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第19話
目的地の港まで来たキースは、車のスピードを落として埠頭をゆっくりと走った。
パオリーニが埠頭沿いの倉庫だと言っていたからだ。
港の端から見ていくと、一つだけ小さな窓から灯りが漏れ出る倉庫があった。
近づいていくと、シャッターの前に見張りが二人、立っている。
間違いない、この倉庫だ。
キースがシャッターの前で車を停めると、見張りが何も聞かずにそれを上げた。
ぎいいっと錆びついて軋んだ音が、しんと静まり返った港に鳴り響く。
倉庫の中に車を進入させると、そこはがらんとした空間だった。
剥き出しの鉄骨に波型のスレート材。どこにでもある、何の変哲もない古い倉庫だ。
その奥にパオリーニと部下が六人、そして、椅子に座らされたノエルが見えた。
キースは車を停め、外へ出た。
「ようこそ、《キャプテン》・キース」
パオリーニが人を食ったような笑みを浮かべて両腕を広げた。
どこまでも自分の優位を疑っていない態度。
キースはノエルに目を向けた。
その表情には疲れと緊張と不安が見て取れる。
「ノエル、大丈夫か?」
キースの問いにノエルはまた頷いた。
だが、心身のダメージは相当のものだろう。
「ノエルを解放しろ」
「まずは金だ」
パオリーニは能力がないくせに野心家で、いつも金の力に頼っている。だから、金が欲しいのだ。
キースは車のトランクを開けた。
そこから、ジェラルミン製の大きなアタッシュケースを持ち上げた。一個につき一億リブラ入るケースが、合わせて五個ある。
一億リブラの重さは約十キロ。ケースの重さは約五キロ。合わせて十五キロのケースを両方の腕に持ち、三往復して全てをパオリーニの前に運んだ。
「蓋を開けろ」
命令に従い、キースが次々とケースの蓋を開く。
ヒューとパオリーニが口笛を鳴らし、部下たちはごくりと唾を飲み込んだ。
アタッシュケースの中には、全て新札で用意された一万リブラの札束が整然と並んでいた。
ノエルはそれを見て、愕然とした。
まさか自分の身代金に、そんな大金が要求されているとは思っていなかったからだ。
キースは一体、どんな方法でこの金を用意したのか。まさか犯罪に手を染めて…?
そう考えてしまうと、助けにきてくれたことを素直に喜べない。
「これで満足だろ」
「おいおい、忘れたのか? オレはバンクストンの支配権を寄越せと言ったんだ」
「……それはできねぇ」
「なら、コイツは返せないな」
パオリーニは腰につけたホルスターから銃を抜き、銃口をノエルに向けた。
「ノエルには手を出すな」
キースが感情を押し殺した声で言う。
「無事に返してほしかったら言うことを聞け。お前にはそれしかないんだからよ」
パオリーニは嘲るようにそう言うと、着ていたコートのポケットから紙切れを一枚、取り出した。
「これは誓約書だ」
パオリーニはそれを部下に渡し、部下がそれをキースに受け渡す。
「それにサインして血判を捺せ。バンクストンの支配権をノイエスに譲渡すると誓えよ。そうすりゃ愛しのハニーは返してやる」
キースの目がギラリと強く輝いた。
全身から怒りのオーラが放たれる。
だが、キースは無言で胸ポケットから万年筆を取り、誓約書にサインした。
「…誰かナイフを」
要求されて、部下の一人がキースに小さな折り畳みナイフを渡す。
キースはナイフで左手の親指の先をピッと切り裂き、滲んできた血で判を捺した。
出来上がった誓約書をパオリーニに差し出す。
「ははっ、いいザマだなぁ! 天下のヴィクトリアファミリーのボスともあろう男が情人一人のためにここまでするとは。そんなにコイツの穴の具合がいいのか?」
わざとらしく低俗な言葉で侮蔑してくるパオリーニに、だが、キースは目もくれなかった。ノエルの方が内心で悪態をついていたほどだ。
キースはノエルに歩み寄って、口に貼られたガムテープを慎重に剥がした。それから、ナイフで手足の拘束を解く。
「…ナイフは返せよ」
完全無視されたパオリーニが面白くなさげに言うので、キースはそれを床に放り出した。
「ノエル、大丈夫か?」
「…ああ」
「立てるか?」
ノエルが頷いて、立ち上がろうとした時だった。
「…っぅ」
ノエルは腹部を抑えて、小さく呻いた。
キースが即座にノエルの着ているニットをインナーごと捲り上げる。
そこには痛々しい内出血ができていた。
ノエルの美しい象牙の肌を汚す、赤黒い痕。
