咲かせていた。
気温も上がってきて、半袖姿の人もちらほら見かけるようになってきている。
約束の日、ノエルは軽く夕食を済ませてからホールウェイ駅に降り立った。
サマータイムが始まっているため、午後八時を回ったというのに、日暮れを過ぎた空はまだうっすらと茜色を残している。
そのオレンジから藍色に変わっていくグラデーションを見ながら、ノエルはスタインホテルへ向かった。
あの時は普段着だったが、今日はさすがに少し服装に気を使った。あんな高級そうなホテルのスイートにただのTシャツとデニムで行く勇気はない。
七分丈の紺のサマージャケットに白のVネックニット、張り感のある生地の黒スキニーパンツ、それに革のローファーを合わせた姿はモデルさながらだ。時折、通り過ぎる女性たちがノエルを振り返っていく。
相変わらずの観光客の多さに辟易しながらも、ノエルの心はふわりと浮き立っていた。
体だけの虚しい関係だとしても、好きな相手に会えるのは嬉しい。
離れている間にノエルの想いは募っていた。
キースのことを想うと胸が熱くなって苦しいのに、会いたい気持ちが溢れて止まらないのだ。
はやる思いが自然と足を動かす。
ホテルに着くと、ドアマンが何も言わずにドアを開けてくれた。どうやら話は通っているらしい。
ロビーに入ると、フロントからスタッフが近づいてきた。
「ファウラー様」
名前を呼ばれて、ノエルは足を止めた。
「マクレガー様はまだお見えになっておられません。少し遅れるとのことですので、こちらをどうぞ」
渡されたのは部屋のカードキーだった。
「…ありがとう」
なぜ彼らは自分を知っているのか、どこまで事情をわかっているのか。まさか、と思うと居たたまれない気分だ。自分があまり表情豊かでなくてよかったと思う。
ノエルは気恥ずかしさから、急いでエレベーターに乗った。
渡されたカードキーを使って部屋に入る。
愛用のバッグを下ろし、携帯を取り出してからジャケットを脱いで、ウォークインクローゼットにしまった。
少し遅れると言っていたが、どれくらいかかるのだろう。仕事が押しているのか、それとも何か急用か。
どちらにしても準備はしておいた方がいいと考えたノエルは、ベッドルームのサイドチェストからキースが使っていたローションを持ち出してバスルームへ向かった。
シャワーを浴びて、タオルで体を拭いたノエルは備え付けの薄手のガウンを羽織った。
それから脱いだ服をクローゼットのハンガーに掛けておく。
ソファに座って、しばらく携帯をいじっていると、ガチャとドアが開いた。
鍵は、と聞こうとしてノエルはやめた。いつも使っている部屋なのだから、専用キーくらい持っていて当然だ。
クローゼットに上着とネクタイを置いてきたらしいキースは、どこか疲れているように見えた。
露わになっている右目が微かに憂いを帯びていて、容易には話しかけられないような雰囲気がある。
「お疲れ」と声をかけると、「ああ」という返事があって、ノエルはほっとした。全く会話をしたくないという訳ではないようだ。
キースの常ならぬ様子が気にはなったが、顔を見て声を聴くと、ノエルの胸は高鳴った。
キースがそのままバスルームへ消えていったので、ノエルは携帯をバッグにしまってからベッドルームへ入った。
大きなベッドにころりと寝転がる。
ややあって、シャワーを浴びたキースは全裸のままバスルームから出てきた。
その顔は俯き気味で、濡れた前髪からぽたぽたと水滴が落ちている。
やはり様子がおかしい。
キースは無言でまっすぐノエルの上に覆い被さると、噛みつくようにキスをした。
ノエルがホテルを訪れた時から、遡ること三時間前。
予定の商談が早めに終わったキースは、約束の時間までまだ間があることから、ラグズシティ郊外へ向かっていた。
途中、オーガニック食材だけを扱う高級スーパーマーケットに立ち寄り、苺を購入する。
着いたのは、それなりに大きな病院だった。
中に入り、エレベーターで入院病棟の最上階へ上がる。
特別室のひとつに、小さくノックして静かに足を踏み入れた。
病院とは思えない、ブラウンを基調としたシックなデザインの病室。広い部屋には応接セットやバスルーム、簡易キッチンまでついている。
そして、今ここに入院しているのがヴィクトリアファミリーの現ボス、トレヴァー・C・マクレガー、つまりキースの父親だった。
「よお、調子はどうだ?」
「…ああ、今日はまあまあだ」
トレヴァーは淡い微笑みを浮かべた。
