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第17話

 ゆらりと意識が浮上したノエルは、冷たい床の感触に顔を歪めた。  ぼうっとした頭で自分に起こったことを思い返してから、ノエルはここはどこだと辺りを見回した。  天井が高く、屋根と壁は古びた波型のスレート材。剥き出しになった鉄骨が赤茶色に錆びている。  窓はなく、丸い白熱電球がいくつか灯っていた。金属製の大きな棚に何かの資材が積み上げられている。どこかの古い倉庫のようだ。  ――薄暗いし、とにかく寒い。  コンクリート打ちっ放しの床に直接、転がされているせいで、コートを着ているにもかかわらず、ノエルの全身は冷え切っていた。  飲まされたのは睡眠薬だったらしい。一体、どれくらい眠らされていたのか。  もぞもぞと身じろぎすると、背後から知らない男の声がした。 「目が覚めたみたいだな」  ノエルが何とか声の聞こえた方を向こうとすると、男が自らノエルの元へとやって来た。  ノエルの横に立って、真上から見下ろしてくる。  ダークブロンドのウェーブがかった髪に、口元が大きく開いた革のフェイスマスクをした男。  いかにも悪人といった野卑な笑みを浮かべているのが腹立たしい。  ノエルは何とか男に一撃でも入れてやろうとしたが、軽く躱されてしまった。 「おいおい、大人しくしろ。取引までは手出しできないんだからよ」  そう言いながら、男はノエルの腹をどかっと強かに蹴り飛ばした。 「ん゛んっ!」  まだガムテープで塞がれているせいで、呻き声も口の中に消えていく。 「大事な人質だ。顔に傷はつけられないからな」  ――人質!?  男の言葉にノエルの顔が引き攣った。  自分の知り合いに、人質を取られて困るような人間は一人しかいない。――キースだ。 「お、少しは状況が飲み込めたか? さすがお医者様だ。頭がいいんだなぁ」  馬鹿にした物言い。  この男はどうも人を見下さずにはいられない性質のようだ。 「んーー! んーー!」  ノエルが必死に呻いていると、何を思ったのか、男がしゃがんでノエルの口のガムテープを勢いよく剥がした。 「いってぇ…」  ノエルは怒りを込めて睨みつけたが、男は薄ら笑いを浮かべているだけだ。 「へえ、こうして見ると、確かに男にしちゃあ綺麗な顔してやがる。どうやってマクレガーを誑かしたんだ、ん?」  やはりキースに関係ある男か。  しかも、裏の、だ。 「お前、誰だ!? 何でこんなことしてる!?」 「何でって、そんなもん決まってんだろ」  男がにやりと口の端を吊り上げた。 「お前がマクレガーの情人(イロ)だからさ」 「……っ!」  何故、この男がそれを知っている?  ノエルの肌がざわりと粟立った。何かよくないことが起きようとしている。  だが、それが何かは当然、ノエルにはわからなかった。自分を誘拐して、この男にどんな得があるというのか。  何が何だかわからないというノエルを見て、男はくくっと笑った。 「何にも知らないって顔だな。もしかして何も聞いてないのか?」 「……何の話だ」 「こりゃあ傑作だな。アイツ、自分の正体を隠して、お前と付き合ってたのか。マフィアのボスともあろう男が随分と小心なことだ」 「マフィアのボス…? 誰が…」 「マクレガーだよ。といっても、つい最近、親父が死んで跡を継いだばかりだがな」  ノエルはガツンと頭を殴られた気がした。  キースがマフィアのボス?  ――そんな、まさか。  信じられない、あのキースが。  優しくて、あんなにスマートに振る舞える男が、マフィアという血も涙もないような犯罪組織のトップだというのか。  だが、男の言葉には信憑性があった。  それは、キースの父親が亡くなったことを知っていたからだ。  そして一年前の当時、キースがマフィアのボスの息子だったとしたら、病院から消えたことにも納得がいく。警察に顔と名前を知られたくなかったからだろう。  いずれ跡を継ぐ人間が、警察に情報を握られる訳にはいかないはずだ。 「…俺を誘拐して何を企んでやがる」 「気になるか?」 「…別に。どうせ無駄骨だ」  ノエルは慎重に言葉を選んだ。  この男が本当に自分たちの関係を知っているかどうかは怪しい。何せ両想いになったのはつい最近だ。  まずは情報源が知りたい。 「誰から聞いたか知らないが、俺はアイツの恋人なんかじゃない。