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第21話
「おはようございます」
女性がにこりともせずに言う。
「…おはよう。君は…」
「私はエマといいます。今日はボスの言いつけで病院までお送りします」
「キースが…?」
「ええ。どうぞ乗ってください」
促されるまま、ノエルはシルバーのセダンの助手席に乗せられた。
エマは車を発進させると、ちらとノエルの表情を窺った。
「…怪我の具合はどうですか?」
「…ああ、大したことない。痛み自体はたぶん一週間もすれば消える。内出血も二週間あれば消えると思う…」
「そうですか。ボスが心配していたので」
だから、エマを寄越したのか。
でも、それなら直接、聞いてくれればいいのに。ノエルの中に苦い思いが湧き上がる。
「今回の件についてですが」
「誰にも言うつもりはない」
「…いえ、あなたにご迷惑をおかけして申し訳なかったと」
「え…」
「身内のいざこざに巻き込んでしまって、すみませんでした」
てっきり口止めに来たのかと思った。
しばらくの間、沈黙が流れる。
「……これは私の独り言なんですが」
エマがそう切り出した。
「今回のことは、ボスもショックを受けています。先月、先代が亡くなったばかりで、この事件でしたから」
「…ああ、そうだな」
そうか、キースがボスの座に就いたのは、つい最近の出来事だった。
「ボスに反発するグループは今回の件で一掃されました。先代の腹心だった幹部たちも、ほとんどは一線から退くことになって、私たちの世代が中心になります」
「……」
「代替わりすると、縄張りは一時、不安定になります。他のマフィアたちが入り込もうとしてきますから。今後も気を抜けない日々がしばらくは続くと思います」
ノエルは俯いて、話を聞いていた。
つまり、これからもキースには危険がついて回るということだ。
何となく、エマの言いたいことがわかった。
「あまりこういうことは言いたくないんですが……あなたの存在はボスにとって、アキレス腱になりかねません」
――やっぱり、そうか。
「ファミリーの一員でないあなたを守ることには限界があります。お仕事のこともありますし、人間関係にも気を配らなければならない。あなたにはあなたのご家族もいらっしゃる。幹部の一人としては……反対せざるを得ません」
ノエルはぐっと唇を噛み締めた。
エマの言うことはもっともだ。一般人の自分とマフィアのボスであるキースでは、住む世界が違う。だから、普通に付き合うのは無理だと言われれば反論のしようがない。
エマはたぶん、キースに最も近い人間の一人だ。彼女がそう言うのだから、他の幹部たちもほぼ同意見だと思った方がいいだろう。
それでも、自分は――。
ノエルが口を開こうとしたところで、エマは言葉を続けた。
「ただ、一人の人間としては、あなたに感謝しているんです」
「……感謝?」
「先代が亡くなって、正直、ボスが立ち直るのにはもっと時間がかかると思っていました。でも、あなたのお陰でボスは変わりました。とても前向きになったと思います」
エマが小さく溜息をついた。
「……ボスにとって、あなたは必要な人です。でも、その反面、ボスにとって危険をもたらすかもしれない。それが辛いんです」
「……」
エマがそんな風に思ってくれていたとは思いも寄らなかった。
自分はキースの役に立てていたのか。
少しでも支えになれていたのか。
わからなかったから、自信が持てなかった。
エマの言葉で、ノエルは少しだけ救われた。
「これだけは知っていてほしいんですが」
「…?」
「ボスもあなたと同じくらい苦しんでいます。だから、もうしばらく待ってもらえませんか」
エマに言われて、初めて気づいた。
キースだって平気な訳じゃない。いつも余裕で何でもできるように見えても、中身はただの人間だ。
自分と同じように、悩み苦しんでいるのだ。
「……わかった」
ノエルは頷いた。
キースが落ち着いて、二人のことを前向きに考えられるようになるまで、それまで待とう。
今はファミリーのことで大変だろう。表の仕事もある。それまで、自分も気持ちを整理しておこう。
キースに会った時、この狂おしいほどの想いをきちんと言葉で伝えられるように。
話が終わって間もなく、車はノエルの病院へ到着した。
