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第12話
秋が過ぎ、街はクリスマスを目前に、華やかなムード一色になっていた。
キースがノエルの勤めるERに運び込まれた日から、ちょうど一年と少し。
二人は週に一度の逢瀬を続けている。
だが、ノエルは失意の中にいた。
キースがまた冷淡な態度を取るようになったからだ。
自分が何かしてしまったのだろうか。
それとも、もう飽きてしまった――?
けれど、会うのをやめる訳でもないので、ノエルはどうしていいかわからなかった。
今日は約束の日だが、ホテルへ向かうノエルの足取りは重い。
太陽が沈みきった暗い道で、冷たい空気に包まれると嫌な想像ばかりしてしまう。
すれ違う観光客たちの楽しげな声が、今は耳障りに感じた。
それでも、ノエルから終わらせるという選択はやはりできなかった。
どんなに冷たくされても、抱かれている時は全て忘れられる。
キースも、その時だけは熱情を見せるのだ。
その熱を失いたくなかった。
ひゅうと風が吹き抜けて、ノエルは身震いしたあと両腕をさすった。
今年は例年になく寒い。
普通ならラグズシティの十二月の平均気温が十度を下回ることはない。
だが、異常気象なのか、朝、霜が下りていることもあるくらいだ。
お陰でコートの売れ行きは順調らしい。
ノエルもダークブルーのPコートを新しく買っていた。
仕事も忙しかった。寒さと乾燥による火事や路面凍結による事故などが増えて、ERは常にフル稼働だ。
ノエルが俯きがちに歩いていると、やがてスタインホテルが見えてきた。
中から白い光が眩いばかりに溢れ出している。
ここからエントランスに入るまでの数分が、ノエルは一番、憂鬱だった。
ノエルはキースの顔を思い浮かべた。
何があろうと、やはり自分はキースが好きだと思う。それはずっと変わっていない。
だから辛い。
ふと、初夏のあの日、バーでキースと再会した時のことを思い出した。
あの時、ノエルにはキースとはもう会わないという選択肢があった。
それでも、ノエルはあのバーへ行ったのだ。
だから、わかっていたはずだ。
痛くても苦しくても、それは自分が選んだ道で、全て自分で引き受けなければならないと。
ノエルはきゅっと唇を引き結んだ。
優しくされなくても構わない。
決めたのは、自分自身だ。
ノエルは気を取り直して歩を進め、ホテルのエントランスへ入った。
その時だ。
ノエルの携帯が緊張感のある音で鳴り始めた。
病院からの連絡だ。
ノエルはロビーの隅に移動した。
「もしもし」
『あ、ドクター。今、大丈夫ですか!?』
電話をしてきたのは看護師のペインだった。
「ああ、何かあったのか?」
『実はノースコネクト・ハイウェイでデカい玉突き事故があって、かなり負傷者が出てるみたいなんです』
「……受け入れ要請か?」
『はい。今のところ重傷者三名の要請が来てるんですけど、これからまだ増えるかもって』
「……そうか」
『ホントに申し訳ないんですけど、今から来てもらえませんか?』
今で重傷者三名なら、数は確実に増えるだろう。迷う理由はなかった。
「わかった。すぐ行く」
電話を切ったノエルは踵を返してから、立ち止まった。
時間はもうすぐ八時半。
キースはたぶん到着しているだろうが、メッセージを送ればいいだけだ。
けれど、ここまで来たのに顔も見ずに行くというのか?
そう思うと、何故か足が動かない。
少しの迷いのあと、ノエルはエレベーターへ向かった。
直接、今日は仕事が入ったと言うだけだ。ほんの数分で済む。
ノエルは小さく自嘲の笑みを浮かべた。
キースがどう思っていようとも、結局、自分の気持ちに揺らぎはないのだ。
こんなにも深く想っているのに、『好き』という一言すら口に出せない関係に心の軋みを感じる。
だが、ノエルはそこから目を逸して、蓋をした。考えてはいけない。
1601号室に着いたノエルは、キースから渡されていたカードキーを使って中に入った。
キースは既にガウン姿でソファに座って、煙草を吸っていた。
「悪い、遅くなった」
「いや」
素っ気ない返事に、胸がちくりと痛む。
「悪いんだけど、今日ダメになったんだ。デカい事故があって、これから行かないとならなくて…」
ノエルが言うと、キースはしばし黙ったあと立ち上がった。
「…わかった」
そのままベッドルームへ行ってしまったキースに拒絶されたような気がして、ノエルは強く唇を噛んだ。
だが、ここでぐずぐずしている訳にもいかない。自分を必要としている人がいるのだから。
ノエルが部屋を出ようと身を翻したところでキースが戻ってきた。
「下に車を回しておいた。乗っていけ」
「え…」
「急ぐんだろう。電車より早く着けるはずだ」
キースの言葉がすぐには飲み込めなかった。
車に乗る? キースが使っている車に?