とてもマフィアのボスとは思えない、穏やかそうな人物だ。室内だというのに薄いニット帽をかぶっている彼は、少しだけ起こしたベッドに横たわり、テレビを見ていたようだ。
「苺、買ってきたんだ。食うか?」
「少しだけ、頂こうか」
キースはなるべくいつも通りに話しかけたが、返ってくる言葉は弱々しい。
トレヴァーが体調不良で検査を受けたのは一年ほど前のことだ。
それ以前から不調を感じていたようだが、キースにも他の誰にも知らせていなかった。
だが、ある日、トレヴァーは突然の高熱で倒れた。同時に胸の痛みも訴えたため、知人が院長を務めるこの病院へやって来たのだ。
検査結果は進展型の小細胞肺がんだった。
腫瘍は両肺全体に広がっていて、手術は無理だと診断された。今は抗がん剤と免疫系の治療が行われている。
キースはキッチンでさっと苺を洗い、皿に数粒載せて、ベッド横の椅子に座った。
リモコンでベッドの角度を上げ、皿を差し出す。
「ほら」
「ああ、ありがとう」
トレヴァーは一粒つまんで、口に入れた。
その手がひどく骨張っていることに胸が痛む。
「うん、瑞々しいな。美味しいよ」
「そりゃあ良かった」
だが、トレヴァーは二粒食べただけで手を下ろしてしまった。
抗がん剤の副作用で食事が取れなくなってきているのだ。そのせいで、ここ半年ほどでトレヴァーはかなり痩せた。
そして、治療しているにもかかわらず、トレヴァーの病状は少しずつ進行している。
父親のやつれた顔を見ながら、キースは何もできない自分に歯噛みした。
「……キース、少し話がある」
「何だよ、急に改まって」
「……これからのことだ」
どきりとキースの心臓が跳ねた。
何を言うつもりかと身を固くしたキースに、トレヴァーが告げたのは予想外のことだった。
「……もしお前が望むなら、マクレガーの家から籍を抜いてもいい」
「……は?」
「会社はうまく行っているんだろう? お前には経営者の方が向いている。お前が無理に私の跡を継ぐ必要はない」
「っ何言ってんだ!? ふざけんなよ!!」
思わず大きな声を出してしまったキースを、トレヴァーは静かな目で見ていた。
「ふざけてはいない。前から考えていたことだ」
「…何でだ…? 俺が…俺が実の子供じゃないからか?」
「……そうだ」
その肯定にキースは唇を噛んだ。握りしめた拳が白くなっている。
「お前を引き取ったのは、私の完全な自己満足だ。そのせいで、お前の可能性を奪った」
「それは違う! あのままだったら今、俺は生きてない!」
「そうだとしても、もっと違うやり方があったはずだ。……私はお前にメアリーの面影を追っていた」
トレヴァーが遠くを見つめる。
それは、キースが五歳の時だった。
キースの母親、メアリーはいわゆるシングルマザーだった。
ラグズシティで生まれたが、自由奔放な性格でひとつ所に留まっていられるような女性ではなかった。
ハイスクールを中退したメアリーはラグズシティを出て、世界各地を放浪した。そこでキースの実の父親と出会い、子を身籠った。
だが、相手は妻帯者で、メアリーは最初から結婚など考えていなかった。
相手は『妻と離婚する』と言って求婚してきたが、束縛を嫌うメアリーはそれを拒否した。
そして、子供を産むためにラグズシティに戻ってきたのだ。
無事にキースを産んだメアリーだったが、学校を中退し、きちんとした職歴もない彼女が働ける場所は少なかった。
メアリーはキースを施設に預けることも考えた。
だが、キースの小さな手が、つぶらな瞳がそれを思い留まらせた。
放浪中に両親とは連絡が取れなくなり、親しい友人もいないメアリーとキースの生活は苦しかった。
そんな時に現れたのがトレヴァーだ。
トレヴァーとメアリーはプライマリースクールが同じだった。
といっても、特別親しい訳ではなかった。現にメアリーはトレヴァーのことを忘れていた。
二人が交流するようになったのは、ひとえにトレヴァーの努力の賜物だ。メアリーがトレヴァーにとって、初恋であり最愛の女性だったから。
幼い頃から、トレヴァーは代々マフィアのボスを務める自分の家のことが嫌いだった。
誰に似たのか、と口さがなく言われるような内向的で人見知りだったトレヴァーにとって、柄の悪い大人たちが大勢、出入りする家は苦痛でしかなかった。
そんなトレヴァーに、どこまでも自由気ままに振る舞うメアリーは眩しく映った。誰の言うこともきかず、自分の思うままに生きられる彼女が羨ましかった。
