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第16話

 キースとノエルが想いを通じ合わせてから二週間と少しが経った。  あれから、二人は一度も会えずにいた。  というのもキースの忙しさが尋常ではなかったからだ。  特に表の仕事はロバートが危篤に陥った時から滞っていた。書類仕事は元より、会議、商談、細かい打ち合わせなどが溜まりに溜まっていて、自宅に戻るのは深夜すぎ。  そして、会社の休日には裏の仕事がある。  ノエルに連絡しようにも、早く帰れた日に限ってノエルが夜勤だったりとタイミングが合わず、電話すら儘ならなかった。  結局、短いメッセージの遣り取りをするばかりで、ノエルは寂しさを募らせていた。  夜勤後、医局で細々とした仕事を済ませてから帰途についたノエルは、寒々しい帰り道をとぼとぼと歩いた。  この冬の異常な寒さのせいか、通勤通学の時間帯が過ぎた通りは人ひとり歩いていなかった。もう少し暖かい時間になってから外出したいと思うのは皆、同じらしい。  はああ、とノエルの口から大きな溜息が零れた。  一目会うどころか、声も聴けないなんて予想外だ。社長業の大変さを甘く見ていた。  寂しい、会いたい、寂しい――。  ノエルは首に巻いたマフラーをぎゅっと握った。  あの日、キースから貰ったマフラー。  最初は大切にしまっていたのだが、会えない日が続いて、結局はクローゼットから引っ張り出して使っている。  けれど、ほんのり香っていた匂いはもう消えてしまった。  はああ、と再びの大きな溜息。  その時だった。  ジーンズのポケットに入れていた携帯がブルルと震えた。  取り出すと画面には『ヘンリー』の文字。  ――キースだ!  ノエルは即座に通話ボタンをタップした。 「もしもし!」 『よお、久しぶりだな。今いいか?』 「ああ、大丈夫!」  ノエルの勢いに、キースは電話の向こうでくすりと笑った。 『明日休みだったよな。急で悪いんだが、コンサートに行かないか?』 「えっ、マジで!?」 『ああ。実は取引先の人間と行くはずだったんだが、急用ができたって今しがたキャンセルされたんだ』 「そうなのか。じゃあ、コンサートってもしかしてクラシック?」 『ああ、まあまあ良い席だ』 「行く! 絶対行く!」 『なら、開演が十四時だから、十三時にホールウェイ駅の前で待っててくれ。ピックアップするから』 「わかった」 『じゃあ、また明日』 「うん、明日!」  終話ボタンをタップしたノエルは携帯をぎゅうっと握りしめた。  用件だけの電話だったが、そんなことはどうでもよかった。  何と言っても明日は二人でお出かけ、つまりはデートだ。  ノエルは小躍りしたい気分だった。  先程までの憂鬱さは消え去って、羽でも生えたかのように心が舞い上がっていた。  クラシックのコンサートだから綺麗めなコーディネートがいい、とノエルは頭の中であれこれ考え始める。  だから、気にも留めなかったのだ。  少し先に不審なバンが停まっていることを。            その車はキースからの電話が来る少し前に、ノエルの横を通り過ぎていた。  作業用と思われる白いバンは運転席と助手席以外の窓がなかった。  そして、停まったあと誰も出てこない。  だが、ノエルが車の真横に差しかかった時、急にスライドドアが開いた。  カーキの作業服を着た、マスク姿の大柄な男が三人降りてくる。  その男たちに囲まれて、ノエルはようやく自分の身に危険が迫っていることに気がついた。  本能的に後退ったが、すでに手遅れ。  男の一人が用意していたガムテープでノエルの口を塞ぎ、一人が両腕を体の後ろで拘束、もう一人は両足を掴んだ。  そして、三人でノエルを抱え上げて、バンの荷室へ連れ込んだのだ。 「んんーーっ! んんーーっ!」  ノエルは必死に声を出そうとするが、当然、ガムテープで口は動かせない。  がむしゃらに手足をバタつかせたが、あっという間にロープで縛り上げられ、抵抗の術はなくなってしまった。  ところが、ドアを閉じた後、男の一人がガムテープをビリッと剥がした。 「…っ!」  痛みで顔を顰めたノエルが怒声を上げようとすると、男がノエルの口に何かを放り込んだ。  そして、間髪入れず、またガムテープを貼る。 「んんっ!!」  口に入れられたのは小さな錠剤だった。  何かヤバい薬だと悟ったノエルだったが、吐き出そうにも吐き出せない。しかも、それは口の中で勝手に溶け出してきた。  ――舌下錠か!?  唾液で溶ける舌下錠は即効性の高い薬だ。狭心症発作に用いられるニトログリセリン錠が有名だが、他にも色々な種類がある。  すぐに飲み込んでしまえば効果を低減できるが、それはあっという間に溶けていった。  ノエルが内心でパニックを起こしている間にバンがエンジンをかけ、どこかへ向かって走り出す。  男たちは終始無言で、ノエルはその不気味さに恐怖を覚えた。全身に鳥肌が立つ。  何故、自分がこんな目に遭うのか全くわからない。  