エマが以前と同じように、通用口へ回してくれる。
「今日はありがとう」
「いえ、ボスの言いつけですから」
「それだけじゃなくて、色々話してくれて助かった。自分一人じゃ、考えられないことばかりだったから」
「……あれは独り言です」
ああ、キースは仲間に慕われているんだな、とノエルは思った。
キースを大切に思うからこそ、言いにくいこともはっきり伝えてくれたのだろう。
「こんなことを頼むのは筋違いなんだが、キースに伝えてくれないか?」
「……何でしょう」
「今も俺の気持ちは変わってないって」
エマは少し驚いて、それから初めて微笑んでくれた。
「わかりました。必ず伝えます」
「ありがとう」
「いえ。あまり休めていないでしょうから、お体にお気をつけて」
「ああ、君も」
「はい」
エマの車が去っていくのを見送って、ノエルはERに向かった。
彼女のお陰で気持ちが少し前向きになれた。
事件から十日以上が過ぎた。
キースは何とか日常生活に戻っていた。
マテオに同調した反乱分子を全員、国外へ追放し、新しい体制を整えた。
ステファノ・パオリーニからは後日、詫び状が届いた。
息子が殺されたのだからおかしな話だが、ノイエスとヴィクトリアの力関係を考えれば、事を大きくしたくないという思惑が働くのは当然だろう。
下手に逆襲すれば、ノイエスファミリー自体が壊滅し、縄張りを全て奪われかねないからだ。
あとはラグズシティの守りを固めるだけだが、今のところ目立った動きはない。
近隣組織はステリオ・パオリーニの一件で、改めてキースの恐ろしさを認識したようだ。
十代の頃はキースも抗争の最前線に出ることがあり、『鬼神』と呼ばれていた時期もあったくらいだ。
それを彷彿とさせる出来事に、周囲は沈黙せざるを得ないのだろう。
会社の仕事もだいぶ落ち着いた。
ようやく自分の時間が持てるようになったキースは、オーダーメイドできる香水専門店に、閉店ぎりぎりの時間にやって来ていた。
ノエルと過ごした誕生日のあと、キースはこの店でノエルのための香水を注文していたのだ。
店員の聞き取りに答え、八十種もの香料からノエルに似合うと思うものを選んだ。
トップは爽やかなオレンジ、ミドルは温かみのあるコーヒーとメープルシロップ、そしてラストは甘く魅惑的なバニラ。
世界に一つだけの香り。
職業柄、香水をつける機会の少ないノエルだから、自分と会う時にだけつけてほしいという願いを込めた。
一週間後には受け取れる予定だったが、仕事で忙しくしていたあと、あの事件があって来るのが遅れていたのだ。
ギフト用に包装されたものを受け取り、支払いを済ませ、エマの運転する車で自宅へ帰る。
「おかえり、キース」
「…ただいま」
いつも通りの遣り取り。
あれからクロードには随分と負担をかけてしまった。というのも、ファミリーの仕事の半分以上はクロードが片付けてくれたのだ。
全ては自分の不甲斐なさのせいだ。
「クロード、これ」
「ワインか?」
「ああ、お前が好きそうだと思って」
いつも世話をかけてしまっていることへの、ささやかな礼だ。
「…ありがとう。後で一緒に飲もう」
「ああ」
頷いて、キースは自室へ入った。
紙袋に入れられた香水のボックスをテーブルに置いて、一人掛けのソファにどさりと腰を下ろす。
あの事件のあと、ノエルとは連絡を取っていなかった。
エマからの言伝は聞いたが、だからといってキースの葛藤が消えることはない。
あの夜、自分を見たノエルの目が忘れられなかった。
陽のあたる道を真っ直ぐに歩いてきた、その翳 りのない美しい瞳を汚したのは、他の誰でもない自分だ。
その後悔がキースをどうしようもなく苛むのだ。
ノエルといることで自分は救われる。
だが、ノエルにとっての自分は果たしてどんな存在だろう。
今回のことで、ノエルは普通に生きていたら経験することのない恐怖を味わい、知らなくていい世界を知ってしまった。
何より、ノエルの目の前で人を殺した。
マフィアのボスの息子として生きてきて、キースにとって命の取り合いは当たり前のように身近にあった。
だが、ノエルにとって、それは遠い世界のことだっただろう。
何より、ノエルは医者だ。
人の命を救うのがノエルの仕事であり、そのことに誇りを持っている。
そのノエルにとって、あれほど衝撃的な出来事はなかっただろう。
