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第22話
「取り敢えず座ってくれ」
クロードに促され、ノエルは呆然としたまま、その隣に腰を下ろした。
「何か飲むか?」
「……水を」
「マスター、彼に水を」
クロードが言うと、すぐにロンググラス一杯の冷たい水が出された。
ノエルはそれをごくごくと飲み干した。
何故が喉が乾く。
マスターはすぐにおかわりの水を出すと、バックヤードに下がっていった。
バーにはノエルとクロードの二人だけが残った。
ノエルはクロードを見た。
従兄というわりに似ていない、と思ってから、キースが養子だったことを思い出した。血は繋がっていないのかもしれない。
クロードは会話を先延ばしにすることはせず、単刀直入に結論を言った。
「キースはもう、君には会わない」
ノエルはぐさりと心臓を刺されたような気がした。
「……なんで」
「今回の事件で、自分が一緒にいると君を危険に晒すと思ったからだ」
「そんなの…」
俺は平気だ、と言おうとして、ノエルはすんでのところで思い留まった。
ノエルの気持ちはキースもわかっているはずだ。それでも、その選択をしたのだ。
キースも苦しんでいる、と言ったエマの言葉を思い出す。
何と返していいかわからないノエルに、クロードは静かに話し出した。
「……少し、昔の話をしようか」
その声音にノエルは自然と引きつけられた。
『キースと俺は、キースが五歳、俺が九歳の時に出会った。
君ももう知っている通り、キースの父のトレヴァーはマフィアのボスで、ある日、トレヴァーが養子として連れてきたのがキースだった。
俺の父はトレヴァーの弟でな。本当は俺の父が祖父の跡を継ぐはずだったんだが、キースが養子に来る前に死んでしまったんだ。トレヴァーは仕方なく跡を継ぐことになった。
それから、俺たちは同じ家に住んで、兄弟同然に育った。
まだ子供だった頃、俺たちには特別な幼馴染みがいた。
名前はヴィクトリア・スタイン。
キースより二つ上、俺より二つ下、そばかす顔の勝ち気で利発な女の子だった。
ヴィクトリアはファミリーの構成員の娘だったんだが、ファミリーと名前が同じだったこともあって仲良くなって。プライマリーからセカンダリーまでは皆、同じ学校だった。
もったいぶっても仕方ないからはっきり言うが、キースも俺もヴィクトリアが好きだった。二人とも初恋だったんだ。
でも、お互い遠慮があったし、三人でいるのが楽しくて、幼馴染みという関係を崩すことなく成長した。
そんなある日、ヴィクトリアの父親が警察に捕まったんだ。麻薬売買の現場を押さえられてな。
ヴィクトリアの父親はファミリーのことを一切話さずに、懲役刑を受けて刑務所に収監された。ヴィクトリアが十二歳の時だ。
ヴィクトリアは施設に入ったり、里親の元へ行くのを嫌がって、一人暮らしを始めた。普通はそんなことは許されないが、トレヴァーが表向きの保護者になったんだ。
トレヴァーはヴィクトリアに生活費から教育費まで全て援助するつもりだったが、ヴィクトリアはそれを拒否した。子供なりに意地があったんだろう。気が強かったから、弱さを見せたくなかったのかもしれない。
ヴィクトリアは、当面は金を借りるだけで、あとで必ず返すと言って、学校に通いながら夜は働くようになった。それが、この店だった。ここは以前からファミリーと繋がりがあって、ヴィクトリアが安全に働ける場所として選ばれたんだ。
それで、俺とキースはこの店に入り浸るようになった。勿論、ヴィクトリアは表に出ることはできないから下働きをしていて、俺たちは仕事を手伝ったり、邪魔して怒られたり……何にせよ、あの頃が一番楽しかったよ。
それから年月が経って、キースが十四、ヴィクトリアが十六、俺が十八の時だった。
夏のある日、二人で店に行くと、マスターからヴィクトリアがまだ来てないと言われたんだ。彼女は責任感が強かったから、無断で休むなんて考えられない。何かあったんだろうとフラットへ行ったら、ヴィクトリアはいなくて、一枚の書き置きがあった。
それは、何故かキース宛てのものだった。
