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第9話

 アスファルトに陽炎が立つ八月。  まだ濃い影が長く伸びる宵の口、ノエルはホールウェイ駅に近いカフェにいた。  今日はグレーのオープンカラーシャツを黒のトラウザーパンツにタックインしたシックなスタイル。七分丈のシャツの袖をまくって腕時計を見せている。  ノエルがこんなにファッションに気を使うようになったのは生まれて初めてのことだ。  それなりに興味はあったし、自分に似合う服を選ぶようにはしてきたが、ここまでのこだわりはなかった。  それもこれも、キースがいつも上等なスーツを完璧に着こなしているせい。  そのせいで思わぬ弊害が出てきた。キースと会う日に、知らない男女から頻繁に声をかけられるようになったのだ。  ナンパ自体は珍しいことでもないが、その回数が増えて、鬱陶しいことこの上ない。  そんな訳で、今日はキースとの約束の日。  八時まで時間があったので、どこか寄ろうと思って早めに来たのだが、あまりの暑さで早々にこのカフェに避難した。  今日の最高気温は三十度以上あったらしい。らしい、というのは正確な情報を確認していないからだ。  ただ歩いているだけで、じりじりと照りつける西陽に焼かれそうになり、ノエルは当初の目的を断念した。  窓辺の席しか空いていなかったのは、日が当たって暑いからだろう。それでも冷房が効いているだけ外よりもマシだ。  ノエルは仕方なくそこでアイスコーヒーを啜りながら、携帯でERでの治療に役立ちそうな情報に目を通していた。  そのまま夕食も取ってしまおうと、トマトの冷製パスタを頼んで、支払いを済ませる。  一人でいると何人も声をかけてくるのが面倒なので、医者お得意の早食いであっという間に平らげた。  そして、そろそろ出ようかと思っていた時だ。 「ハイ、ちょっといい?」  ノエルの隣に愛嬌のありそうな青年が立っていた。  白地のプリントTシャツにロールアップしたデニムパンツ、サンダルという、いかにも若者らしい格好だ。明るいブラウンの髪がくるくる巻いているのは天然かパーマか。 「今、時間ある?」  ――またか。  ノエルはあからさまに苦々しい顔をした。 「そんな嫌そうな顔しないでよ」 「ナンパはお断りだ」 「でも、ずっと一人でしょ」 「このあと予定がある」 「そう言って、二時間くらいいるじゃない」  事実を指摘されて、ノエルは一瞬、口ごもった。ずっと見てたのかよ、と言いたくなる。 「二時間前もここにいたからさ。気になっちゃって」 「時間潰してただけだ」 「ホント? 待ち人来たらずなんじゃないの?」 「だから、予定はこのあとあるんだ」  苛々とノエルが言うのに、青年はお構いなしだ。 「お兄さん、すごく格好いいから、ちょっと話してみたくて。ね、いいでしょ?」 「悪いが断る」 「そんなこと言わないで」  しつこく食い下がってくる青年と押し問答になり、ノエルが堪らず立ち上がった時だった。  青年の向こうから聞き覚えのある声がした。 「俺の連れに、何か用か」  入口の方からカツカツと靴音を鳴らして現れたのは、誰あろうキースだった。  灰色がかったべージュのサマースーツに黒のソリッドタイを締め、足元に黒のダブルモンクストラップシューズを合わせて統一感を出している。  軽やかさがありながらもクールで、こんな暑い日でさえキースには隙がなかった。  加えて、鮮やかな赤髪に二メートルを越える体躯が、誰も逆らえないような威圧感を醸し出している。青年は完全に気圧されていた。  固まってしまった青年を一瞥したあと、キースはノエルの腰に腕を回した。 「あ、おい…!」 「行くぞ」  そのまま、ノエルはキースにエスコートされて店を出た。  