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第15話
ノエルの様子が落ち着くのを待ってから、キースはバスルームへ入った。
先にバスタブの蛇口を捻る。
キースはシャワーの温度を確認してから、さっと自分の体を流した。
いつも通り内線で清掃係を呼び、それから、ぐったりとしたノエルを抱えてシャワーブースに入る。
ノエルを自分の膝に座らせ、水流を弱めて体の汚れを綺麗に落とした。優しく丁寧な手つきにノエルはうっとりしてしまう。
だが、今日はこれでは終われない。
ノエルの中に出したものを始末しなければ。
今までは軽くローションを流すくらいでいいから簡単に済ませていたが、そうはいかない。
「ノエル、少し立てるか?」
「…ん」
ノエルはキースの意図に気づいて、震える脚に何とか力を込めて立ち上がった。
壁に向かって手をつき、そのまま寄りかかる。
キースはノエルの後孔に指を入れ、奥深くまで探った。
とろりと半透明に濁った粘液が流れてくる。
「ん、ふぅ…っ」
無意識に締めつけてしまいそうになるのをノエルは何とか堪え、キースに身を任せた。
キースは慎重に指を動かし、ゆっくりと精液を掻き出す。
「あっ、んん…」
「んな声出すなよ。変な気分になるだろうが」
「んっ、だって…」
笑みを含んだ声で言われ、ノエルは途端に恥ずかしくなってしまった。
それでも、その指がひどく繊細に動くから、抵抗はせず、キースがやりやすいようになるべく力を抜こうと心がける。
キースは最後は蕾を広げ、下からシャワーの湯を当てて、さっと中を洗い流した。
「ふう…」
ノエルからほっとしたような吐息が洩れた。
「大丈夫か?」
「ん」
頷くと、ノエルはまたキースに抱き上げられた。
ちょうどバスタブに湯が溜まっている。
キースはノエルを抱えたまま中に入った。
「なあ」
ノエルはくるりと体の向きを変え、キースと向き合った。
「何でいつも湯に浸かるんだ?」
「ん?」
「面倒じゃないか?」
これはノエルがずっと思っていた疑問だ。
体だけの関係で、ここまでしてくれる相手はまずいない。だから、ずっと不思議だった。
「何でって、そりゃお前の体が冷えてるからだよ」
「え、そうか?」
「汗かいたら冷えるだろ。けど、それにしても冷たすぎるからな」
「ああ、俺、低体温なんだよ。だからだ」
「平熱何度?」
「36度1分」
「マジか」
「うん。お前は?」
「37度8分」
「2度近く違うな」
少し驚いたあと、ノエルはふふっと笑った。
「素のお前って、こんな感じだったんだな」
「幻滅したか?」
「まさか」
ノエルはキースの首に腕を回した。
「どっちもお前だろ。どっちも好きだよ」
返事の代わりにキスを受ける。
ノエルはことりとキースの肩口に頭を預けた。
ああ、どうしよう。幸せすぎて怖いくらいだ。
明日、目を覚ました時、もし全部が夢だったら――。
「……何か変なこと考えてるな」
「えっ」
「顔見りゃわかる」
キースはノエルの額にキスを落とした。
「小難しいことは、今は考えるな」
「……うん」
そうだ。自分たちは普通の恋人同士には多分なれない。キースは表と裏の顔を併せ持つ、特殊な男だ。『好き』の言葉に、言葉が返ってこないのもきっとそのせいだろう。
でも、それでもいい。
選んだのは自分だ。どんな形でも、キースの側に居られるなら、愛してもらえるなら。
キースの首に回した腕に力を込める。
応えるようにキースもノエルを抱きしめた。
程よく温まったところで二人はバスタブから上がり、タオルで体を拭いて、そのままベッドへ潜り込んだ。
ノエルが視線を上げると、ヘッドボード越しに夜空が見えた。
都会の薄明るい夜空にも、ちらほらと星が輝いている。
けれど、目には見えないだけで、本当は数え切れないほどの星が瞬いているはずだ。
少しだけ、キースに似ていると思った。
表面上からはわからないことが、まだたくさん隠れている気がする。
いつか全てを知ることができるだろうか。
ノエルがぼんやりとしていると、キースがふわりと頭を撫でてきた。
「そろそろ寝ろ」
「ん、……なあ」
「大丈夫だ。ちゃんと朝までいる」