だが、このまま連れて行かれたくないと、ノエルは満身の力で体を動かした。  すると、男の一人がどかりとノエルの太腿の上に乗り上げた。足を完全に封じられて、動きが鈍る。  そうするうちに、くらりとノエルの視界が揺れた。  そして、そのままノエルは意識を失った。            ノエルとの電話を切ったキースは口元に笑みを浮かべた。  電話の向こうの弾んだ声が、キースの心もふわりと浮き立たせる。  あまり行きたくないと思っていたコンサートだったが、ノエルと一緒ならば悪くない。  キースは個人用の携帯を上着の内ポケットにしまって、デスクに向かった。溜まっていた書類もだいぶ片付いてきている。  明日はコンサートのあとで軽く打ち合わせをする予定だったから、お茶を飲むくらいの時間はあるだろう。  会いたいと思っているのはノエルだけではない。それはキースも同じだった。  本当はノエルを誘うべきではないとわかっている。  けれど、感情が理性を凌駕していた。自分でも抑制が効かなかった。  早くノエルとゆっくり過ごす時間が欲しいと、キースは仕事に集中する。  だが、一時間ほどしたところで、その集中が切られた。  内ポケットの携帯がバイブレーションと共に鳴り始めたのだ。  こんな時間に誰だと思って取り出すと、画面に表示されていた名前は『ノエル・ファウラー』だった。  キースの中に、途端に嫌な予感が湧き上がった。  ノエルはキースの仕事を理解している。特に今は会議や打ち合わせが頻繁にあるから、それを邪魔しないように自ら電話してくることはない。  寂しさを我慢させているのが心苦しいと思うほど、ノエルは我儘を言わない男だ。  それに、一時間前に話をしたばかり。 「……もしもし」  通話ボタンを押して、耳をすます。  聴こえてきたのは、ノエルの声ではなかった。 「よお、キース・《キャプテン》・マクレガー」 「……誰だ」 「こうやって話すのは初めてだな。オレはパオリーニ、ノイエスの若頭だ」 「てめぇ…」  キースは低く呻いた。  嫌な予感が当たってしまった。  しかも、最も恐れていた事態で、だ。 「……ノエルをどうした」 「お前のカワイコちゃんは預からせてもらったぜ。いつもイイ女を侍らせてきたお前が、まさか男とよろしくやってるとはなあ」  揶揄するような下卑た口調が忌々しい。 「……何が望みだ」 「話が早くて助かるぜ。こっちの要求は二つだ」  パオリーニは以前、ラグズシティの貧困街バンクストンに部下を出入りさせていた。虎視眈々とヴィクトリアファミリーの縄張りを狙っている男だ。 「一つは身代金五億リブラ、もう一つはバンクストンの支配権だ」  支配権については予想通りの答えだった。  だが、身代金五億とは――。 「金の用意には時間がかかるだろうからな。ちゃんと待っててやるよ」 「……取引の場所と時間は?」 「時間は今日、午前0時。場所はまたあとで連絡する」 「ノエルは無事なんだろうな」 「心配か? ビデオ通話に切り替えてみろ」  言われた通りにすると、薄暗い画面の中、コンクリート打ちっ放しの床の上に手足を拘束され、口をガムテープで塞がれたノエルの姿が映った。  その顔は白く、目を閉じている。 「!」 「ははっ、安心しろ。今は薬で眠ってもらってるだけだ。後で声でも聴かせてやるよ」  じゃあな、と言ってパオリーニは電話を一方的に切った。  ――ガンッ!!  キースはデスクに強く拳を叩きつけた。  背中に冷たい汗が滲んでくる。  落ち着け、冷静になれ、取り乱すな。  ぎゅっと目を瞑り、心の中で何度も繰り返す。  社長室のドアがノックされたが、キースはそれを無視した。  息を深く吸って、静かに吐き出す。  落ち着け、取り乱すな、大丈夫。  激昂して我を失えば、相手の思う壺だ。  同じ過ちは繰り返さない。 「社長、どうされました?」  返事がないことを心配した秘書のミレーヌがそっとドアを開ける。  キースはそれに答えず、外ポケットから社用携帯を取り出して、デスクの上に放った。 「急用ができた。今日はもう戻らない」  すれ違い様にミレーヌに言い放ち、キースは荒い足取りで社長室を出た。 「待ってください、社長! 困ります!」  ミレーヌが慌てたように言うが、キースは振り向きもせずオフィスを出て、エレベーターへ向かう。  だが、エレベーターが来るのを待つことができず、横の階段室の階段を駆け下りた。  キースの会社、スタイン・コーポレーションは中心街の高層ビルにオフィスを構えている。場所は三十八階。  途中、個人用携帯で電話をかけた。 「エマ、今すぐビルの前に車を回してくれ」 『何かありましたか?』 「ああ」 『わかりました』  いくら下るだけといっても三十八階からだ。徐々に息が上がってくる。  全速力で一階に着くと、車がちょうど到着したところだった。  キースは車に飛び乗った。 「事務所へ戻ってくれ。大至急だ」 「わかりました。飛ばします」  エマと呼ばれた女性運転手は、いつものように静かに発進させた後、強くアクセルを踏み込んだ。  