店の前に停まっていた黒塗りの車に乗せられたノエルは、やっぱり運転手つき(しかも女性)の車だったかと思いながらキースを見た。 「何で…」 「そこの信号で止まった時に見えたからな」  キースの表情は平然としたものだ。 「余計なお世話だったか?」 「まさか。むしろ助かった…」  静かに発進した車はほんの二、三分でホテルに到着した。  エントランスを抜けてロビーへ。  二人並んで歩くのは初めてだ。  ノエルは初恋の時のような高揚感に包まれ、くすぐったくて仕方なかった。  それにしても、視線が痛い。  ロビーの右手側にラウンジバーがあるのだが、そこに出入りする者たちから見られている。  一人で来ていた時は気にしなかったが、この時間はロビーに結構な数の人がいるのだ。  デカい男の二人連れ、そりゃ目立つよな、と思ったノエルは小さく溜息をついたが、キースは気にした風もない。きっと見られることに慣れているのだろう。  エレベーターに乗って十六階へ。  部屋に入った途端、ノエルはキースに強く抱きしめられた。  ――ああ、まただ。  七月は二度、八月になってからも一度会ったが、キースにおかしなところはなかったから安心していた。  けれど、平静に見せている裏側で、ずっと何かトラブルを抱えているのかもしれない。  ノエルは何も言わずに抱きしめ返した。  大丈夫、安心していい、と心の中で語りかける。  しばらく抱き合ったあと、体を離したキースはノエルに口づけてきた。  舌を絡め合いながら、ベッドルームへと移動する。  キースの手がシャツのボタンを外し始めて、ノエルはストップをかけた。 「ちょっ、待て! シャワー浴びたい!」 「そのままでいい」 「やだよ! 汗かいてるし!」  家を出る前にもシャワーは浴びたが、外に出た後で結構な汗をかいてしまったのだ。  キースは少し不満げな顔をしたが、最終的には許してくれた。  ところが、ノエルがシャワーブースで体を洗い始めたところへ、キースが下着一枚で入ってきたのだ。  嫌な予感しかなかった。           「あっ、ん…ふぅ、あぁ、…あんっ」  ボディソープでぬるぬるした手が胸を這い回って、ノエルは堪えきれずに甘い声を上げた。  キースの指が、胸の飾りの周りをくるくると撫でる。そこばかり責めて、肝心なところは触ってくれない。  けれど、桜色の小さな果実は与えられている官能だけで既につんと尖っている。  ノエルは焦れったくて、腰をくねらせた。 「も、やだ…っ」  後ろから抱き込まれている体勢なので、キースの顔が見えないが、意地悪く笑っているのだろう。  このままではキースは何もしてくれない。  もう何度も交わって、キースのやり方はわかってきている。  ノエルはなけなしのプライドを投げ捨てた。 「ちゃんと、さわって…っ」  懇願すると、キースはようやく胸の果実に触れてきた。きゅっと抓むと、それだけでノエルの体は震えてしまう。  存外、器用に動く指がノエルの尖りを責め立てる。強弱をつけて捏ね回し、引っ張っては押し込んで、時に爪で弾いた。 「あんっ、あ、ふぁ、いいっ、ん、あぁ…っ」  ノエルが身悶えていると、キースの右手が徐々に下りていく。  ぬるついた手は腹を撫で、臍の中をくすぐり、更に下へ。 「や、あぁ…ん…っ」  足の付け根につうっと触れてから、内腿を撫で下ろした。何度か上下したあと、手は裏側へ回り、つつっと上へ。 「ひぁっ…!」  キースの指は更に腰辺りから背骨を辿って首筋へ、ゆっくりと撫で上げて、下りていく。 「あっ、んんっ…」  不意に両手で尻たぶを掴まれた。  そのまま、やわやわと刺激される。  緩やかに撫でさすって、また揉みしだく。  やがて、尻の割れ目に手が伸びた。 「や…っ、だめ、そこは…っ!」  キースの指が上から下へと割れ目をなぞる。  