トレヴァーはメアリーに経済的な援助を申し出た。
けれど、メアリーはそれを断った。縁もゆかりもない相手に迷惑はかけられない、と言った。本音はわからない。特別な好意を寄せるトレヴァーに困惑していたのかもしれない。
援助を断られたトレヴァーだったが、そこで引き下がることはなかった。金が駄目なら、と生活物資そのものを差し入れるようになった。
トレヴァーはキースのことも可愛がった。
メアリーと同じ赤い髪、赤い瞳が愛しかった。
だが、その頃、トレヴァーはファミリーとして大きなトラブルを抱えていた。他市のギャングがラグズシティに進出しようとしていたのだ。
激しい縄張り争いが起き、血を流すような抗争が何度も起こった。その対応にかかりきりになっていた。
だから、気づくことができなかった。
メアリーが死んだことを。
メアリーは働いていたクリーニング店の配達の途中で交通事故に遭い、病院へ運ばれたが助からなかったのだ。
身分証を持っていなかったため、身元確認に時間がかかった。そして、あろうことか雇い主はメアリーの住所すら知らなかった。
トレヴァーの部下がそのことに気づくまで一週間かかった。
慌てて駆けつけたフラットで、トレヴァーは独り母親の帰りを待つキースを見つけた。
キースは一週間、ほとんど飲まず食わずで、部屋の隅で衰弱していた。
トレヴァーはキースを病院へ運び込み、まるで贖罪でもするかのように看病した。
そして、退院と同時にキースを養子として迎え入れたのだった。
あれから二十一年。
キースはトレヴァーが驚くほどに成長した。
大学に入る頃、キースに起業するよう助言したのはトレヴァー自身だ。
キースにマフィア以外にも生きる道があると教えたかった。
自分がキースを養子にしなければ、彼は表の世界を堂々と歩けたはずだ。
キースの優秀さが明らかになればなるほど、トレヴァーの罪悪感は増していった。
幸い自分には甥がいる。
キースを自由にしてやりたかった。
「……今更、何言ってやがる」
キースの声は怒りに満ちていた。
「てめぇが勝手に連れてきといて、要らなくなったらポイ捨てか!?」
「そんなんじゃない!」
「そうだろうが! 俺は、俺はあんたが親父になってくれたから、だから…!!」
キースの顔が苦しげに歪んだ。
トレヴァーはたった一人の家族である母親を失った自分を、初恋の女の子供というだけで引き取ってくれた。
きちんと息子として扱ってくれたし、何不自由なく育ててくれた。厳しさもあったが、大切にされていることもわかっていた。
だからこそ、後継者として恥ずかしくないように努力してこられたのだ。
父親の気持ちには薄々、気づいていた。
トレヴァーは自分がマフィアであることを恥じているような人だ。心優しく、暴力を嫌い、ひとりで読書しているのが好きな人だ。
父親が表の世界に憧れていることは知っていた。
だが、キースは父親とは違う。
裏の世界で生きることが苦ではない。
むしろ、表の世界は窮屈で退屈だと感じている。
会社経営を続けているのは、そこにスリルがあるからだ。
それにメリットもある。表で作った人脈が裏で、裏で作った人脈が表で役に立つことがあるのだ。
父親に強制されてきたことなど何ひとつない。全て自分で選んできた道だ。
表には表の法律があるように、裏にも裏の秩序とルールがある。それを維持していくのがファミリーの役目。
父親がその役目を嫌っているのなら、自分が代わりにそれを果たそう。そう思って生きてきた。
父親の言葉に、キースはそんな自分を否定された気がしたのだ。
今更、違う生き方などできはしないし、望んでもいない。
「……俺はあんたの息子だ。あんたとクロードだけが俺の家族だ。それ以外の人間になるつもりはねぇ」
キースは吐き捨てるように言うと、荒い足取りで部屋を出た。
ただただ悔しかった。腹が立った。
そして、何よりも哀しかった。
キースの強引なキスに戸惑いながらも、ノエルはそれを受け入れた。
自ら舌を差し出し、キースのそれと絡める。官能を煽るぬるりとした感触と、熱いほど高いキースの温度に我を忘れて夢中になった。
そうしている間にキースの手は、ノエルの胸を弄り始めた。
桜色の膨らみを抓んで、くりくりと捏ね回す。戯れに押して引いて、かと思えば爪先で掻き撫でた。
「あっ、ん、あぁ、はぁ…ん」
いつの間にか離れた唇がノエルの膨らみを食んだ。甘く噛んで、舐めて、舌先で転がす。