どうして自分が聞こうとしたことをわかっているのか。キースは本当に不思議な男だ。
ノエルはすりっとキースに体を寄せた。
キースもノエルの肩を抱き寄せる。
その夜、初めて二人は寄り添って眠りについた。
この上ないくらいに満ち足りた気持ちだった。
翌朝、ノエルは香ばしいコーヒーの香りで目を覚ました。
隣にいたはずのキースがいない。
ノエルが起き上がると、部屋のロールスクリーンが全て下ろされていた。先に起きたキースが、ノエルがまだ眠っていられるようにと下ろしておいたのだ。
ノエルは窓際のカウチに置いてあったガウンを手に取って羽織った。
部屋の中は空調でほんのりと暖かい。
リビングに行くと、ソファに座ってコーヒーを飲みながら新聞を読んでいるキースがいた。
「…おはよ」
少し照れくさいが思い切って声をかけると、キースが新聞から目を上げて、小さく微笑んだ。
「ああ、おはよう」
「早いんだな」
「まあな。言ったろ、ヒマじゃないって」
「これ、全部読むのか?」
ノエルはテーブルの上に積まれた新聞に目を遣った。キースが手にしている以外にも四、五紙はある。
「ああ。つっても、ざっと目を通すだけだ」
ノエルはぱらと新聞の山をめくってみた。
主に経済を扱うものの他に、政治を扱うものや業界紙、国内だけでなく世界経済新聞もあった。
ノエルはせいぜい一般紙を読むくらいだ。
さすがにやり手の実業家は違う。
「腹減ってないか? 朝メシ食うならルームサービス頼むけど」
言われたノエルは急に空腹を覚えた。
部屋の時計を見ると、もうすぐ九時だ。
「うん、食べる」
「パンが嫌いなら何がいい? ミューズリーかグラノーラ、ポリッジ(オートミールのお粥)もある」
「じゃあ、ポリッジ」
「わかった。お前は顔洗ってこい。寝癖すげぇぞ」
「マジで!?」
ノエルは慌ててバスルームへ向かった。
もともと癖っ毛のノエルは油断すると寝起きがひどいことになるのだ。
鏡を見ると、髪の毛が四方八方に飛び跳ねている。
「うわ…」
ノエルは手早く顔を洗い、手櫛では直りそうもないと、髪を濡らしてドライヤーを使おうとした。
その時だ。
ガウンの襟元にちらりと赤い色が見えた。
はっとして、ノエルはガウンの前を全てはだけた。
そこには昨夜の情事の名残りがあった。
首筋に、胸、腹、太腿の内側は特に多い。
――ちらちらと舞う、赤い花弁。
今まで、キースが所有の証しを残したことはなかった。それが、こんなにも嬉しいものだとは。
ノエルの胸に喜びが満ち溢れる。
望んでいたことが、全て叶ってしまった。
でも、これは夢じゃない。
そのことにじーんと浸っていると、余りにも静かなことを心配したキースが顔を出した。
「おい、大丈夫か?」
「あ、ああ」
「寝癖、直ってねぇぞ」
「…わかってる」
ノエルの姿を見て、キースはふっと口の端を上げてから戻っていった。たぶん見透かされている。
少し気恥ずかしい気分で急いで寝癖を直していると、どうやら早くもルームサービスが届いたようだ。
リビングに戻ると、窓際のダイニングテーブルに、とてもルームサービスとは思えない美味しそうな朝食が並んでいた。
ボイルしたソーセージ、彩りの鮮やかなサラダ、ベイクドトマト、ハムにチーズ、苺やオレンジ、キウイといったフルーツ類。
温かいポリッジに、ドライフルーツがのったヨーグルト、フレッシュジュース。
何よりも驚いたのは、まだほわほわと湯気の立つ、焼き立てのオムレツがついていたことだ。
「すごい、出来立て?」
「今の時間は上でまだ朝食ブッフェをやってるからな。シェフが作ってる」
「めちゃくちゃ美味そう…」
呟いて席についたノエルだったが、その朝食が一人分しかなくて首を傾げた。
「お前は食べないのか?」
「俺はこのあとランチミーティングがある」
「ランチミーティング?」
「ああ。同世代の経営者たちが集まって情報交換するんだ。面倒だが、たまにいい情報が手に入るからな」
「ホントちゃんと社長してるな…」
「どういう意味だ」
「そのまんまだよ」
「失礼な奴だな」
そう言いながらも向かいに座ってくれるキースが優しいと思った。
まだ新聞を読んでいるところを見ると、手を止める時間がないのだろう。
キースは父親を亡くしたばかりだ。
