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第8話

 フロアランプだけが仄かに灯る部屋で、キースはベッドに腰かけ、煙草を吸っていた。  傍らには、すやすやと眠るノエルの姿がある。  あのあと何度か交わって、ノエルはまた気を失うように眠ってしまったのだ。  今回はキースが部屋に清掃係を呼んで、バスルームでノエルの体を清めている間も、バスタブに浸かって温めてやっている間にも目を覚まさなかった。  よほど疲れていたのだろう。ERでの仕事はかなりの激務だと聞いたことがある。  キースはノエルの癖のある髪を一房、指に絡め取った。  (すく)い上げた瞬間から、さらさらと零れ落ちる藍色に、微かな切なさを感じる。  キースは病院での出来事を思い返した。  父親の病室を出たあと、キースは看護師に呼び止められて主治医と話した。  それはキースにとって残酷な宣告だった。    「脳への転移が疑われます」    数日前からトレヴァーが頭痛を訴え始めたというのだ。そのため詳しく検査をしたいという話だった。  トレヴァーの患っている小細胞肺がんは進行が早く、最初から完治の可能性はかなり低いと言われていた。  キースは自分でも調べてみたが、5年生存率が20%以下と知った時の絶望感は、今も心の底に澱のように溜まり続けている。  比較的効きやすいと言われる治療を行っているが、一度は小さくなった病巣がまた大きくなり始めていた。  そこにきて転移が見つかったとすれば――。  最早、トレヴァーがこの世を去る日も遠くないということだ。  主治医と話したあと、キースは病院の片隅に置かれたベンチで一人、途方に暮れていた。  自分の最も大切な人が、もうすぐ手の届かないところへ行ってしまう。もう二度と笑顔を見ることも、会話を交わすこともできなくなってしまう。  ――永遠に、自分の前から消えてしまう。  想像できないし、したくもない。  父親のいなくなった世界で、自分の存在に意味があるのかキースにはわからなかった。  彼がいたから、今の自分がいる。  どんなに大人びていたとしても、キースはまだ二十六歳の若者に過ぎなかった。  衝撃が大きすぎて、運転手が探しに来るまでキースはその場を動けずにいた。  そして、車の中で指摘されるまでノエルと会う日だということも忘れ去っていた。  ノエルのあどけない寝顔を見つめる。  相手がノエルでなければ、自分はきっと今日の約束をキャンセルしただろう。  とても、そんな気分にはなれない。  それでも、ここへ来たのはノエルが言ってくれたからだ。  ――生きてて良かった、と。  ERで働くノエルはきっと毎日、人の命と向き合っている。自分のように助けられる者もいれば、救いきれない命に心を痛める日もあるだろう。  誰よりも命の重みを知っている。  だからこそ、会いたいと思った。  キースは短くなった煙草を灰皿に押し付けた。  思わず縋った自分を、何も言わずに受け止めてくれたノエルの腕の力強さを思い出す。  ほんの少し救われた気がした。  ノエルが自分に対して特別な想いを持っていることには勿論、気づいている。  深入りしてはいけない相手だ。  わかっているのに、ノエルの温かさが心の奥底に閉じ込めたはずの(やわ)い部分に触れるから。  きっと、また自分も触れたくなる。  キースはバスルームに脱ぎ捨ててあった衣服を拾い上げると、何かを振り切るようにベッドルームを出た。  クローゼットで着替え、ドアを開けようとして、手を止める。  ここにノエルをひとり残していくことに、僅かながらも罪悪感があった。  キースは踵を返して、リビングに戻った。  ライティングデスクに用意されている便箋を一枚、手に取る。  一言だけ綴って、それをすぐに見えるようにテーブルの上に置いた。  そして、今度こそ振り返らずに部屋を後にした。            キースが自宅に帰ると、いつも通りの出迎えがあった。大仰なことはやめろと、何度言っても聞きはしない。  だが、それはキースがそれだけ部下に慕われているという証しでもある。  執務室に入ると、クロードが待っていた。 「おかえり」 「ただいま」  これもいつものこと。  いつからだろう、クロードがこうして自分の帰りを待つようになったのは。  キースは思い返そうとしてやめた。痛い記憶が蘇りそうだ。  向かい合うクロードを見ると、やはりこの従兄は父親に似ていると思った。  特に金髪と青い目がそっくりだ。父親も抗がん剤で抜ける前は、豊かな金髪をオールバックにしていた。  黙り込んだキースに、クロードは気遣わしげに声をかけた。 「キース、病院で何かあったのか?」 「……聞いたのか」 「ああ、様子がおかしかったとな」  キースはクロードに自室に入るよう促した。  他人には聞かれたくない話だ。 「主治医に、脳転移してるかもしれないと言われた」 「……そうか」  クロードは沈んだ声で小さく頷いた。  トレヴァーの病状があまり良くないのはクロードも当然、知っている。覚悟はしていた。 「まだ確定じゃないんだろう?」 「……これから検査するって言ってたが」  それが間違いだったとしても、トレヴァーの体が死に向かっていることに変わりはない。 「キース、今日はもう休んだ方がいい」  クロードはそっとキースの肩を抱いた。  下手な慰めはかえって彼を傷つける。 「今は何も考えるな」  この血の繋がらない従弟が、どれだけトレヴァーのことを慕っているか。わかっているからこそ痛ましい。 「……んなこと、できねぇよ」 「それでも、お前には休息が必要だ」  確かに疲れている。  体が、ではなく、心が、だ。  キースは大人しくクロードに従った。  