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第24話

 朝七時、携帯のアラームで目を覚ましたノエルは大きく一つ伸びをして、ベッドから降りた。  ベッドルームのカーテンを開けると、窓の外には若々しい緑の景色が広がっている。  ノエルとキースの哀しい別れから、もう二年の月日が経っていた。  ノエルは今も変わらず、市立病院のERで働いている。  日勤、夜勤、休日の繰り返しを日々、淡々と過ごしていた。  変わったことと言えば、ノエルが自炊を始めたことだ。  せっかく立派なキッチンがあるのだからと挑戦してみたら、これが意外にもはまった。  もともと好奇心は旺盛だ。  見栄えは勿論のこと、栄養バランスや味つけの調和、いかに手際よく作れるかなど、考えれば考えるほど、その奥深さにのめり込んだ。  今では、休日におかずの作り置きもするほどだ。  それに、あの頃のノエルには何か集中できることが必要だった。そうでないと、思考が絶望の底へ底へと落ちてしまうから。  だが、二年が経って、ノエルはようやく平穏を取り戻すことができていた。  ノエルは顔を洗って、朝食の準備を始めた。  本場・和国製の炊飯器で炊いたライスを冷凍していたものを電子レンジで解凍し、常備菜を数種類プレートにのせて温める。あとはフリーズドライの野菜スープにお湯を注ぐだけ。  手軽だが、しっかりと栄養が摂れるように配慮してある。  何より、温かいものを食べるのがいいとノエルは思っている。温かい食べ物は、心まで温めてくれるように感じるから。  しっかりと朝食を食べ、歯を磨いたあと着替えを済ませる。  オフホワイトのパネルボーダーニットにスキニージーンズ、それに濃いオリーブグリーンのジャケットを羽織った。  三月後半になって朝晩の気温もだいぶ上がったが、ノエルにとって、この防風と撥水に優れたフード付きのフルジップジャケットはまだ必需品だ。  というのも、ノエルはここへ越してきてからすぐ、通勤手段を自転車に変えたのだ。  電車でたった二駅だ。節約になるし、軽い運動としても丁度いい。  街乗りに適したクロスバイクで、ハンドルとサドルがブラウン、車体がブラックというシックな色合いが気に入った一台。  有名メーカーのもので結構な値段だったため、乗らない時は盗難防止のため部屋に置いてある。  ノエルはその十キロ以上あるバイクを担いでフラットの外へ出た。  数年前から整備され始めた自転車専用レーンを軽快に走り抜ける。  病院までは、二十分ほどだ。  同じように自転車通勤する人と顔なじみになったノエルは途中途中で挨拶を交わしながら、心地いい風に身を任せた。            一方、キースもノエルのいない日常をそれなりに過ごしていた。  会社はその後も順調に成長し、海外に支店を出す話が進んでいる。ファミリーの統制もうまく行き、他組織とのトラブルもない。  外から見れば、まさに順風満帆。  たが、キースの中でノエルの存在は消えることなく残っていた。自分自身でつけた爪痕が今もしくしくと痛む。  ノエルと別れたあと、キースは止むに止まれぬ状況で数人の男女と関係を持った。  だが、その全てが苦痛でしかなかった。  ノエルでなければ意味がない。  そう思い知ったキースは、最近はパーティーなどには常にエマを同伴させるようになっていた。  パートナーがいると思わせることで、自分に近づこうとする相手を牽制しているのだ。  エマもそれを理解して、協力してくれている。  だが、そんな中でもキースに言い寄る相手は後を絶たない。  実は、年始に呼ばれたパーティーで、キースはある女性に一目惚れされた。  それがファミリーと縁の深い、かつてのラグズシティ市長・スカイの孫娘だったのだ。  クレインという名の彼女は女子教育で有名なディアンサス大に留学していて、去年、帰ってきたばかりだった。  そこで、かねてからキースを気に入っていたスカイ自身が二人を引き合わせたのだ。  クレインがキースに好意を持ったことで、それ以来、スカイからの連絡が増えている。  何かと理由をつけて会うのを避けているが、いつまでもは続けられないだろう。  クレイン自身も時折、会社の前でキースを待ち伏せしていることがあって、その対応に苦慮していた。  どこかではっきりと断らなければ。  スカイの不興を買うのは明らかだが、仕方がない。  キースはそれを、イースターに行われるクレイン主催の慈善パーティーでと考えていた。            四月の中旬に入ると、ノエルの通勤はフルジップジャケットからブラウンのハンティングジャケットへと衣替えした。  比翼仕立てのクラシカルなデザインは黒を合わせるとシックに決まる。