ノエルは何とか支えになりたいという思いを強くした。
「いただきます」
一口すくって食べたオムレツはほかほかと温かくて少し塩気のある、幸せの味がした。
朝食の後、キースはライティングデスクの椅子に座ってあちこちに電話していた。表の仕事のことだ。
ノエルはソファでまったりとその様子を見ながら、食後のコーヒーを楽しみ、テレビを見たりして過ごした。
だが、楽しい時間には終わりが来る。
昼近くになり、二人はウォークインクローゼットの中で身支度を整えた。
コートとバッグを取りにいつもの部屋へ戻ると、キースはドレッサーの棚から香水瓶を取り出した。
「香水なんてつけてたのか」
「まあな」
ノエルがキースと会う時は大抵、キースはもうシャワーを浴びたあとで、朝まで居ることもなかったから知らなかった。新しい発見だ。
キースはシャツの前を開け、黒の円筒形をしたガラス瓶を胸元に向けてシュッと一吹きさせた。
ふわりと柑橘系の香りが舞う。
「あ、いい匂い。俺もつけたい」
思わず、ねだってしまった。
「別にいいけど」
キースはノエルの首筋にワンプッシュだけ吹きかけた。
「これはお前向きじゃねぇぞ。お前なら、もう少しオリエンタルな方が合う」
「そうか?」
「これはトップノートは爽やかだけど、ベースはウッディだからな」
「ふうん」
医者という職業柄、あまり香水には興味がなかったから、そう言われてもピンとこない。
「今度、お前に似合いそうなのをちゃんと見繕ってやる」
「いいのか?」
「こういうのは自分に合うものを選ばないと駄目だからな」
香水を選んでもらうなんて、本当に恋人同士のようだ。我知らず、ノエルの口元に笑みが浮かんだ。
コートを着て、部屋を出ようとしたところでキースが立ち止まった。
ノエルを見て、少し申し訳なさそうにする。
「今月は忙しくてな。あまり時間が取れねぇ」
「…うん、わかった」
ノエルは素直に頷いた。
キースがそう言うということは、よほど忙しいのだろう。
せっかく想いが通じたのだから、もっと一緒にいたい。できれば四六時中くっついていたいくらいだが、ここは我慢だ。
だが、寂しそうな顔は隠せなかったらしい。
「…時間が空いた時に電話する。それでいいか?」
ぱあっとノエルの表情が輝いた。
「ああ!」
キースが優しげに微笑む。
そのまま引き合うように口づけを交わし、二人並んで部屋を出た。
エレベーターでロビーへ下りる。
特別な時間がもう終わってしまうかと思うと、ノエルはまた寂しさに襲われた。次に会う時まで本当に我慢できるだろうかと不安になる。
だが、エントランスの向こうにはもう既にキースの車が到着していた。
いくら両想いになったとはいえ、煩わしさを感じさせたくはない。
仕方なくエントランスを出ると、ひゅうっと冷たい風が吹き過ぎた。
「さむっ」
ノエルが思わず首を竦める。
「マフラーはどうした?」
「…出がけにバタバタして忘れた」
そう、あの時、電話さえ来なければ忘れずに済んだのに。
ノエルが思い出して口を尖らせると、ふわっと首元を柔らかいもので覆われた。
それはキースが着けていたマフラーだった。
「いいのか?」
「俺は車だからな。返さなくていい」
「でも、これすごい高そう…」
肌触りが良く、軽い着け心地のそれは多分カシミア製だ。黒とキャメルのリバーシブルで、シンプルなブランドロゴが入っている。
「マフラー一本くらいどうってことない」
「…ありがとう」
素直に礼を言うと、ノエルの額にキースの唇が下りてきた。軽く触れて、離れてゆく。
「気をつけて帰れよ」
そう言って柔らかな笑顔を向けてから、キースは車に乗り込んだ。
遠ざかっていく車を見送ってから、ノエルはその場を後にした。
貰ったマフラーを口元まで引き上げると、微かに香水の薫りが立った。少しスパイシーなミドルノート。
同じ香水をつけていても、自分とキースでは違う匂いになるんだな、と思う。
けれど、その違いがわかることが嬉しい。
ノエルはまるでスキップでもしそうな足取りで家路へついた。
この日の光景が大きな影を落とすことを、まだ二人は知らなかった。
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