だが、ベッドに入っても眠気などひとつも訪れない。むしろ、考えたくないことまで考えてしまう。  それは、父親が亡くなったあとのことだ。  このままキース・C・マクレガーである限り、次にファミリーのボスの座に就くのは自分だ。  だが、それを快く思わない者たちがいる。  トレヴァーの腹心たちの中に、実子でないキースが後継者であることに、あからさまに反対している人間がいるのだ。 『お前に《C》を継ぐ資格はない!』  まだ子供だった頃に言われたことを思い出す。  《C》とはキャプテンの略称だ。  遠い昔、マクレガー家には世界に名を馳せる大海賊がいた。その先祖にあやかって、ミドルネームとして使っている。  だが、それを名乗れるのは直系の子孫、そして嫡子であることと決まっているのだ。  トレヴァーの実子ではないキースがそのミドルネームを使うことには、養子となった当時から反発があったらしい。  だから、キースではなくクロードを後継ぎにしようとする動きがある。  クロード自身はそれを拒んでいるが、ずっと兄弟のように育ってきたクロードと対立するような状況だけは避けたい。  万が一、内部抗争にでもなったら大事だ。  ヴィクトリアファミリーは約二百年に渡ってラグズシティに君臨してきた一族だ。  長い間、縄張りを守るために他市からの犯罪者の流入を防いできた。それは、結果的にはラグズシティの治安維持に貢献している。  市内に多数の危険エリアを持ちながらも、ラグズシティが世界でも屈指の安全性を誇る都市であり続けるのは、ファミリーがその役目を負っていることと無関係ではないのだ。  だが、もしファミリーが分裂でもするようなことがあれば、その安全性は崩れ去る。  内紛の隙に乗じて、他市のマフィアやギャングが侵入してくるだろうからだ。  人口四百万人の都市は、それだけで旨味がある。薬物、賭博、人身売買など、あらゆる犯罪において魅力的な土壌が整っているのだ。  トレヴァーの死期が近づいているからこそ、一枚岩にならなければいけない。  そう思うと、父親との養子縁組を解消するという現実も、可能性として考えなくてはならないだろう。  キースの脳裏に、不意にノエルの顔が思い浮かんだ。  養子縁組を解消してもマクレガーの名を名乗ることは可能だ。  ただのキース・マクレガーになって、愛する人と共に平穏に生きることもできるのだ。  現実に、父親はそれを望んでいる。  だが、キースはその考えをすぐに打ち消した。  ずっと裏の世界で生きてきた自分に、その生活はきっと退屈すぎる。  キースは自分の中にスリルを求める性質が潜在していることを知っている。奔放だった母の血か、それとも誰ともわからぬ実父の血か。  どちらにしても、自分にはファミリーを離れるという選択肢はないとキースは思った。  第一、自分の手は既に汚れているのだ。表の世界で生きる資格など、とうにない。  クロードが跡を継ぐなら、それはそれでいいと考えている。その時は自分が影となり、クロードを支えていけばいいだけだ。  どうすれば、ファミリーをまとめることができるのか。  キースは眠れぬ夜を過ごした。            翌日、薄いロールスクリーンから差し込む暖かい日差しを感じて、ノエルは目を開いた。  二、三度、目をぱちぱちさせてから、うーんと伸びをしながら体を起こす。  ここが自室ではないと気づいたノエルは、ぼんやりとした頭で記憶を辿った。  ああ、そうだ。昨日はキースに会って――。  はっとしたノエルは部屋の中を見回し、少しだけ肩を落とした。  キースがいない。  もう行ってしまったのだ。  ノエルは非番だが、今日は一般的には平日だ。  前の時も朝から仕事だと言っていたから、普段は普通のビジネスマンとして生活しているのかもしれない。  ノエルは取り敢えずベッドルームのロールスクリーンを全て上げ、晴れた空から降り注ぐ陽光を浴びた。  天気がいいと、それだけで気分が良くなる。  ベイエリアの景色の向こうに海が見えた。  穏やかに凪いだ、美しい(あお)。  ノエルはしばらくそれを眺めてからバスルームへ向かった。鏡に映る自分を見て、バスローブを着ていることにようやく気づく。  そういえば、キースとの情交のあとの記憶が曖昧だ。また、そのまま眠ってしまったのだろう。  だが、体に汚れもないし、腰は痛むが、後孔にもローションが残っているような違和感はない。  キースが後始末をしてくれたらしいとわかって、ノエルの胸はきゅうと詰まった。  冷めた目をしているくせに、こんなところは優しいのだ。どうせなら、もっと酷くしてくれればいいのに。  顔を洗ってタオルで拭いて、もう一度、鏡に向かった時だった。  ノエルは気づいてしまった。  見える範囲には、何の跡も残っていないことを。  ノエルはバスローブを脱いで、改めて自分の体に視線を落とした。  綺麗なものだ。  あれだけ激しく抱き合ったというのに。  花弁、一片(ひとひら)も残してくれない。  その残酷さがノエルを貫く。  昨夜あったことが全て夢だったかのような虚無感に襲われ、ノエルは唇を噛んだ。  どうしようもない切なさを追いやって、もう帰ろうとリビングに向かう。  すると、テーブルに便箋が置いてあるのが見えた。  こんなもの、昨日はなかったはずだ。  ノエルはそれを手に取って、くしゃりと顔を歪ませた。  そこには走り書きで一言。 『See you.』  優しいのか、冷たいのか、キースのことがわからない。  わかるのは、こんな一言でさえ心から喜んでいる自分がいることだ。  どうしようもなくキースが好きだ。  ノエルはその便箋を大切にバッグにしまった。      

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