その瞬間、ノエルはキースからゆらりと陽炎が立ち上るのを確かに見たと思った。
「…アイツにやられたのか?」
「……」
「ノエル、答えろ」
ノエルが仕方なく頷く。
キースはノエルを立たせると後ろ手に庇って、パオリーニに向き直った。
「ノエルに手を出したな」
「ふん、蹴りの一発くらいで熱くなるんじゃねぇよ」
「……髪の毛一本の傷も許さねぇ」
キースの声は静かな怒りに満ちていた。
声音は抑えていたが、その根底には今にも噴き出しそうなマグマが流れている。
だが、パオリーニはそれに気づかなかった。
「何だ、オレとやり合おうってのか? 自分が置かれてる立場を忘れたのかよ。この状況でお前に何ができる?」
パオリーニは後ろに立つ部下を見回した。
全員が銃で武装している。
「大体、この状況で無事に帰れると思ってるのか? 随分おめでたい頭だな」
パオリーニの言葉に反応したのはノエルの方だった。
「そりゃどういう意味だ!? まさか俺たちを殺すつもりか!?」
パオリーニはふんと鼻で笑った。
「殺すのはオレじゃない。言ったろ、マクレガーには身内に敵がいるってな」
「じゃあ、そいつがキースを殺そうとしてるのか!?」
「まあ待ってろよ。もうすぐご到着のはずだ」
「そんなの約束が違うだろうが!! キースは金を払ったし、誓約書とやらにもサインした!!」
「そんなのはオレの知ったこっちゃない。オレはお前を解放した。約束通りだろ。そのあとのことはオレには関係ない」
「てめぇ…」
「良かったなぁ。二人一緒にあの世逝きだ。それなら未練はないだろ?」
薄ら笑いで平然と言い切るパオリーニにノエルは激怒した。できることなら殴り飛ばしてやりたいが、武装した男たちに囲まれていてはそれもできない。
ぎりぎりと歯ぎしりするノエルとは対照的に、キースは至極、落ち着いていた。パオリーニの言葉に少しの動揺も見せない。
それがパオリーニの癇に障った。
「そんなに余裕ぶってられるのも今のうちだぞ!」
目を吊り上げるパオリーニを、キースは冷然と見返した。
「……言いたいことは、それだけか?」
「ああ!?」
「お前の言う男は、ここには来ない」
「はあ!?」
「聞こえなかったか。そいつはここには来ないと言ったんだ」
「何言って…」
キースの言わんとしていることを理解して、パオリーニの顔が青褪めていく。
キースは容赦のない視線を向けた。
二十分前、ラグズシティ北西部。
市内随一の高級住宅街であるロスマンに、クロードと直属の部下たちの姿があった。
広い庭つきの、三階建ての豪華な邸宅。
その門から一台の車が出発する直前で、クロードはその車を止めた。
車から男が一人、降りてくる。
五十代とは思えぬ若々しい顔に、人の良さそうな笑みを浮かべる白髪交じりの黒髪の男。縁なしの眼鏡が理知的な印象を与えている。
「やあ、クロード。こんな時間にどうしたんだ?」
「それはこちらの台詞だ、マテオ」
「私は知人に会いに行くところでね。そこを通してくれないか」
マテオ・ディアスは穏やかに言った。
だが、クロードはそれを拒否した。
「ここを通す訳にはいかない」
「おやおや、君に私の行動を制限する権利はないはずだが」
「マテオ、お前の魂胆はわかっている。大人しく従えば悪いようにはしない」
クロードの言葉にマテオはぴくりと眉を動かした。
「それはどういう意味かな」
マテオの問いに、クロードはずばりと核心を突いた。
「お前がファウラーの情報をパオリーニに流し、キースを殺そうとしているのはわかっている」
「……人聞きの悪いことを言うのはやめてもらおうか。私は顧問だよ。殺人を犯すなんて、とんでもない」
マテオの顔から笑みが消えた。
顧問とは弁護士資格を持ち、法律面からファミリーに助言を与える者のことだ。普通の幹部とは違う、特別な地位と権力を与えられている。
本来なら、ファミリーの活動そのものには関わらないはずの人間だ。
だが、キースが後継者になることに反対し、クロードを推していた一派のリーダーこそが、このマテオだった。
「悪あがきはしない方がいい。証拠はある」
「ほう、どんな証拠があるというんだ?」
クロードは一枚の紙を差し出した。
「これは今日のパオリーニの移動を記録した地図だ。何度も場所を移動しているが、全て使われなくなった古い倉庫だった」
ツァオから貰ったプリペイド携帯のアプリで追跡したデータだ。市内のあちこちを転々としていたことがわかる。
「この倉庫の持ち主を調べた」