いくら理性を失っていたからといって、それが免罪符になることはない。
自分の存在はノエルを苦しめる。
きっと、これからもそうだ。
自分が側にいても、ノエルのためになることは一つもないように思えた。
むしろ、また危険な目に遭わせてしまうかもしれないと思うと、言い知れぬ恐怖を感じるのだ。
キースは携帯を手に取った。
ノエルからのメッセージが返信されないまま、ずっと溜まっている。
最初は、とにかく話がしたいというものだったが、今は元気にしているか、落ち込んでいないかと気遣う内容に変わっていた。
その優しさが、今は辛い。
いっそ、何故あんなことをしたのかと責めてくれればいいのに。
どこまでもキースを想うノエルの一途さを、ほんの少しだけ重く感じた。
――いや、重いのは自分か。
ノエルと関係を続けるならば、この先もノエルを絶対に守り切るという覚悟が必要だ。
感情だけなら、いくらでも『守る』と言える。
だが、現実はそう甘くはない。
何もかも自分の思い通りになるほど、世界は簡単にはできていない。昔も今も、それは同じだ。
どちらにしても、このままではいられないとキースは思った。
いつまでもノエルを宙ぶらりんのまま、放ってはおけない。今もきっと待っているはずだ。
二人がこれからどうしていくべきか、結論を出さなければならない。
ノエルを想うからこそ、ノエルに想われているからこそ、決断するのは難しい。
キースの心は暗鬱だった。
世間が聖バレンタインの祝祭で盛り上がる中、ノエルはいつも通りに夜勤をこなした。
キースからの連絡がないまま、どんどん毎日が過ぎていくことに、次第に焦りを感じ始めている。
もし、ずっとこのままだったらどうしよう。
何も伝えられないまま自然消滅――そんな風には考えたくないが、そういう結末が嫌でも頭を過ぎる。
ここのところはそんな雰囲気が顔に出ているのか、周りのスタッフにも「元気ないですね」と心配される有り様だ。
仕事中はそこに全神経を傾けられるが、家に帰ると途端に気が抜けた。何をしても集中できない。
そして、携帯を見る頻度は減った。
期待して、それが外れるのを繰り返して、今はもう携帯を見るのが怖いくらいだった。
何もする気が起きず、読もうと思って買った本が何冊も積まれたままになっている。
ベッドにごろりと横になると、キースの誕生日の夜、一緒に眠ったことを思い出した。
キースが恋しい。
抱きしめたい、抱きしめられたい。
あの熱いほどの体温を感じたかった。
ノエルは少し早いがシャワーを浴びて寝てしまおうとベッドから降りた。
起きていると、嫌なことばかり考えてしまうから。
その時、ノエルの携帯にメッセージの着信があった。
もしかして――恐る恐る画面を開くと、それはキースからのものだった。
『明日 午後九時
バー《ディヴェル》で』
ああ、やっとだ。やっとキースに会える。
ディヴェルとは、あのバーのことだろう。確か、そんな名前だった。
いつものホテルでないことが気にかかったが、ノエルはあまり深く考えなかった。
翌日がちょうど休日だったノエルは軽く夕食を済ませてからバーへ向かった。
はやる気持ちに急きたてられるように、足早に歩く。
覚えのある道を辿って、ビルの地下一階へ。
すると、扉の前に『本日貸切』という看板が立ててあった。
入っていいものかどうか迷ったが、キースがそうしたのかもしれないと古びた扉を開ける。
すると、中にはマスターの他に、カウンターに人が一人、座っていた。
大柄で、金髪を長く伸ばした男だ。
男が振り返って、ノエルを見た。
といっても、長い前髪で目は隠れている。
「やあ、君がノエル・ファウラーか?」
「……ああ」
ノエルは反射的に頷いた。
だが、これは一体どういうことだ?
この男はキースの知り合いだろうか。
何故、キースがいない?
ノエルの中に漠然とした不安が湧き上がる。
男は立ち上がるとノエルに歩み寄って、微かな笑みを浮かべた。
「俺はクロード・マクレガー。キースの従兄だ」
「……従兄?」
「まあ、兄弟のようなものだ。ずっと一緒に育ってきたからな」
「……キースは?」
ノエルが尋ねると、クロードはすっと真顔になった。
「……キースは来ない」
ノエルは一気に奈落の底へと突き落とされた。
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