黒のパーカーとスキニーパンツを身に着けて、ノエルは日勤へと向かった。  途中、コンビニエンスストアに寄って新聞と昼食用のインスタントヌードルを数個、買う。  職員用の駐車場の隅にバイクスタンドがいくつかあるので、そこに厳重に鍵を掛けてクロスバイクを括りつけた。高価な自転車は狙われやすいからだ。  まずは夜間に運ばれてきた患者の電子カルテに目を通し、朝のカンファレンスを行う。  その後、ノエルは医師控室に入った。  買ってきた新聞を読みながら、同僚や研修医たちと話していると、早くも最初の受け入れ要請が来た。  この国では消防局の指令センターで最初に問診による重症度判定(トリアージ)がある。それに基づき救急車が出動し、更に救命士が現場で患者の状態を確認する。  そうすることで患者をより的確に素早く搬送し、救命率を上げようという取り組みが数年前から始まっていた。  最初の患者は意識不明で脳卒中の疑いがあった。  検査結果による診断は脳内出血。  出血量が多く、即座に開頭手術が始まった。  ノエルが数時間に及ぶ手術を行っている間にも次の要請があり、同僚が診断・治療に向かう。  四百万人が住むラグズシティだが、三次救急を担当する救急救命センターは五箇所しかない。忙しいのは当然だ。  無事に手術を終えたノエルは、少し遅めの昼食を取り、一息ついていた。  その時、遠くから小さくドーンという音が聞こえたのだ。 「…今、何か音、聞こえなかったか?」 「ああ、交通事故か何かかな?」 「うーん、ちょっと違うような…」  研修医たちが話しているのを聞きながら、ノエルも何とも言えない違和感を持った。  音に、ただ単にぶつかっただけではない、空気を揺らすような響きがあったからだ。まるで爆弾でも落ちたかのようなイメージとでも言えばいいか。  嫌な予感がした。  そして、ノエルの予感は当たった。  十分ほど後に受け入れ要請が入ったのだ。  通報では、現場で爆発事故が起きたらしいことがわかっていた。マリーヒルズという地区で一軒の小さなレストランが吹き飛び、周囲の建物も大きな被害を受けているとのこと。火事も発生し、消防車も出動している。  だが、多数の負傷者が出ているにもかかわらず重傷者はまだ二名だけ。救命士からの報告では、患者は二人とも広範囲熱傷と見受けられ、生命に危険があると思われた。  一人は別の病院の熱傷センターへ、もう一人をノエルのERで受け入れることになった。  すぐに熱傷治療室で準備を始める。 「LR(リンゲル乳酸液)とD5W(5%ブトウ糖液)、NS(生理食塩水)の用意だ。フィブラストスプレーとドレッシングも準備しておけ」  ノエルは熱傷治療に必要なものの指示を出し、患者の到着を待った。  それから十分も経たないうちに、救急車がやって来た。  ストレッチャーに載せられた患者を見て、ノエルは顔を顰めた。  患者は体の背面全体に火傷を負っていた。思っていたよりも範囲がかなり広い。  熱傷の重症度は深度と表現され、軽い方からⅠ度〜Ⅲ度に分類される。Ⅰ度は表皮に留まるもの、Ⅱ度は真皮に留まるもの、Ⅲ度は皮膚全体の損傷で、時に皮下脂肪やその下まで及ぶものだ。  Ⅱ度でも体表面積の30%を越えると重症とされ、40%を越えると死亡率がかなり高くなる。  そして、ノエルにはその40%を越えているように見えた。  ただ、深度については簡単に判断できない。熱傷部分が赤く、水疱ができている部分は浅達性Ⅱ度に見えるが、赤色が濃く、圧迫しても色が変わらない部分は深達性Ⅱ度と思われる。多くの場合は浅達性と深達性は混在しているので、この患者もそうだろう。  どちらにしても、きちんとした診断をつけるには一週間以上が必要だ。  だが、患者は痛みで呻いている。熱傷は深くなればなるほど、神経を損傷して痛みを感じなくなるという特徴があるので、Ⅲ度までは達していないか、達していたとしても部分的なものだろう。  まずは体重測定が必要なため、救命隊員とスタッフが患者を慎重に測定機能付きのベッドに載せた。  その時、初めてノエルは患者の顔を見て驚愕した。  ――エマ…!  その患者は、あろうことかキースの運転手を務めていたエマだったのだ。  彼女がどうして――!?  苦しげに呻くエマの表情に、ノエルの頭が一瞬パニックになりかける。  だが、すぐに我に返った。  今は慌てている場合ではない。  重症熱傷も当然、初期治療が大切だ。  まずは感染症を予防するため、熱傷部分を充分な量の生理食塩水で洗浄した。その後、既に破裂した水疱を取り除く。  その間に、研修医たちに熱傷部分の面積を正確に測定させた。面積✕体重で算出した量の輸液投与を速やかに開始する。初期の輸液投与は、患者の予後に大きく影響を及ぼすからだ。  