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第11話
夏が過ぎ、朝晩は下冷えのする秋になった。
ノエルは約束の日、いつもより早くホテルにやって来ていた。
というのも、一度ロビーの横にあるラウンジバーに入ってみたかったからだ。
三階まで吹き抜けになった空間にはシンプルな幾何学模様の絨毯が敷かれ、モダンな黒褐色のテーブルとソファが並ぶ。
臙脂のクッションと、随所に置かれた人の背よりも高い観葉植物がアクセントになり、クールでありながらも華やかさと癒やしを与える印象的な場所だ。
だが、夜になると間接照明でシックな雰囲気を漂わせている。その壁際にバーカウンターが併設されているのだ。
完全な非番でもないと、いつ呼び出しがかかるかわからないER医は、気楽に飲酒もできない。
だから、飲める時に飲んでおこうという算段だ。
今日は白のハイネックカットソーに、裾にドレープの入ったグレーのロングカーディガンを羽織ってきた。それに細めの黒のトラウザーパンツを合わせると、細長いシルエットがノエルのスタイルの良さを際立たせる。
ノエルはカウンターの一番左端に座ってジントニックを頼んだ。
実はノエルは二日後に、三十歳の節目の誕生日を迎える。
それを知る病院スタッフから今日、飲みに行こうと誘われていたのだが、断っていた。
今のノエルに、キースと過ごすよりも大切な時間はないからだ。
出てきたジントニックを口にして、ノエルはこの数ヶ月のことを思った。
ノエルとキースが会う頻度は増えている。
七月は二回だったが、八、九月は三回だった。
そして、今月は毎週だ。
ノエルがいつものように予定を伝え、その返信を見た時は本当に驚いた。
そして、何より嬉しかった。
キースに必要とされていると感じられたからだ。
最初はただセックスするだけだった関係も少しずつ変わってきていると思う。
何気ない会話が増えたし――といっても話をするのはもっぱらノエルの方だったが――、キースの表情も柔らかくなってきた。
ただ相変わらず、時折、辛そうにしていることがあるのが気がかりだ。
そういう時、キースはいつも以上に激しくノエルを求める。
もともと逞しい体躯に見合うようなタフな男が、文字通りノエルを貪り尽くすのだ。情交のあとのノエルはいつも息絶え絶えだった。
だが、ノエルはそれが嫌ではない。
むしろ歓びを感じている。
恋焦がれる相手に情熱的に求められるのだ。嬉しくない訳がない。
ノエルの体はもう、キースに触れられていない場所など一ミリもないというほどに、隅々まで愛撫され尽くしていた。
ふとキースの情欲に塗れた赤い双眸を思い出し、ノエルは頬を染めた。
もう出会った頃とは違う。
1%もなかった可能性が、今は『もしかしたら』という淡い期待に変わっている。
キースにもっと近づきたい。
けれど、重い男だとも思われたくない。
ノエルの心は、その狭間で揺れている。
二杯目に頼んだマンハッタンを手にノエルが俯き気味で思案に耽っていると、ふっと傍らに人の気配を感じた。
「今日はずいぶん早いな」
はっと顔を上げると、そこにキースが立っていた。
今日はピークドラペルのキャメルのダブルスーツに、ヘリンボーン柄のボルドーのニットタイを合わせた、品がありながらも華やかなスタイルだ。
何を着ても似合う、と思ったあと、いや自分に似合うものを知っているのだと思い直した。
キースはそのままノエルの右隣に座って、ウイスキーをロックで頼んだ。
メニューには色々なウイスキーが並んでいるが、バーテンダーが困る様子もないから、頼むものはいつも同じなのだろう。
「酒を飲みに来たのか?」
「ああ、非番じゃないとなかなか飲めないからな」
「医者というのは難儀だな」
「そうかもな」
「……カクテル以外の酒なら部屋にもあるぞ」
キースの言葉に、ノエルは思わず横を向いた。
だが、長い前髪に隠れて、その表情は見えない。
初めてこのホテルに来た時、キースは『酒でも飲んで話がしたい』と言ったノエルを拒否したはずだ。
あの日のことが遠い夢のようだった。
それとも、今の自分が夢を見ているのか。
ノエルは残っていたマンハッタンをぐいっと飲み干した。
「なら、俺もウイスキーにするかな」
「ワインもある」
キースも出てきたウイスキーを一気に飲み切って、立ち上がった。
何とも言えない浮遊感に浸りながら、ノエルはキースの後に続いた。
部屋で上等な白ワインを開けた二人は、結局は一杯飲んだだけでベッドルームへと雪崩れ込んだ。
会えば触れたくなるのは、どちらも同じだったらしい。
キースは事後、いつものように眠ってしまったノエルを残して、リビングへやってきた。
飲みかけのまま置かれたボトルから白ワインをグラスに注ぎ、ぐいっと呷る。