慣性力で座席にぐっと体が押しつけられる。  キースは携帯の画面を開いた。  数コールで繋がった相手はクロードだ。 『どうした、キース。こんな時間に』 「話は戻ってからする。ヒューゴとワイアットを呼んでおいてくれ」 『……わかった』  静かな声が返ってきたが、キースのただならぬ様子に何かを感じ取っただろう。  キースは両手で顔を覆って項垂れた。  こうなることを避けるために、今まで特定の相手を作らずに生きてきたのに。  やはり神などいない。  頭の中を冷静にして、今後の行動について考える。  キースはノエルを救うべく、再び携帯を手に取った。            事務所に戻ると、クロードとワイアット、ヒューゴが執務室で待っていた。  キースに言われて、エマもその場にいる。 「何があったんだ?」 「……ノエルが攫われた」 「何だと、本当か!?」  クロードの声に緊張が走った。  キース以外の全員が驚きで目を見開く。 「一体、誰が!?」 「ノイエスのパオリーニだ。ノエルの携帯から連絡が来た。奴の最近の動向が知りてぇ」  目を向けられたヒューゴは困り顔をした。 「そうは言っても、ここんところはずっと大人しかったんですよ。ラグズシティに出入りした様子もなかったですし」 「…そうか。ワイアットは何か知らねぇか」 「すいません、ボス。特にこれといった情報は…ここ三ヶ月くらいは本当に静かなもんだったんで」 「エマは運転中、何か気づかなかったか?」 「…すみません。私も何も…」  キースは眉間の皺を深くした。 「……パオリーニはどうやってノエルのことを調べた? あいつと俺の関係を知ってるのは今ここにいる五人だけだ」 「まさか俺らを疑ってるんですかい?」 「違う。お前たちが俺を裏切るはずはねぇ。だからおかしいって言ってんだ」  重い沈黙が流れる。  口を開いたのはクロードだった。 「それで、奴の要求は?」 「身代金五億リブラとバンクストンの支配権だ」 「五億!?」  ヒューゴが素っ頓狂な声を上げた。 「そんな大金、どうやって…!?」  スタイン・コーポレーションの昨年の売上高が約三十億リブラ。中規模企業ではトップクラスだ。  そこから考えると、人ひとりの身代金として、いかに破格な額かわかるだろう。 「金は用意する」 「目処はついてるんだな」 「ああ」 「バンクストンのことはどうする」 「支配権は渡さねぇ」  キースがきっぱりと言い切る。 「ノエルは取り返す。パオリーニはただじゃ置かねぇ。俺に喧嘩売ったこと、後悔させてやる」  キースはぎりっと唇を噛んだ。 「ヒューゴ、ここ一週間のパオリーニと部下の街への出入りについて調べてくれ」 「わかりました」 「ワイアットはノイエスの現状を探ってくれ。どんな小さなことでもいい。パオリーニの言動について知りてぇ」 「すぐに調べます」 「エマは引き続き運転を頼む」 「はい」  三人が執務室を出るのを見送って、キースはクロードを自室に促した。 「…どう思う?」 「ファミリーの内部に内通者がいるのは間違いないだろう。お前はあれだけ慎重に行動してきたんだ。外部の人間がそう簡単にファウラーの存在に気づくとは思えない」  キースは小さく溜息をついた。  思えば、ここまでうまく行き過ぎていた。  キースが跡を継ぐことに反対していた人間は一人ではない。その中にはクロードを後継者にしようと動いていた強硬派もいた。  それなのに、トレヴァーの遺言に反対する者がいなかったことがまずおかしい。  もしかしたら、この時を狙っていたのかもしれない。  議論や煩わしい謀略に無駄な時間を費やすことなく、有無を言わさずキースを排除する。その機会をずっと窺っていたとしたら――。  キースは頭を抱えた。  あの日だ。  ノエルと想いを通じ合わせた、その翌日。  自分はエントランスの外でノエルに触れた。  ほんの一瞬だったが、もし自分がずっと監視されていたとしたら、致命的な行動だった。  軽はずみな言動は許されないとわかっていたのに、ノエルへの愛しさを抑え切れなかった。  ――また、だ。  また自分のせいで愛する者が危険に晒されている。もう二度と、あんな思いはしたくなかったのに。 「キース、大丈夫か?」  クロードが心配げに尋ねる。 「……ああ」 「内通者の件は俺に任せてくれ」 「いいのか?」 「勿論だ。お前はファウラーを助けることだけに集中しろ」 「……ありがとう」  常に自分のことより従弟の気持ちを優先してくれるクロードに、申し訳ないと思うと同時に心強さを感じた。 「何にせよ、パオリーニが今、ラグズシティにいるのは間違いない。先回りするチャンスは充分ある」 「ああ、そのつもりだ」  キースは力強く頷いた。 「クロード、ファミリーの金を少し動かしてもいいか?」 「お前がボスだ。いちいち確認を取る必要はない」 「……そうだな」  キースはクロードに後押しされ、事務所の金庫室へ向かった。      

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