その後、熱傷部分の皮膚の回復促進のためにフィブラストスプレーを噴霧し、保護のために創傷被覆材を貼っていく。傷を覆えば痛みはかなり軽減されるはずだ。  面積が広いため時間がかかったが、研修医たちと協力して、ノエルは慎重かつ迅速に治療を行った。  初期治療が終わったあとで、火傷以外の怪我がないか確認すると、体の前面にかなりの打撲痕があった。もしかしたら爆風で吹き飛ばされたのかもしれない。  その後、全身に包帯を巻き、エマはICUの熱傷用個室に移された。  あとはICUで、急変がないか気をつけながら経過を観察していくことになる。  ICUには専門の担当医がいるため、ノエルはその担当医と話してから控室に戻った。  改めて、運ばれてきたエマのことを考える。  何故、昼間のあの時間にエマがマリーヒルズにいたのだろう。マリーヒルズといえば、お洒落なカフェやレストラン、ファッション関係の店が並ぶ場所だ。  今日は平日。普通だったら、彼女は運転手として仕事をしているはず。  まさか、キースに何か――!?  そう思ったら、居ても立ってもいられない気持ちになった。  もうすぐ日勤が終わる時間だ。  ノエルは言い知れぬ不安を感じながら、時間が過ぎるのをじりじりと待った。            退勤時間になったノエルは通常行う研修医たちとの勉強会を断り、即座に病院を後にした。  クロスバイクを飛ばして、家へ帰る。  それを担いで部屋へ戻ったノエルは、デスクの一番上の引き出しを限界まで引っ張った。  奥の隅に、一枚の破れた紙がセロハンテープで貼ってある。  ノエルはそれを剥がして取り出した。  携帯番号が綴られたメモは、あの日、クロードが「何か困ったことがあれば」と渡してくれたものだ。  ノエルはどうしようかしばらく迷ってから、思い切って、その番号に電話をかけた。  プルル…と呼び出し音が鳴る。  鼓動がどきんどきんと速まった。 『……もしもし』  繋がった――!  ノエルは緊張のあまり、すぐには言葉が出なかった。 『誰だ?』  誰何されて、慌てて名乗った。 『……君か。久しぶりだな。何かあったのか?』 「ああ、いや、エマのことなんだが」 『エマ!? 何か知ってるのか?』 「今日の午後、ER(うち)に運ばれてきた」 『本当か!?』 「…知らなかったのか?」 『午後から連絡がつかなくて心配していたところだ』 「…仕事じゃなかったのか」 『ああ、今日は休みを取っていた』 「じゃあ、キースは…」 『無事だよ』  ノエルはほっと胸を撫で下ろした。  まずは一安心だ。 『エマはどうしてERに?』 「昼間に爆発事故があっただろ。それに巻き込まれたらしい」 『君の所に、ということは重傷か?』 「ああ、正直言って、最初はかなり命が危ないと思ったくらいだ」 『そんなにか』 「体の背面全体にⅡ度の火傷だ。ああ、Ⅱ度っていうのは表皮を越えて、その下の真皮まで損傷してる火傷のことなんだが」 『…そうか…エマは助かりそうか?』 「まだ完全に大丈夫とは言えないが、できる限りで治療はした。対応が早かったから、今のところは何とかなってる」  熱傷は治療しても、感染症を起こしたりすれば深度が進行することがある。まだ予断は許さないだろう。 『わかった。知らせてくれてありがとう』 「いや…」 『明日、面会はできそうか?』 「明日はまだ無理だな。二、三日は様子を見ないと」 『そうか』 「今回は完治までの入院が絶対に必要だぞ。あれだけ広範囲の火傷だと、皮膚移植も必要になるだろうからな」  ノエルの言葉に、クロードは少し笑ったようだった。 『わかった。まずは入院の手続きが必要だろう。明日、人を寄越す』 「そうか。何かあればERの受付に来てくれ。明日も日勤だから、手が空いてれば詳しく説明するから」 『ああ、わかった。ありがとう』 「いや、それじゃあ…」  電話を切って、ノエルはほっと息をついた。  エマのことが伝わっていなかったのは驚きだ。確かに爆発のせいか服はほとんど焼けていたし、持ち物もなかった。エマの名前さえ、病院側はまだ把握していないだろう。  大きな事故だったようなので、また警察が来るかもしれない。今度はどうするつもりだろう。  そこまで考えて、ノエルは自嘲した。  キースとはもう終わったのだ。それは自分が心配することではない。  それにしても、と思う。  キースの名前を二年振りに口に出した。  それだけで胸が苦しくなるなんて、自分がこんなに未練がましいとは。  何にせよ、エマが患者でいる間はファミリーとは無縁ではいられないだろう。何しろ、自分は彼女の秘密を知っているのだ。  明日から、どうなるだろう。  ノエルは不安を感じながら翌日を迎えたのだった。      
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