蕾を通り過ぎて、ふっくらとした会陰に辿り着くと、またそこを柔らかく刺激された。 「あぁっ…ん!」  ノエルは堪らず背中をしならせた。  キースの手は決して強引には動かない。あくまでも優しく、ゆっくりと、ノエルの性感を引きずり出す。  キースの指がゆるゆると会陰と蕾の周りを行き来して、ノエルは身を捩った。  気持ちいい、けれど焦れったい。  ノエルの中心は兆していて、もっと強い刺激を求めている。 「やだ、もう…っ」  ノエルの目に涙が滲む。 「どうしてほしい?」  少し掠れたバリトンが、耳元で悪魔のように囁いた。  その息遣いでさえも、ノエルにとっては過ぎた快感で。 「あっ、もう…まえ、さわって…!」  キースが喉の奥で笑う。  何度もキースに抱かれて、ノエルの羞恥心は薄らいでいた。甘ったるい言葉が勝手に口をついて出て、キースが喜ぶようなおねだりも促されると拒絶できない。  ノエルは荒い呼吸を繰り返しながら、壁に両手をついた。この先、きっと自力では立っていられない。  少しずつ積もり積もった悦楽が、ノエルの頭を白く染め、とろとろに溶かし始めていた。  キースはノエルの肉茎をぎゅっと握り、上下に強く擦った。ノエルの体が跳ねる。 「あぁっ、すごいっ、いいっ、もっとぉ…!」  思わず淫らな言葉を口走る。  ノエルの先走りとボディソープが混ざり合い、卑猥な音を立てながら、しゅわしゅわと泡立った。キースの巧みな指遣いが更に追い打ちをかけて、ノエルの足ががくがくと震える。  崩れ落ちそうになるノエルの体を、キースは後ろから腕一本で軽々と抱えた。 「あっ、ん、いいっ…もうっ、だめっ…!!」  散々に焦らされたノエルは少しの刺激にも敏感に反応し、あっという間に頂点へと向かう。 「あ、あ、ああぁぁー…っ!!」  ノエルは体を仰け反らせて吐精した。  はあはあと肩で息をするノエルは、けれど、まだ満たされてはいなかった。  じわじわと嬲られる間に、後孔の奥がじんじんと火照っていた。  今すぐ、キースの熱い楔が欲しい。  ノエルの蕩けきった頭は羞恥心をかなぐり捨てた。 「も、ほしい…いれて…」  振り返って、キースに懇願する。  だが、キースはそれを許さなかった。 「……続きはベッドでだ」 「なんで……?」  いつもそうだ。  バスルームでは戯れに触れ合うことはあっても、キースは決して挿入しない。  そして、ベッドでは常にコンドームを使う。  生身の熱を与えてはくれないのだ。  まるで、自分の痕跡を一切、残したくないとでもいうように。  勿論、衛生的に考えれば、それが正しい。  医者なのだから、わかっている。  ノエルもずっとそうしてきた。  けれど、今はキースの熱を直に感じてみたかった。その感触を知りたかった。  寂しいと思う気持ちがみるみる膨れ上がる。  体に残ったボディソープを洗い流されている間、ノエルは込み上げる虚しさを必死に堪えた。            ベッドで存分に愛し合ったあと、バスルームで体を清められ、湯に浸かってリラックスし、上がったらシーツが取り替えられたベッドに横たえられる。  これがノエルのルーティンになっていた。  情事の最中は意地が悪いこともあるが、キースは基本的には紳士だと思う。  初めて会った頃の冷たさは少しだけ薄らいで、ノエルと会話してくれることも増えた。  冷房で適温に保たれた室内。  ベッドでまったりとしていたノエルは、窓際に置かれたカウチに座って煙草を吸うキースを見つめていた。 「今日は帰らないんだな」 「……明日の午前中は、仕事は休みだ」 「忙しいんじゃなかったのか?」 「別に遊ぶ訳じゃない。大学時代の同級生と会う約束がある。ビジネス込みでな」  そこでノエルにひとつの疑問が浮かんだ。 「なあ、お前の会社って何してんの?」  こんなゴージャスなホテルを経営していることに興味があった。 