ただのセフレだ」  ノエルが言うと、男は可笑しそうにせせら笑った。 「何だ、それで誤魔化せると思ってるのか。確かな筋の情報だ。何せ身内からだからな」 「身内…!?」 「奴は先代の実子じゃない。養子だからな。内部に敵がいるのさ」  そんな――。  ノエルは言葉を失った。  それでは自分がどう言おうとも、それこそ無駄ではないか。  それどころか、もしかしたらキースの命が危ない状況かもしれない。  最悪、自分はどうなっても構わないとノエルは思った。  けれど、キースだけは何としても助けたい。  そう思っても、囚われの身で出来ることがあるかどうか。  まずは自分の身の安全を確保すべきか。  ノエルの頭の中がすーっと冷めていく。  真実を知った衝撃は大きいが、それなりに長くERで働いてきて、ノエルはどんな時でも冷静に考えられるようになっていた。 「おい、俺を椅子か何かに座らせろ」 「はぁ? 人質が何を偉そうに言ってる」 「いいのか? ここは寒い。その上、多大なストレスのかかる状況だ。このままじゃ低体温症になって、取引の前に俺が死んじまうかもしれないぞ」 「……それを信じると思うか?」 「信じるかどうかはお前の勝手だ。だが、俺は医者だ。自分の体のことくらいわかる」  ノエルが落ち着き払って言うと、男は不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。 「……これだから頭のいい奴は嫌いだぜ」  男は立ち上がって、倉庫の奥に声をかけた。 「おい、お前ら、出てこい!」  男の号令で、奥にある事務室から部下たちが現れた。中にはノエルを拘束した作業着姿の三人もいる。男も入れて、全部で九名。 「そろそろ移動するぞ」 「移動?」 「マクレガーは頭が切れる。同じ場所にいりゃあバレちまう可能性が高いからな」  ということは、ここはまだラグズシティか。  キースが本当にマフィアのボスなら、街は自分の庭のようなものだろうとノエルは当たりをつけた。  こうして、ノエルは市内を何度か移動することになったのだった。            一方、パオリーニからの電話を受けてから三時間。  キースは自室で一人、エヴァンからの連絡を待っていた。  実はキースが車の中でクロードの次に電話した相手がエヴァンだった。  パオリーニから要求された身代金五億リブラはキースがすぐに動かせる金額を越えていた。  持っている株式を全て売り払えば工面できないこともなかったが、代金が入金されるのは三日後だ。とても間に合わない。  そこで頼ったのがエヴァンだった。  通話履歴からエヴァンを選んでタップした。  わずか三コールで繋がったのは、向こうが世界の裏側にいるからだろう。  つまり、あちらは夜なのだ。 『ようキース、こんな時間に珍しいな。そっちはまだ午前中だろ』  いつものエヴァンらしい明るい声。  だが、キースは「ああ」と頷いただけだ。 『どうした? 何かあったのか?』 「実はお前に頼みがある」 『ん、何だ?』 「……二億リブラ、貸してくれ」  その瞬間、エヴァンは絶句した。  キースにそんなことを言われたのは初めてだったからだ。  キースは大学に入る前から投資などで個人資産を築いていた。金に困っているところなど見たことがない。 『……どうした、何があった』 「今は話せねぇ。ハッキングで盗聴されてる可能性がある」  キースの固い声に、エヴァンはただならぬ事態になっていることを察した。迷う理由はなかった。 『わかった、二億でいいんだな。すぐに送金する。他にできることは?』 「……ある男の居場所を知りてぇ」 『誰だ』 「通称《占い師》って殺し屋だ」 『《占い師》ね。聞いたことはある』  エヴァンは小さく頷いた。  裏の世界では有名な男だ。十年ほど前から活動していて、これまで表から裏まで、数々の要人を暗殺してきた。  だが、その正体は未だわかっていない。  ところがキースは有力な情報を持っていた。 「本名はバーレット・ホフマン。ラグズシティ生まれで今年で三十九歳、十年前にここを出ていった男だ」 『よく知ってるな』 「ああ、十年前にトラブルがあってな。ファミリーの記録に残ってるんだ。俺も朧げには覚えてる」  名前と出身地、年齢。それだけの情報があればモルフィルグループの諜報部に見つけられない人間はいない。 『わかった、大至急だな。