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第20話

「どういうつもりだ、お前ら!? オレを裏切るのか!?」  パオリーニが切羽詰まった声を上げる。  部下たちは互いに顔を見合わせて、気まずそうに口を開いた。 「すいません、若頭。でも、俺らも人質を取られて、こうするしか…」 「人質!?」  今から一時間前のことだ。  パオリーニの部下、全員に一通のメールが届いた。そこには写真が一枚、添付されていた。  それを見た部下たちは顔色を変えた。  そこに自分が最も大切に思う相手が写っていたからだ。  一人一人が手足を拘束され、どこかの部屋に一箇所に集められていた。  母親、妻、恋人。中には男性も一人いた。  全員が暗い表情でカメラに目線を向けている。  メールの本文には一言だけ。 『キース・C・マクレガーに従え』  キースがツァオから手に入れた情報を基に、ヒューゴとワイアットが大勢の構成員を使って彼女たちを秘密裏に捕らえたのだ。  今はノイエスの、あるホテルの一室で待機している。 「人質だと!? そんなもん放っとけ!! オレが死んじまうだろうが!!」  どこまでも利己的なパオリーニの言葉に、さすがの部下たちも怒りの表情を見せた。 「おい、汚ねぇぞ! こんなことしてタダで済むと思ってんのか!? オレはノイエスの若頭だぞ!!」 「……どの口が言う。先にノエルを攫ったのはてめぇだろうが」  キースがドスを利かせた声で言う。 「わかった! 金は返す! 誓約書もいらねぇ!」  圧倒的に不利な立場に置かれたとわかったパオリーニは、すぐさま保身に走った。 「なあ、それで手打ちといこうぜ。お前もノイエスと全面抗争なんてしたくないだろ?」  へらりと笑うパオリーニを、キースは醜いものでも見るような目で一瞥した。 「…てめぇは本当に救いようがねぇな」 「そう言うなって。何なら手を組まないか? オレたちが組めば敵なしだろ?」  キースは心底、呆れ果てた。  この男が馬鹿だとは知っていたが、ここまで大馬鹿者だったとは。  ノエルも不愉快そうな顔を隠さない。 「てめぇの相手は、もううんざりだ」  キースはパオリーニに向かって一歩、踏み出した。 「言ったよな。髪の毛一本の傷も許さねぇと」 「ま、待てっ、謝る! 謝るから!」 「もう遅い」  キースは強く握った拳で、パオリーニの鳩尾を抉るように殴りつけた。  ぐえぇぇ、と潰れた呻き声を上げて、パオリーニが後ろに吹き飛ぶ。ダーン!と大きな音を立てて、その体が床にひっくり返った。 「う゛う゛っ…」  パオリーニは痛みと吐き気で気が遠くなった。今にも気絶しそうな状態だ。  だが、キースは容赦なく、更にその腹部を靴底でぎゅうっと押し込んだ。  ノエルは咄嗟にキースを制止した。 「もういい! もうやめろ! 充分だろ!?」  けれど、キースの目にノエルは映っていなかった。キースの怒りはとうに沸点を越えていたのだ。  パオリーニを見下ろす視線は完全に、獲物を屠る寸前の、猛々しい野獣の目だった。 「…ノエル、お前は車に乗ってろ」 「駄目だ、キース…コイツを殺すな。お前が手を汚すような奴じゃない」 「ああ、そうだな。だが、コイツは俺を怒らせた。理由はそれで充分だ」 「やめろ、キース。やめてくれ…」  キースは自分に縋りつくノエルの手を掴んで、無理やり車の後部座席に押し込んだ。 「駄目だ! やめるんだ!」 「…目と耳を塞いでろ」  ノエルとキースの目が合う。  ざわりとノエルの全身に鳥肌が立った。  ノエルへの視線は少しは和らいでいるはずなのに、それでも、その赤い双眸には禍々しいほどの殺気が溢れていた。 「キース!!」  バタン!とドアが閉められる。  ノエルはドアを開けようとノブに手をかけた。  けれど、ノエルは迷った末に手を引いた。  自分には今のキースを止めることはできないと思ったのだ。  車の外では、キースが冷ややかな目でパオリーニを見下ろしている。  青白いオーラがゆらゆらと陽炎のようにキースの体を包み込んでいた。  炎の色は高温になるにつれ、赤から黄、白、そして一万度を越えると青く変わる。  キースの全身は、全てを焼き尽くす青の灼熱を纏っていた。  あらゆるものを消し去る業火の怒りがキースを満たす。  ノエルを攫ったこと、傷つけたこと、不安と恐怖を与えたこと。      ――そして、これで二人の関係が変わってしまうこと。      その全てがキースにとって、到底、許すことのできない行為だった。  パオリーニは怯えで体を震わせている。 「頼む、何でもするから、命だけは…」 「てめぇみたいな奴はそう言って、何度も同じことを繰り返す。