「…!」
「巧妙に細工してあったが、最終的には全てお前に繋がっていた」
マテオはぐっと眉間に皺を寄せた。
「それと、一月十四日にノイエスでパオリーニと会っただろう」
「……記憶にないな」
「同じレストランに、同じ時間帯に滞在していたのはわかっている。出入りは別々だったが、中の個室で会っていたはずだ」
これはワイアットがノイエスへ潜入して掴んだ情報だ。
マテオの手が震え始めた。
「…そんなことはしていない」
「もう少し時間があれば、もっとはっきりとした証拠を集められる」
「…私は何も知らない」
「あくまでも否定する、か。それなら強硬手段に出るしかないな」
「私を殺す気か!?」
「それもやぶさかではない、という話だ」
クロードはマテオに近づいた。
「お前がキース排除のために動いていたことは明らかだ。お前に協力していた他の幹部も既に拘束した。逃げ場はないぞ」
「ふざけるな!!」
マテオはついに本性を現した。
「クロード、一体、何が不満だ!? 私はお前をボスにしてやろうとしただけだ! あんなどこの馬の骨ともわからない男に、歴史あるファミリーを継がせる訳にはいかないんだ!!」
クロードは呆れたように溜息をついた。
マテオは昔からこうだ。幼いキースに『お前に《C》を継ぐ資格はない!』と面と向かって言ったのもマテオだった。
「お前のその偏狭な血統主義に付き合う気はない。キースがボスだ。他に相応しい人間はいない」
「うるさい!! 私は認めないぞ!!」
マテオは後退って、門の中に逃げ込んだ。
「私が殺されたら、ファミリーの秘密を全て公にするよう手配してある。お前たちは私に手出しできない!」
マテオは更にポケットから携帯を取り出した。
「何なら、今ここで警察に通報してもいい。私は司法取引で無罪を勝ち取る。だが、お前たちは全員、刑務所行きだ。そして死ぬまで出てこられない」
マテオは勝ち誇ったように笑った。
だが、次の瞬間、マテオの手にした携帯が飛んできたアイスピックで刺し貫かれた。勢いで携帯がかつんと地面に落ちる。
クロードの後ろに控えていた部下の一撃だった。
「っ!?」
「これでもう通報はできないな」
「私を殺せば…」
「なら、殺さなければいいんだろう?」
クロードが初めて薄く笑った。
「殺さなくても、生きたまま苦痛を与える方法はいくらでもある」
クロードは後ろにいる部下を振り返った。
「マテオを拘束しろ」
クロードの命令でマテオは羽交い締めにされたあと、手足を縛られた。
「お前には死よりも辛い苦しみを与えよう。死んだ方がマシだと思うような生き地獄を味わわせてやる」
非情なる宣告。
マテオは叫んだ。
「待ってくれ、クロード! 私が悪かった! もう二度とこんなことはしないと約束する!」
「口では何とでも言える」
最後に冷たい一太刀を浴びせ、クロードはマテオを連れて屋敷へ入っていった。
そして、このあとマテオがファミリーに顔を見せることは生涯なかった。
「マテオ・ディアスは今頃、俺の仲間に捕まってるはずだ」
「そんなバカな…」
顔色を変えて狼狽えるパオリーニに、キースは悠然と笑って見せた。
「お前の切り札はこんなもんか? 裏切り者と通じてたくらいで、全てうまくいくと思ってたのか?」
「だって、アイツは顧問だぞ。顧問ってのはすごい権力があって…」
「確かに。だが、顧問がボスより上なんてことはあり得ねぇ。――裏切り者には死を、それがマフィアの掟だ」
急に現実を突き付けられたパオリーニは、部下たちの後ろに逃げ込んだ。
「そ、それなら今ここでオレがお前らに引導を渡してやる! お前ら、この二人を撃ち殺せ!」
パオリーニが声高に叫ぶ。
部下たちは銃を構えた。
ノエルはキースを庇おうと前に出ようとして、キースにそれを止められた。
キースが呆れたようにパオリーニを見遣る。
「お前から連絡が来て半日、俺が何もしないとでも思ったか」
欲に目が眩んだパオリーニの要求は、キースに充分な時間を与えた。
キースが部下たちに目配せすると、驚くべきことに彼らの銃口はパオリーニに向けられた。
「な、何のつもりだ、お前ら…」
「そいつの銃を取り上げろ」
キースの命令で、部下の一人がパオリーニの手から銃を奪う。
「一体、おめでたいのはどっちだろうな」
キースの唇には、見たこともないほど酷薄な笑みが浮かんでいた。
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