それから、ふーっと深く息を吐き出した。
エントランスへ入った時、ラウンジに目を遣ったのは単なる偶然だった。
そこにノエルの姿があって、少し驚いた。
長い脚を余らせるように組み、静かにグラスを傾ける姿が、何故かひどく美しいもののように見えたから。
だが、それだけなら通り過ぎていたかもしれない。
時間になれば部屋へ来るのだ。
酒を飲んで話でも、などと思っていた訳ではない。
キースがラウンジへ行ったのは、明らかにノエルに近づこうとする男が見えたからだ。
ノエルは容貌の整った男だ。
意志の強そうな琥珀の瞳や、通った鼻筋、形の良い厚みのある唇が絶妙なバランスで配されている。
だが、ノエルを見て最も惹かれるのは、彼の纏う雰囲気だろう。
どこか危ういのだ。
わかりやすい妖艶さはないが、眼差しや仕草から洩れ出る、儚げな魅力がある。
カクテルグラスに触れる指が、唇が、蠱惑的な色香を漂わせるのだ。
それは、まるで誘蛾灯のように、ある種の男女を強く惹きつける。
その男を見て、キースの足は勝手に動いた。
部屋に酒があると言ったのは、あの場からノエルを連れ出すためだ。
他の誰の目にも触れさせたくない。
その宝石のような瞳に、自分だけを映させたい。
あの瞬間、確かに自分はそう思った。
キースは諦念を表すかのように上を向いて、手で顔を覆った。
一体、自分はいつからこうなった?
いつから、こんなにも心を傾けていた?
ノエルが深入りしてはいけない相手だと知っていたはずだ。
それなのに、気づけばノエルの都合にスケジュールを合わせている自分がいる。
情事のあとのルーティンもそうだ。
後始末をするのは表の顔に悪評を立てないための行為で、誰に対してもそうだった。別にノエルだけが特別だった訳ではない。
それが、いつからかノエルへの慈しみへと変わっていった。
父親のことで心が弱っているのは確かだ。
ノエルはそんな自分を受け止めてくれる。
どれだけ激しく抱いたとしても責めることはないし、こんな体だけの関係に不満ひとつ言わない。
甘えている、という自覚はある。
キースはベッドルームへと目を向けた。
ノエルを腕の中に掻き抱いた時に湧き上がる感情は、ただセックスするだけの相手に持つものではない。
もう認めざるを得なかった。
自分もノエルを特別に想い始めている。
キースは再び深々とした溜息をついた。
これは許されない感情だ。
これ以上、ノエルを心に棲まわせてはいけない。引き剥がさなければ。
けれど、キースには『もう二度と会わない』と告げる勇気もなかった。
キースは今、父親の望みを受け入れようとしている。
がんの転移が見つかってから、キースは治療を受けてくれるよう、長いこと父親を説得してきた。
だが、柔和な性格からは想像もつかないほどトレヴァーの意志は固かった。
自分が決めたことを決して曲げない、芯の強さがあった。
彼は、単に治療が辛いから拒否している訳ではない。
治療したとしても、長くて数年、生き長らえるだけ。それとて、ベッドの上に縛りつけられていては生きている実感がない。そう思っている。
トレヴァーは彼なりの尊厳を守りたいのだ。限りある命を、意味のあるものとして残したいだけだ。
父親と何度となく言葉を交わしたキースは、もう彼の意志を変えることはできないと諦めるしかなかった。
これから死にゆく父親を、黙って見つめていなければいけない苦しみは、言葉では言い尽くせない。
一人ではきっと耐えられない。
だからといって、クロードやエヴァンには弱い自分を見せたくなかった。
今、キースにとって、それができるのはノエルだけなのだ。
余りにも身勝手だ。
それはわかっている。
けれど、ノエルの体温は自分をひどく安心させる。
抱きしめてくれる腕が、愛しさを伝えてくれる瞳が、どこまでも寄り添うように重なる肌が、全てを許してくれているようで。
――手放したくないと願ってしまう。
キースは残っていた白ワインを、まるで水のように飲み干した。
どれだけ飲んでも、酔えそうにない。
キースはベッドルームに戻って、ノエルの枕元に静かに腰を下ろした。
癖のある深い藍色の髪が、フロアランプの光を受けて、細く淡い輝きを放っている。
少し疲れた顔が、キースの胸を締めつけた。
そっと瞼に触れて、そのまま目の下をなぞる。
堪らない切なさにキースは顔を歪ませた。
こんなことになるなら、あの夜、ノエルをこの部屋に入れなければよかった。
最初から間違っていた。
ノエルの恋情が滲む瞳に負けてしまった。
あの時、もう全ては始まっていたのだ。
キースは己の愚かさを痛いほど感じながら、ノエルの髪に唇を落とした。
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