学習能力のないサル以下の存在だ」 「オレを殺せば、全面抗争だぞ…」 「それがどうした? ノイエスの構成員はせいぜい二百人、こっちはその五倍はいる。…格が違う」  元からノイエスのことなど眼中になかった。  力の差は歴然としていた。  だが、トレヴァーが若い頃、パオリーニの父・ステファノに助けられたことがあったのだ。  だから、見逃していたに過ぎない。  だが、トレヴァーはもういない。義理立てする必要は既になかった。 「いやだ、死にたくない…」 「皆、そうだ」 「頼む、助けてくれ…殺さないで…」 「てめぇのツラなんざ、二度と見たくねぇ」  パオリーニが痛む鳩尾を押さえながら、ずりずりと後ろに逃げようとする。  キースはパオリーニを両足で挟むように立つと、その肩をぐっと踏みつけた。  赤い双眼が恐ろしいほどの殺気を放ちながらパオリーニを捉えている。  キースはホルスターから銃を抜いた。ステンレス鋼の黒い銃身がちかっと光を反射する。  市警でも採用された実績のある回転式拳銃(リボルバー)を、ファミリーの武器工場で模造したものだ。だが、模造品と言っても品質と性能は本物とほぼ変わらない。  手に馴染む木造のグリップをしっかり握り、銃口をパオリーニに向けた。 「いやだ!! やめてくれ!! 死にたくない!! 助けてくれ!!」  パオリーニの悲鳴が響き渡る。  だが、キースは引き金に指を掛けた。  オンリーダブルアクションの銃は、引き金を引くだけで一発目の発射と、その後の連射が可能だ。  だが、誤射を防ぐため引き金がかなり重く、手ぶれが起きやすいせいで命中精度が落ちる。  パオリーニの顔が恐怖で歪み、涙と涎がだらだらと流れ出していた。  それでも、同情など一欠片も湧いてこない。  キースは力を込めて、躊躇うことなく引き金を引き切った。  パン、と乾いた音が倉庫に響く。  キースが放った弾丸は、パオリーニの眉間を正確に撃ち抜いた。  頭の後ろの床にじわじわと血溜まりが広がっていく。  キースはそれを冷たい眼で眺めた。  パオリーニの元部下たちは、ただただ震え上がっている。  キースは銃をホルスターにしまい、パオリーニのコートのポケットから誓約書を抜き取った。  そして、持ってきていたオイルライターで火をつける。半分ほど燃えたところで床に放ると、紙はそのまま燃え尽きた。  その後、倉庫のシャッターがぎいっと上がり、一台の車が入ってきた。  運転席にいるのはエマだ。  その向こうに他の幹部たちが乗った車が大挙して押し寄せてきたのが見えた。  幹部たちが車を降りて、わらわらと倉庫の中に入ってくる。 「すみません、ボス。私が行くとわかったら、皆ついてきてしまって…」 「…もういい。片はついた」  エマは開きっぱなしだったアタッシュケースの蓋を閉め、自分が乗ってきた車のトランクに積み始めた。回収係を命じられていたのだ。  キースはパオリーニの元部下たちに向き直った。 「コイツの死体を持ってノイエスへ帰れ」 「そ、そんな! そんなことしたら俺たちが殺される!」 「恨むなら、無能な上司を恨むんだな」  キースはヒューゴとワイアットに連絡し、人質を解放するよう指示すると、やって来た幹部たちに後始末を任せた。  いくら親馬鹿なステファノでも、ヴィクトリアファミリーに歯向かうことはないだろう。  これは見せしめだ。  キースと、その大切なものに手を出せばどうなるかという、近隣に根城を持つマフィアやギャングたちへの警告なのだ。  キースは乗ってきた車の後部座席のドアを開けた。  ノエルはその隅で体を縮こませていた。  微かに体が震えている。 「ノエル」  名前を呼ぶが、反応がない。  キースは車に乗り込み、その肩に手を伸ばした。  すると、指が触れた瞬間に、ノエルの体がびくっと跳ねたのだ。  キースの方に顔が向けられる。  その琥珀の瞳には明らかな恐怖が浮かんでいた。  キースは言葉を失った。  ノエルの表情で怒りは鎮まり、代わりに冷静さを取り戻したキースに深い後悔が押し寄せる。  少しの逡巡の後、キースは伸ばした手を引き戻した。  そして、車を降りて、ドアを閉めた。 「エマ」  身代金の回収を終えたエマに声をかける。 「ノエルを家まで送ってやってくれ」 「え、でも…」 「頼む。乗ったらドアをロックをしろ。何があっても車を止めるな」 「……わかりました」  命じられたエマは運転席に乗った。  エンジンをかけ、言われた通りに全てのドアをロックする。  そこで、ノエルはハッと顔を上げた。 「ちょっと待ってくれ!」  ノエルは咄嗟に声を上げた。  駄目だ、このままキースと別れては。  直感的にそう悟ってドアを開けようとするが、ロックされているため当然、開かない。 「待ってくれ! ドアを開けてくれ! 頼む!」  必死に懇願するが、エマはそれを無視して車をバックさせた。 