任せとけ、ウチの力を見せてやるよ』  心強い返答に、キースは少しだけ肩の力が抜けた。 「金はすぐに返す」 『んなの気にすんな。それより』  エヴァンがひと呼吸置く。 『……死ぬなよ』  どこまでも真剣な声だった。  キースがファミリーのボスを継いだことは当然、知っている。内部に反抗的な人間がいることも。  いつか、何か起こるかもしれないとは思っていた。  だが、キースはその心配を不敵に笑い飛ばした。 「俺がそう簡単にやられるか」 『ははっ、そうだな。じゃあ後でちゃんと説明しろよ』 「わかった」 『調査が終わったら連絡する』 「ああ。エヴァン――ありがとう、恩に着る」 『ばーか。そういうのはいらねぇんだよ』  エヴァンがからからと笑い飛ばして、通話は終了した。            その一時間後、銀行に連絡して、エヴァンからの入金があったことを確認したキースは、銀行側に五億リブラを現金で用意するよう頼んだ。  その金額を現金で揃えるのは、大きな銀行でも時間がかかる。  クロード、ヒューゴ、ワイアットに頼んだ調査もすぐには終わらない。  取引時間までにはまだ余裕があるが、これからやらなければならないことを考えると、じっとしているのが苦しかった。  だが、ファミリーのボスである自分が醜態を晒す訳にはいかない。  今、ノエルはどうしているだろう。  酷い目に会っていないか、辛い思いをしていないか、考えただけで気がおかしくなりそうだ。  じりじりと時間が過ぎるのを待つ。  一分が十分にも二十分にも感じられた。  どうしようもなく煙草が吸いたくなった時だった。待望のエヴァンからの連絡があった。 『待たせて悪い』 「いや、もうわかったのか?」 『おうよ。十年前の出国記録から当たっていったんだが、奴さん、偽名も何も使ってないんだもん』 「まさか、そんなことできるのか?」 『奴の《占い師》って異名は伊達じゃない。まさに魔法みたいに占いで何もかも乗り切ってきたらしいぜ』 「…嘘みてぇな話だな」 『まあでも、お陰で今の居場所はわかった。メールで資料を送っておいたからな』 「ありがとう、助かる」 『おう、じゃあな』  電話を切ったキースは早速、パソコンを立ち上げた。メールを確認し、エヴァンから送られてきた資料を開いてみる。  内容を精査してから、そのデータをUSBメモリに転送した。そして、写真を一枚だけプリントアウトする。  それらを封筒に入れ、大きめのアタッシュケースを持って、キースは部屋を出た。  執務室を抜けて、エレベーターホールまで延びる通路の中程にある部屋に入る。  そこには多くのパソコンとモニターが並び、ファミリーの構成員が慌ただしくキーボードを叩いていた。  ここは有能なハッカーやプログラマーたちが所属するIT班だ。  普段は幹部の一人・モニークがリーダーだが、今はヒューゴが指揮を取っている。 「ボス、丁度いいところに。今、報告に行こうと思ってたところです」 「何かわかったか」 「パオリーニと部下八名が昨日の夜、三十一号線を通ってラグズシティに入ったのが監視カメラの映像で確認できました」 「部下の顔はわかるか?」 「うーん、鮮明には映ってないですね。けど、特徴なら何か掴めるかも」 「それでいい。データをくれ」 「データを持って、どうするんです?」 「プロ中のプロに頼む」 「まさか《軍曹》に!?」  ヒューゴが顔色を変えた。 「一番確実な方法だ」 「けど、アイツは見返りに金以外を要求してくるって…」 「大丈夫だ、策は打ってある。クロードたちにはお前から伝えておいてくれ」 「わかりました。でも、気をつけてくださいよ。抜け目のない奴だって聞いてますから」 「ああ」  キースは頷いて見せると、部屋を出て、エレベーターで地下駐車場に下りた。  待機していたエマが気づき、車から降りて後部座席のドアを開ける。  乗り込んだキースはエマに行き先を告げた。 「チャイナタウンまで頼む」 「わかりました」  チャイナタウンは中心街から東側、周囲をショッピングモールなどで囲まれた場所にある。  治安が良く、市民や観光客でいつも賑わっているところだ。  だが、そんな場所にも当然のように影がある。  ――ここからが勝負だ。  キースはぐっと拳を握りしめた。      

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