「あん、あっ、ふ…う、あ、いいっ…」
両方の胸を同時に責められて、ノエルはあっという間に快楽の波に飲み込まれた。
ノエルの中心が緩く勃ち上がる。
キースはそれを握り込み、鈴口をぐりと押し込んだ。
「やぁっ、それだめ…!」
拒んでも、キースの責めは止まらない。
肉茎を上下に擦られたかと思うと、不意にやわやわと袋を揉み込まれる。
胸への愛撫も続いていて、ノエルの先端からは透明な雫が止めどなく流れ落ちた。
「あっ、あぁ、は…ふぅ、ん…あ、んんっ」
自分でも耳を塞ぎたくなるような恥ずかしい声が溢れて、ノエルは羞恥で顔を覆った。
体の芯から痺れるような愉悦が押し寄せ、何も考えられなくなっていく。
キースの手の動きが激しさを増し、ノエルの背が弓なりにしなった。
目の前がちかちかして、強烈な快感がせり上がってくる。
「あ、だめっ、もう…っ、あぁっ、…もう!」
「…イっていいぞ」
「ああ、イく、…っんぁ、イくぅっ…!」
ノエルは呆気なく精を吐き出した。
想い焦がれる男の愛撫に、抑えきれない嬌声を切れ切れに上げながら、全身をびくびくと悦びに打ち震えさせる。
キースがサイドチェストからローションを取り出そうとして、ノエルはその手を掴んだ。
「も、挿れろ……準備、してあるから…」
キースは少しだけ目を瞠って、それからふっと口元を緩ませた。
「……イイ子だ」
耳元で囁かれた、低く艶めいたバリトンにノエルの下腹がずくりと疼く。
キースはコンドームだけを取ると、袋を破って中身を自身に被せた。
そして、ノエルの後孔に怒張した雄をあてがうと、躊躇いなく押し入った。
「あぁぁっ…!」
慣らしておいたとはいえ、キースの太く長い楔に貫かれると、どうしても苦しさが先に立った。限界まで押し広げられた後孔が悲鳴を上げる。
キースは必死に耐えるノエルの腰と背中に腕を回し、その細身の体を抱え上げた。
「ああっ、だめっ、やぁっ…!」
胡座をかいたキースの足の上に乗り上げる形になり、ノエルは呻いた。
ノエルの自重で、キースの屹立が奥深くまで届いている。
「ふっ、くるしっ…」
「すぐに善くなる」
キースはノエルの腰を掴んで、ぐっと持ち上げると、そこから体を落とした。
持ち上げられては落とされて、下からも突かれ、キースの怒張が容赦なくノエルを最奥まで貫く。
その激しい動きに、ノエルは振り落とされまいとキースにしがみついた。
「あんっ、あぅ…ふぁ、ああっ、んっ、あっ」
くるしい、あつい、あつい、くるしい。
もう辛いのか気持ちいいのかわからなくて、ノエルはただ喘いだ。
キースは熱い吐息を零しながら、無心でノエルを揺さぶった。今は何も考えたくない。
ノエルの腰骨を掴んで何度も何度も穿つうちに、中がぐっと狭くなった。
「ああんっ、は、いいっ、あ、んぁ、ああ!」
ノエルの腹の奥がきゅんと啼いた。
気持ちいい、もっと、と譫言 のように繰り返しては、キースの動きに合わせて中を締めつける。
真っ白に溶けた脳では、あられもない声もはしたない言葉も、それを口にしたノエルの耳にはもう届かなかった。
ノエルの嬌声と、どちらのものともわからない熱っぽい息遣いが部屋を満たしてゆく。
互いの熱だけを感じながら、二人はひたすらに高みを目指した。
「ああっああんっ、もう…もうっ、だめっ!」
ノエルの背筋を凄まじい快感が駆け抜けた。
キースが一層、奥深くまで突き入れる。
「ああぁぁーー…!!」
ノエルが体を跳ねさせながら放った白濁がキースの腹を汚し、キースはそれを感じながら自らの熱情を解き放った。
互いに荒い呼吸を繰り返しながら、体中を満たす悦楽の余韻に浸る。
しばしの沈黙。
やおらキースはノエルを抱きしめた。
きつく、きつく、まるで縋るように。
キースの行動に驚いたノエルは、どうしたのかと尋ねようとして、一瞬の逡巡のあと、口を噤んだ。
思えば、部屋に入ってきた時からキースの様子はおかしかった。常に余裕を崩さなかった男が、どこか弱っているように見えた。
キースのような男が、簡単に他人に弱みを見せるとは思えない。
ノエルはキースの背中に腕を回した。
事情はわからないが、もしキースが何か心に痛みを負っているのなら、それを少しでも分かち合いたかった。
合わせた胸から、互いの鼓動が響き合う。
ノエルはただ無言で強く、強く、抱きしめ返した。
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