「どうした」
固まってしまったノエルに、キースが怪訝そうな顔をする。
「あ、いや」
「早く行け。患者は待ってくれないだろう」
じわっとノエルの目に熱いものが込み上げた。
ああ、そうだ。どれほど冷淡に見えても、キースの根底には温かいものが流れている。
だから、嫌いになれないのだ。
「ありがとう…! 今度絶対、埋め合わせするから!」
ノエルはそう言い置いて、振り返らずに部屋を出た。
キースの気遣いを無駄にしてはいけない。
ほとんど走るようにエレベーターに乗り込み、ロビーに下りると、エントランスの向こうに黒塗りの車が横付けされているのが見えた。
ドアマンがエントランスと車のドアを開けて待ってくれている。
「ありがとう!」
すれ違い様に礼を言って、車に飛び乗った。
後部座席に収まると、運転手がちらとノエルを窺った。
前に乗った時も女性運転手なのは珍しいと思ったが、よく見るとかなり若そうだ。キャラメル色の髪をお団子のように結っている。
「…シートベルトを」
「あ、すまない」
促されて、ノエルがシートベルトを締めると、車は静かに走り出した。
それにしても、電車より早く着けるというのは本当だろうか。この時間、多くの幹線道路は混雑している。場所によっては渋滞しているかもしれない。
だが、ノエルの心配は杞憂に終わった。
若い運転手は幹線道路から逸れて裏道に入ると、信号の少ない道をするすると走らせた。
ラグズシティの道路を全て把握しているかのような、迷いのない運転だった。
有り難いことに、ノエルは電車を使うよりも十分は早く病院に到着することができた。
ノエルが何も言わなくても、正面玄関を通り過ぎて職員用の通用口に車を止めてくれる。
「ありがとう! 助かった!」
ノエルの言葉に彼女が小さく頷く。
ノエルは急いでERの待機所に向かった。
部屋の周りには、もう大勢のスタッフたちが集まり始めている。
ノエルは中に入って、キャップとマスク、ゴーグルを着け、ガウンに着替えて手袋をはめた。
処置室に行くと、部屋の前に今日の夜勤を担当しているベラドンナとターナーが待っていた。
「早かったわね」
「ああ。それで状況は?」
「まだレスキュー隊が救助中で、詳しいことはわからないの」
ベラドンナが首を振ると、ターナーが説明を付け加えた。
「先頭と後方に挟まれた車の何台かが大破してたそうだ。今から運ばれてくる患者は、その車に乗ってたらしい」
「怪我の程度はどんな感じだ?」
「一人は頭部損傷、一人は全身に複数の開放骨折、あと一人は大きな外傷がないのに意識不明」
「内臓をやられてるかもしれんな」
「そうか……」
ノエルはこれから自分たちがどう動くべきか、目まぐるしく思考を巡らせた。
ここまで来れば、他に考えることはない。
そうするうちに、遠くからサイレンが聞こえてきた。
ノエルたち、ER医の長い夜が始まった。
全てが落ち着いたのは翌日の夜だった。
最終的に六名の重傷患者を受け入れ、全員の命を救うことができた。期待されていた以上の結果だろう。
スタッフ全員が労い合うのを見届けてから、ノエルは帰路についた。
シャワーを浴びて、ベッドに仰向けに寝転がると、疲労ですぐに睡魔がやってくる。
だが、それを何とか堪えて、ノエルは携帯の画面を開いた。
キースとは会う日取りを決めるだけの遣り取りしか、したことはない。
けれど、今回はきちんと礼を言っておきたかった。
何と送るか迷ったが、結局は『ありがとう。助かった』という一文だけに留めた。
キースは自分の仕事にはあまり興味がないだろう。あれこれ説明するのは、かえって鬱陶しいかもしれない。
すぐに返信があった。
『My pleasure 』という簡潔な一言。
それでも、ノエルは嬉しかった。
キースの気持ちがわからなくて塞ぎ込んでいたが、少しだけ光明が見えた気分だ。
次に会えた時は、ちゃんと自分の声で伝えよう。
そう思っていたノエルだったが、年内にもう一度会う予定だった日、キースは何故かホテルに現れなかった。
今まで、一度だって予定をキャンセルされたことはない。それがまさか、何の連絡もなく来ないとは。
――信じられない。どうしてだ?
