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第23話

「ヴィクトリアが死んで、キースは心に大きな傷を負った。だが、時間というものはそれなりに傷を癒やす効果があった」  クロードは過去を思い出し、遠い目で宙を見つめた。 「十六になる頃にはずいぶん気性も落ち着いて、色々なことを冷静に考えられるようになったよ。ただ…」  クロードの目が陰りを帯びる。 「そこでキースは徐々に変わっていった。感情をあまり表に出さないようになったんだ。常に自分を抑制するようになった」 「…どうして」 「ヴィクトリアの死に責任を感じていたからだろう。自分がもっと冷静に動けば、ヴィクトリアが攫われることも、存在が消されることもなかったと思ったんだ」 「……」  ノエルは絶句していた。  キースがそんな重い過去を背負っていたなんて、想像もしていなかった。 「キースはそれ以来、人と深く関わることをしなくなった。ファミリーの中では自分が信頼できそうな相手を構成員の家族から探して、将来の幹部として一から育てた」  ヴィクトリアとの関係は、キースとクロードの周囲にいた人間は皆、知っていた。  だが、末端の準構成員がどうやって情報を手に入れたかは結局わからないままだった。  キースは周囲に不信感を募らせていたのだ。 「それからは勉強にも力を入れるようになった。ファミリーを率いていくには、力だけでは駄目だと思い知ったからだ。その成果で大学はグランバートンに留学した」  全ては大切なものを守るため。誰よりも優れた人間になろうと努力した。もう二度と大切な人を自分のせいで失わないように。 「ただ、留学中は親しい友人は一人しかいなかったし、恋人は人生で一人もいなかったよ」  クロードはそこでノエルを見た。 「……君だけが、特別だったんだ」  キースはもう誰も愛さないと決めていた。  それが一番いい方法だと思ったからだ。  だが、そこにノエルが現れた。  ノエルだけがキースの心に深く入り込めた。  ノエルだけがキースの孤独に寄り添えた。  ノエルの大きな愛が、どれほどキースの傷を埋めてくれたか、ノエル自身は知らないのだ。 「だからこそ、今回の事件はキースにかなり大きなダメージを与えた。また自分のせいで愛する人を失うかもしれないと、キースは苦しんでいたよ」  クロードは少し切なげにノエルを見つめた。 「これで、キースの決断の理由はわかってもらえたと思う」  ノエルには何も言うことができなかった。  出会ったばかりの頃は、キースの冷めた瞳の理由が知りたいと思っていた。  けれど、そんな残酷な理由があったとわかった今は、知らないままの方がよかったと思った。  何も知らないまま、ずっと側にいられた方がよかった。  今ここで、別れたくないと言うのは簡単だ。  だが、それはこれからもキースの心に大きな負担を掛けることになる。  いつまた、あの誘拐犯のような男が現れるとも限らない。  エマも言っていた。ファミリーの一員ではないノエルを守ることには限界があると。  ノエルは俯いたまま、一言も発せなかった。  それをノエルの意思だと受け取ったクロードは、大きな封筒を差し出した。 「これを」 「…?」 「限定的とはいえ、君の存在は一度、外部に知られた。他に情報が漏れた形跡はないが、家を引っ越した方がいい」  ノエルが封筒の中身を確認すると、それはどこかのフラットの情報だった。 「今、住んでいる部屋と同じような条件で、キースが探した。もし内見して問題がなければ、できるだけ早く引っ越した方がいいと思う」  キースが自ら探してくれた。  それが、ノエルの胸を抉った。  キースは一体、どんな気持ちだっただろう。 「それと、これを」  クロードが渡したのは、パステルカラーの洒落たロゴが入った、小さめの白い紙袋だった。中には小さな箱が入っている。 「以前、キースは君に香水を選ぶと約束していたんだろう?」  ノエルは紙袋を受け取って、堪らない気持ちになった。  キースが自分を想ってくれていることは、痛いほどよくわかった。  互いに同じ気持ちでいるのに、なぜ離れなければならないのか。これも運命なのだとしたら、神とは何と無慈悲な存在だ。  しばらくの間、二人は無言だった。  何を言っても陳腐な台詞になりそうで、ノエルは口を開くことができなかった。  ただ、込み上げる涙を抑えるのに必死だった。  やがて、クロードが立ち上がった。 「そろそろ俺は失礼する」  ドアに向かいかけてから、クロードが立ち止まる。 「…何か書くものを持っているか?」 「ボールペンなら…」 「貸してくれ」  クロードはボールペンを受け取り、ノエルに渡した封筒の隅にさらさらと数字を書き綴った。 「もし本当に困ったことがあれば連絡してくれ。力になる。