「待ってくれ! 頼むから…キースと話したいんだ…!」  ノエルの声に涙が滲む。  エマは心を痛めながらも、首を横に振った。 「あなたを家まで送ること、それがボスの命令です」 「そんな…」  エマは車を倉庫から出すと、いつものように静かに発進させた。  ノエルの小さな嗚咽が、家に着くまでずっと細波を立てていた。            その夜、ノエルは一睡もせずに朝を迎えた。  どこから整理していいかわからないほど、頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。  ノエルは誘拐され、キースがマフィアのボスだと知った。  キースはノエルを救うためにやって来たが、二人揃って殺されそうになった。  しかも、それらは全てキースをボスの座から追い落とそうとする内部の人間が画策したことだった。  そして、最終的に誘拐犯はキースの手によって殺された。  ――耳を塞いでも聞こえてきた銃声が頭から離れない。  何もかもがショックで、ノエルはもう自分が何に怯え苦しんでいるのかがわからなかった。  ノエルはぼんやりと時計を見た。  キースの電話を受けてから、ちょうど丸一日が経っていた。  本当なら、今頃は初めてのデートに向けて心を弾ませていたはずだ。  けれど、何もかも変わってしまった。  キースの中に隠されていた凶暴な獣の性が、ノエルの心に消えない染みを作ってしまったのだ。  キースの真実を知ったノエルには、今まで通りに振る舞える自信がなかった。  それはキースを傷つけるだろう。  キースに会いたい。  けれど、会っても何を言えばいいかわからない。  抱きしめたい。  そう思うのに、抱きしめられることが怖い。  相反する思いがノエルの心をかき乱す。  そのまま、ノエルは無為な一日を過ごした。  ぐちゃぐちゃになった頭は少しもすっきりとはせず、むしろ、ノエルにもう一つの苦悩を気づかせた。  ノエルが苦しいのはあの時、キースを止めなかったせいだ。  車に押し込まれたあと、ノエルはキースを止めることを諦めた。  それは、ノエル自身が一人の命を見捨てたということだ。 『あんたがどんな人間だとしても、簡単に死んでいい奴なんかいない』  ノエルはキースに再会した時、確かにそう言った。  それがノエルの医師としての信条であり、ノエルを支える信念でもあった。  だが、あの誘拐犯は余りにも下衆な男だった。見ているだけで反吐が出そうなほどに。  あの男には本当に助ける価値があるのか。あの瞬間、自分はそれを疑ってしまった。  そして、そのまま見殺しにした。  あの時、ノエルは自分で自分の言葉を否定したのだ。  人の命を預かる医師として、とても許されることではなかった。  どんな結果になったとしても、自分だけは最後まで足掻くべきだった。  そうして、キースに罪を犯させるべきではなかった。  その後悔が、何よりもノエルを苦しめるのだ。  そこまで考えて、ノエルは気づいた。  ――結局、自分も同罪なのだ。  自分にはキースの行動にあれこれ言う資格などないとわかってしまった。  直接、手を下したかどうか、違いはそれだけだ。犯した罪に変わりはない。  ならば、いっそのこと、その罪を一緒に背負っていけばいい。  そう思ったら、ノエルは途端にキースに会いたくなった。  会えないのなら、せめて話だけでもしたい。  今の自分の気持ちを伝えたかった。  ノエルは携帯を取った。  メッセージで『話がしたい』と送る。  だが、いつまで経っても返事が来ない。  ほんの数分でいい。自分の話を聞いてほしい。  そう思って、その後も何度かメッセージを送信した。  けれど、結局、キースからの返信はなかった。  ノエルの胸が絶望感で一杯になる。  キースはあの時、自分に拒絶されたと思っただろう。  そうではないと伝えたかった。  ただ、色々なことが一遍に起こって、自分の中で消化できなかっただけだ。  何が起こっても、どんなキースを知ったとしても、ノエルの中にある愛しさに変わりはない。  今まで通りでいられないのなら、変わっていけばいいだけだ。  この二日間で、ノエルは痛いほど思い知った。  キースが好きなのだ。  誰にも理解されなくていい。  どんなに責められても構わない。  ただ、キースの側にいたい。  その温もりをずっと感じていたいのだ。  だが、時間は無残に過ぎ去った。  少しも休めないまま休日が終わり、日勤のために家を出る。  そこで、ノエルは驚いた。  フラットの前に見慣れない車が停まっていて、その横にキースの運転手を務める女性が立っていた。      

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