紙には《ヴィクトリアは預かった。返してほしければ指定の場所に一人で来い》と書いてあった。それは、ラグズシティの郊外にある倉庫だった。
キースは激怒してフラットを飛び出していった。俺は何か嫌な予感がして、ファミリーの事務所へ行って、トレヴァーに報告したんだ。それで幹部と構成員を連れて、キースの後を追った。
だが、キースはモーターバイクに乗っていって、ずいぶん早く着いていたらしい。俺たちが追いついた時には、もう倉庫は火事になっていた。そこで何が起こったのか、真実は俺も知らない。キースが頑なに口を噤んで話さないから。
わかっていることは、ヴィクトリアがそこで死んだことと、誘拐犯たちは恐らくキースに撃たれて死んだこと、その二つだ。
俺はキースを助けようと倉庫に入って、そこで天井の梁の下敷きになっていたキースを見つけた。木造の古い倉庫だったから…。折れた梁がキースの顔から胸の辺りに直撃して、酷い出血だったよ。
構成員が何人か一緒に来てくれて、何とかキースを引きずり出したんだが、火の回りが早くてな。キースを助ける間に俺も左腕に大きな火傷を負ったんだ。俺たちはすぐにトレヴァーの知り合いの病院へ運ばれた。
キースは次の日まで意識が戻らなかったんだが、気づいたあとの荒れようは凄まじかった。もともと気性が荒い性格だったから、誰にも手がつけられなかったよ』
クロードがノエルと話している頃、キースは自室でロックグラスを傾けていた。
ノエルとの関係を終わらせると決めたのは自分なのに、面と向かって言うのが辛くて逃げた。
――何て、弱くて情けない。
自分で自分が嫌になる。
それでも、ノエルの傷つく顔を見たくなかった。見たら、きっと感情に流されてしまう。
ノエルを手放したくないという気持ちに負けてしまうと思った。
だから、クロードが代わりに行こうかと言ってくれた時、つい甘えてしまった。
だが、クロードがそう申し出たのは、ノエルにあの日のことを話すためだろう。
そうすることで、ノエルの未練を断ち切ろうとしてくれているのだ。
あの日のことは、今でも一番、思い出したくない。
それは、まだ暑い夏の夕暮れだった。
ヴィクトリアが攫われたあと、キースは手近にあったモーターバイクを盗んで、指定場所へ向かった。
ラグズシティ郊外の、空き地に囲まれた古い木造の倉庫だった。
バイクを降りて、中に飛び込む。
廃材があちこちに積み上げられ、錆びたドラム缶がいくつも置かれた場所。
そこでキースが見たものは、一番奥の柱に括りつけられたヴィクトリアの姿だった。
その首はだらりとしていて、手で締められた跡があった。顔は赤紫に変色し、裸足の足先は鬱血していた。
一目でわかった。
彼女は、もう死んでいると。
キースが着いたのは、ヴィクトリアが無残に殺されたあとだったのだ。
犯人は五人組の男だった。
主犯格らしき男が何か言っていた。
お前の父親はやり方が温いとか、もっとヤクを売って稼ぎたいとか、自分がボスになってやるだとか。
そして、そのためにまずはお前を殺すことにした、と。
その一言で、キースは理解した。
ヴィクトリアが攫われたのは、自分を誘き出すための罠だったということを。
ヴィクトリアの死に混乱していたキースの中に、燃え上がるような憎悪が沸き上がった。
あの時の感覚は、今でも言葉では表現できない。ただ、巨大な爆弾が爆発したかのような途轍もなく熱い激情が自分を支配し、自分以外の全てのものを灼き尽くそうとしていた。
五歳でトレヴァーに引き取られたキースは護身用に様々な格闘技を習い、元陸軍の狙撃兵に銃の扱いを教わっていた。
あの頃、キースの身長はすでに百八十センチ近くあり、格闘技では大人と闘っても負けることはなかった。
だが、キースが丸腰だと油断していた犯人たちは、キースのことをよく知らなかった。幹部でも何でもない、野望が大きいだけの下っ端だった。
あの瞬間、キースは剥き出しの獣性を解放し、迸る感情のままに動いた。
低い姿勢で男に駆け寄り、下から拳を出して鳩尾に強い一撃を食らわせた。男は衝撃で後ろに吹き飛び、その場で気を失った。
他の四人は銃を取り出した。
キースは一番近くにいた男に飛び掛かり、自分の盾にしながら関節技で肩を外して銃を奪った。そのまま至近距離から発砲すると、男はあっという間に絶命した。