「不動産取引だ」 「じゃあ、何でホテルを?」 「立地が良かったからだな。ここには元々、薬品の製造工場と倉庫があった。ただ、毒性が強くて今はもう製造・使用が禁止された薬品だったせいで、新しく何かを建てるには土壌改良が必要だった」 「それって金かかって大変じゃないか?」 「だから買い手がなかった。工場の建物も残ってたしな」 「よく決断したな」 「ロケーションが良かったからな。うまくやれば相当の利益が見込める」 「…すげぇ、ちゃんと仕事してんだ」  すらすらと話すキースの経営者ぶりが垣間見えて、ノエルは素直に感心した。社長という肩書きは伊達ではなかったようだ。 「あ、もしかして大学では経営学専攻だったとか?」 「まあな」 「じゃあ、その同級生も実業家?」 「……質問が多いな」  キースが少し眉を顰めたので、ノエルは踏み込みすぎたかと焦った。  だが、そこまで気を悪くした訳でもないらしい。 「モルフィルグループは知ってるか?」 「ああ、色んなリゾートとかホテル、経営してる会社だろ」 「明日、会うのはそこの御曹司だ」 「は!?」  世界的大企業の御曹司と知り合いとは、どういうことだ。大学の同級生? 「……もしかして留学してたのか?」 「ああ、グランバートンにな」 「グランバートン!? マジで!?」  ノエルは驚きで、がばっと体を起こした。 「嘘を言ってどうする」 「だって、グランバートンって、超エリートじゃんか…」  ノエルはぽかんと口を開けたまま、二の句が継げなかった。  グランバートン大と言えば、誰もが認める世界最高学府だ。大学を中心に広大な学園都市が築かれている。  政治、経済、科学、文化――あらゆる分野の著名人にはグランバートンの出身者が多い。  当然、入学を希望する者は大勢いるが、合格できるのはほんの一握りだけだ。  ノエルは平然と煙草を吸い続けるキースを見た。  とんでもない経歴を知ってしまった気がする。マフィアの一員で実業家で、実は超がつくエリート。一体、他にどんな秘密があるのか。 「……お前なら、医者にだって簡単になれそうだな」 「俺は人助けに人生を費やす気はない」 「言ってくれるじゃないか。誰のお陰で今、生きてると思ってる?」 「お前のお陰だろ。ちゃんと感謝してるさ。だからサービスしてやってるだろう?」  キースがにやりと口の端を上げる。  艶めいた流し目を送られ、ノエルの脳裏に先程までの情事が過ぎった。  かっと血が上って、ノエルはぼふんと枕に顔を埋めた。  でも、そうか、と思う。  キースがあれこれ優しくしてくれるのはサービスだったのか。命の恩人に対しての。  ノエルの胸がちくりと痛む。  黙ってしまったノエルをどう思ったのか、キースは煙草の火を消して枕元に座った。  ふわっと髪を掻き混ぜられる。  びっくりして顔を上げると、凪いだ目をしたキースがいた。 「もう寝ろ」 「……子守唄、歌ってくれよ」 「歌は得意じゃない」 「そりゃあ残念だな。いい声してんのに」 「その代わり、寝るまでは居てやる」  冗談で言ったのに、信じられないくらいの譲歩だ。これもサービスか?  もう何でもいいか、とノエルは思った。  いつもさっさと帰ってしまうキースが、寝るまででも側にいると言ってくれたのだ。 「……わかった。おやすみ」  目を閉じると、途端に眠気がやって来た。  キースの大きな手が、またノエルの髪に優しく触れた。さらさらと撫でられて、その心地良さにうっとりと浸る。  疲れた体は休息を求めていたらしい。  ノエルの意識はするりと眠りの淵を落ちていった。  すーすーと規則正しい寝息が洩れ始める。 「……おやすみ」  キースの呟きはノエルに届くことなく消えた。      

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