部屋で一晩中、寝ずに待っていたノエルは絶望に打ちひしがれた。
思い返せば、忙しそうな時でもキースは時間を作ってくれていたようだった。もしかしたら自分の予定に合わせてくれていたのかもしれない。
今回のことで面倒になったのだろうか。
本当に終わってしまうかもしれないと思うと、目の前が真っ暗になる。
それでも、ノエルは一縷 の望みをかけて、一月の予定を送った。
だが、返信はなかった。
ノエルは暗澹とした気持ちで年末を過ごし、そのまま新年を迎えた。
ノエルからのメッセージに返信したあと、しばらくの間、キースが個人用の携帯を見ることはなかった。
何故なら、トレヴァーの容態が急変したからだ。薬剤性の間質性肺炎だった。
トレヴァーの状態は本当に急激に悪化していった。咳、息切れ、発熱に始まり、最後は重篤な呼吸困難に陥った。
そして、クリスマスイブの夜、とうとう還らぬ人となってしまったのだった。
キースは泣いた。
トレヴァーの体が体温を失っていき、完全に冷たくなったあとも手を握り続け、夜が明けるまで泣き通した。
穏やかな死に顔だった。衰弱しきっていた訳ではなかったので、エンバーミングを施すと元気だった頃の面影が戻っていた。
これでよかったのだろう。
トレヴァーが望んでいたことを、キースも少しだけ理解できたような気がした。
キースが悲嘆に暮れていたのは、その一時だけだ。
トレヴァーの葬儀や相続に関する手続き、動揺する構成員たちの取りまとめ、トレヴァーの腹心だった幹部たちとの話し合い。
会社の関係者にも事情を伝えねばならず、その対応に追われた。
泣いている暇などなかった。
エヴァンが葬儀に顔を出してくれたが、痛ましげな顔で礼を言うだけで、ずっと側にいてくれたクロードにも辛い顔は見せなかった。
全てはキースが正式にファミリーのボスに就いたからだ。
一番上に立つ者が弱さを見せてはいけない。
その一心だった。
異論を唱える者はいなかった。
トレヴァーが幹部たちに「後継者はキースだ」とはっきりと告げ、遺言書を残していたのだ。
父子で時間をかけて話し合ううちに、トレヴァーもキースの覚悟を認めたようだ。
そこから、また身の回りが慌ただしくなった。
そして、一年の最後の夜、ようやくキースは自室で一人の時間を過ごしていた。
窓際の壁に寄りかかり、静かに煙草を燻 らせる。これで吸い納めにしようと思っていた。
トレヴァーは子供の頃から喫煙者に囲まれていた。それが肺がんになった大きな原因のひとつだろう。
キースは禁煙するよう何度も言われていた。
父親の最期の願いだ。
キースの頬を、すうっと一筋の涙が伝い落ちる。
窓の外に目を遣ると、いつもと変わらない景色がそこにあった。
自分に何が起きても、世界は何事もなく回っていくのだろう。
だが、きっとそれでいいのだ。
世界とはそういうものだ。
ひとつだけ気がかりがあるとすれば、それはノエルのことだった。
約束の日、キースは何の連絡もせず予定をキャンセルした。忘れていた訳ではなかったが、余裕がなかった。
ほんの一言でも、何か伝えればよかったのかもしれない。
けれど、あの夜、キースは思い出したのだ。
ノエルが仕事で病院へ戻っていった夜。
自分たちは、住む世界が違うということを。
ノエルは表の世界を堂々と、多くの人たちに必要とされて生きている。
だが、自分は違う。
若き実業家として会社を経営し、政財界からも認められてきてはいる。
だが、それはあくまでも仮の姿だ。
表の顔は、全て偽り。
ノエルの前でも仮面を外したことはない。
マフィアのボスがスター扱いされていたのは一世紀以上も前のことだ。今は常に警察に監視され、市民からも嫌悪されている。別にそのこと自体には何の感情もない。
ただ、そんな自分が、これから先もずっとノエルを縛りつけていいのかわからなかった。
ノエルなら、望めばすぐにでも彼に相応しい伴侶が見つかるだろう。幸いラグズシティはずいぶん昔から同性婚が認められている。
男でも女でも、どちらでもいい。ノエルを幸せにできる人間は他にいる。
だが、その未来を想像したキースは、腹の奥がぐらぐらと煮え立つような感覚に陥った。
ノエルが他の誰かに、あの熱っぽい眼差しを向けると思うだけで、キースの中に隠されている凶暴な感情が顔を出す。
キースは携帯を手に取った。
メッセージ画面を開いて、ノエルからの連絡に目を通す。
怒涛のような一週間を終えて、今キースの中にあるのは、ただノエルに会いたいという気持ちだった。
ノエルの温もりを直に感じたかった。
胸に開いた大きな空洞は、どうやっても塞ぐことのできないものだ。
誰もトレヴァーの代わりにはなれない。
けれど、ノエルならその空洞に温かい空気を送り込んでくれる。きっと、このどうしようもない孤独と寂寥を慰めてくれる。
何と身勝手な理由だろう。
それでも、ノエルでなければ駄目なのだ。
家族でも友人でもない、ノエルという、自分が心から想う人間だからこそできることだ。
もう誤魔化しはきかない。
自分を騙し続けるのには、もう疲れた。
キースは自分の胸に手を当てた。
――ノエルが好きだ。
心から、愛しく想っている。
手放さなくてはいけないのに、それができない。
もう恋などしないと決めていた。
けれど、運命は勝手に降りかかってきた。
最初から、逃れる術はなかったのかもしれない。
キースは携帯に文字を打ち込んだ。
もう一度だけでいい。
ただ、会いたいと思った。
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