他の男たちが撃ってくるだろうと、キースは本能的にその場から飛び退った。
そして、間髪入れずに残りの三人にも銃弾を浴びせた。
自ら動きながら、動く的を撃ち抜くのは至難の業だ。超一流の狙撃手 にもなれると評価された才能は、慣れない銃でも男たちの急所を確実に捉えた。
頭、腹部の中心、心臓付近。
近距離からの銃撃は、大きな衝撃波を伴って男たちを襲い、倒れた男たちが立ち上がることは二度となかった。
キースは柱に括りつけられたヴィクトリアを解放しようと近づいた。
だが、その時、倉庫の中で爆発が起こった。
撃たれた男の一人が、銃弾を受ける直前にキースに向かって銃を撃ち放っていたのだ。
だが、撃たれた際に手元が狂い、全く違う場所に着弾した。それが、放置されていた可燃性の液体が入ったタンクに直撃したのだった。
火はあっという間に燃え広がった。
キースは慌ててヴィクトリアの元に駆け寄ろうとした。だが、気絶していた男が意識を取り戻して、キースの足を掴んだのだ。
男は仲間がやられたのを見て、半狂乱になっていた。しゃにむににキースを押し倒そうとしてきた。
キースは縋りつく男を蹴り飛ばして、残っていた弾丸で止めを刺した。リボルバーの弾倉は六発。キースは一発も外さなかった。
キースは何とかヴィクトリアに近づこうとしたが、行く手を炎に阻まれ、やがてそれは天井にまで燃え移った。
そして、太い梁の一本が、みしみしと音を立てて割け始め、気づいた時にはキースの真上から落ちてきたのだ。
そのあとのことは、よく覚えていない。
目が覚めた時には、既に病院のベッドの上だった。
意識を取り戻したキースは、ヴィクトリアの死を受け入れられず、病院の中でも見境なく暴れた。激情を抑えることができなかった。
そして、一ヶ月の入院生活のあと、キースはようやく事件の顛末を知らされた。それまでは、聞いても誰も教えてくれなかった。
ヴィクトリアの遺体は火事で焼け焦げ、身元不明で警察に収容されていた。犯人たちも同じだ。遺体の損傷が激しく、身元の特定に時間がかかっていた。
犯人グループは思った通り、ファミリーの下っ端の準構成員だった。トレヴァーは彼らとの関わりをなかったことにした。
キースが心底ショックだったのは、トレヴァーがヴィクトリアの存在をこの世から消し去ったことだ。
トレヴァーはファミリーの金と力と伝を使ってヴィクトリアの戸籍を抹消し、学校の在籍歴や通院歴など、あらゆる痕跡を消去したのだ。
それは、キースが事件に関わったことを警察に悟られないようにするためだった。キースはまだ未成年だったが、事件の残虐性を考えると実刑になる可能性が高い。
だから、事件の真相が突き止められる前に、キースとヴィクトリアの関係を断ち切った。トレヴァーはキースを守ろうとしたのだ。
キースは自分を責めた。
せめて一人で乗り込むような真似さえしなければ、ヴィクトリアの遺体だけは取り戻すことができたかもしれない。
だが、自分のせいでヴィクトリアは身元不明のまま市の共同墓地に埋葬され、この世に生まれなかったことにされてしまった。思い出も、写真からメールの遣り取りまで、何もかも消された。
トレヴァーのことは父親として慕っていた。
自分のためにしてくれたことだとわかっていたから、反発はできなかった。
遣り場のない思いは他へ向かった。キースは荒れに荒れて、抗争があれば誰が止めるのも聞かずに最前線に立った。
あの頃は、いつ死んでもいいと思っていた。
それくらい、ヴィクトリアの死はキースを追い詰めていた。
自分がヴィクトリアを好きにならなければ、彼女が狙われることはなかった。感情のままに動かなければ、思い出だけでも残せたはず。
――全て自分のせいだ。
その罪悪感に押し潰されそうになっていた。
それでもキースが立ち直れたのは、トレヴァーとクロードが根気よくキースに接してくれたからだ。
荒んだ心に寄り添い、時に厳しく、だが寛容に見守ってくれた。
徐々にキースは落ち着き、そして、自らを変えようと思い始めたのだった。
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