但し、それは最終手段だと思ってほしい」 「……わかった」 「それじゃあ」  クロードは今度こそ、振り返らずに店を出ていった。  一人取り残されたノエルは、しばらくの間、そこから動くことができなかった。  ――どうして、どうして、どうして。  こんな終わり方をするなんて、思ってもいなかった。  自分が間違っていたのか?  キースの心を望むべきではなかった?  一体、どうすればよかったのか。  どうしたら、この結末を避けることができたのか。  ただ、側にいたいと願っただけだ。  それすらも許されないなら、なぜ自分たちは出会ったのだろう。  ノエルの心は千々に乱れた。  だが、そうするうちにマスターがカウンターに戻ってきた。  いつまでも座っている訳にはいかない。  ノエルは重い腰を上げて、バーを後にした。  部屋へ戻って、キースが選んでくれたという香水を取り出してみる。  白い正方形の箱に、細く切られた紙のクッション材が詰められ、その中央に円筒形のガラス瓶が置かれていた。  手に取ってみると、ラベルにメッセージが入っているのがわかった。     『My dearest,  Your love is precious to me.』 (最愛の人へ  貴方の愛は私の宝物)      ノエルの瞳から、どっと涙が溢れた。  一度も告げられることのなかったキースの想いは、確かにノエルに注がれていたのだ。  もっと側にいたかった。  もっと抱きしめたかった。  好きだと言って、キスをして、もっと笑い合いたかった。  これから、そうできると思っていた。  けれど、全て奪われてしまった。  愛しくて、悲しくて、哀しくて、ノエルの心は無残に引き裂かれ、慟哭の血を流した。  その夜、ノエルは香水瓶を入れた箱を抱いて眠った。  その瞳から涙が消えることはなかった。            翌日、ノエルはクロードに貰った書類を見て、不動産会社を訪れた。  クロードは内見して問題がなければ、と言ったが、ノエルはその場で契約書にサインし、鍵を受け取った。  キースが選んでくれた部屋に問題があるとは思えなかったから。  部屋まで送ってくれるとの申し出を断って、ノエルは新しい住処に向かった。  書類に記してあった住所で、おおよその場所はわかっている。  そこは、ノエルの勤める市立病院まで電車で二駅のエリアにあった。  中心街からは遠くなるが、駅からは徒歩で五分ほどと近く、駅前に大きなスーパーマーケットがある。  駅からの道を、周囲を眺めながら歩く。  タウンハウスや一軒家の多い住宅街だ。建物の外観がどこも瀟洒で、高級感が漂っている。  大通りから一本奥の道に入ると、そのフラットはすぐに見えた。  淡いアイスグリーンの外壁に白い窓枠が映える、まだ真新しい建物だ。  単身者用だがオートロック式で、セキュリティがしっかりしているのを感じる。  ロックを解除して中に入るとエレベーターがついていた。  ノエルの部屋は四階建ての最上階の角部屋だった。  鍵を開けて、扉をくぐる。  広い部屋だった。  南向きの窓から陽の光が柔らかく差し込んでいる。  左手にきちんとしたシステムキッチンが設置され、右手にはバスタブ付きのバスルームがあった。しかも、乾燥機能つきの洗濯機が置いてある。  バスルームの隣に独立したベッドルームと、収納力がありそうな大きなクローゼット。  キッチンの奥はワークスペースとして使えそうだ。  ノエルは窓辺へ立ってみた。  すぐ側に広い公園がある。  春になれば、瑞々しい緑が一面に広がるのだろう。  ノエルは窓枠に手をつくと、ずるずるとその場に崩れ落ちた。  ――この部屋は、キースの愛そのものだ。  同じ条件だなんて、大嘘だ。  今、ノエルが住んでいる部屋の家賃と同じ金額では到底、ここに住むことはできない。  どんな手を使ったかはわからないが、キースがそれを可能にしてくれたのだ。  一度も、好きだと言われたことはなかった。  ずっと体だけの関係で、愛されているとは思っていなかった。  けれど、その裏側にはこんなにも深い想いを秘めていたのか。  言葉にならない熱いものが込み上げ、ノエルの口から抑え切れない嗚咽が零れた。  ただただ、キースに会いたいと願う。  たとえその手が血に染まっていたとしても、もうノエルにはどうでもよかった。  堕ちるというなら、どこまでも一緒に堕ちるというのに。  だが、キースの優しさはそれを許さない。  あくまでもノエルを日向に置こうとしているのだ。  それがキースの望みなら、受け入れよう。  この部屋で、キースの愛に包まれて生きよう。  ノエルは、そう決意するほかなかったのだった。      

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