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第28話
「やめろ!!」
ノエルが叫ぶとクレインは一瞬、後ろを振り返った。
だが、動きを止める素振りはない。
ノエルはクレインに駆け寄って、振り下ろされる直前で、その両腕を掴み止めた。
「…離して!」
「させるかよ!」
ノエルはそのままクレインの両腕を捻りながら、エマから引き離すように後ろへ引きずった。
女性らしい細い両腕を片手でまとめて鷲掴みにし、手首に手刀を落とす。
「きゃあっ!」
クレインは痛みで悲鳴を上げて、刃物を取り落とした。
かつんと床に落ちた刃物を、ノエルは咄嗟に蹴り飛ばした。それがカラカラと音を立てて部屋の隅へと滑っていく。
暴れるクレインを押さえつけていると、モニークが追いついてきた。
「警察を呼べ!!」
「…はい!」
さすがにこの状況では警察に通報せざるを得ない。モニークがすぐに携帯で通報する。
クレインはその場に座り込むと、さめざめと泣き始めた。ぐすぐすと鼻を鳴らす。
抵抗するのも諦めたように、両腕から力が抜けた。
そこで、ようやくノエルはエマに目を遣った。
閉じていたエマの目が開き、眼前の出来事に驚愕している。
「エマ、大丈夫か!?」
「は、はい」
その答えにほっとしたノエルは、改めてクレインを見た。
俯いていて顔はよく見えないが、ほっそりとした女性だ。蜂蜜のような金髪を、看護師に見えるように結い上げている。
どうやってナース服を手に入れたのかわからないが、もしモニークが気づかなかったらと思うとゾッとする。
「…たのせいよ…」
クレインが小さく呟く。
と思うと、エマに向かって鬼のような形相で叫んだ。
「あんたのせいで全部、台無しよ! あんたなんか、さっさと死ねばよかったのに!」
「やめろ!」
「あんたさえいなければ、あの人は、あの人は私のものになったのに…!」
クレインは顔を歪めて、泣き喚いた。
あの人、というのはキースのことだろう。
ノエルはぐっと眉根を寄せた。
クレインはエマへの呪詛を吐き出していたが、やがてその清楚な顔に狂気を感じさせる笑みを浮かべた。
「…いいの、大丈夫よ。お祖父様が何とかしてくれる。絶対にあの人を手に入れるわ。どんな手を使ってでも私のものにしてみせる…」
こんな状況になっても、まだそんなことを言うのか。いっそ哀れだ。
「あいつは物じゃない」
ノエルは静かな声で言った。
「人の心は、誰にも思い通りには動かせない」
「うるさい…っ!」
「どんなに好きでも、諦めなきゃならない時があるんだ」
「やめて! 聞きたくない!」
「……辛いのはわかる」
クレインはキッとノエルを睨みつけた。
「何がわかるっていうのよ!?」
「……わかるさ。俺も同じだからな」
ノエルは切なさを滲ませて、クレインを見つめた。
彼女と自分に何の違いがある?
欲しいと願うものが手に入らずに苦しみ、心が悲鳴を上げている。
彼女はそれを力づくで手に入れようとし、自分は諦めて離れようとしているだけだ。
クレインのしたことは、決して許されることではない。罰を受け、相応の対価を一生、払っていくことになるだろう。
それでも、キースに惹かれた彼女の気持ちがわかるから、ノエルはクレインを憎み切れないと思った。
「…どうしてよ。どうして私じゃ駄目なの…。こんなに好きなのに…」
クレインの悲痛な声が突き刺さる。
人を愛する心は、時に人を狂わせる。
一歩間違えば、自分もクレインと同じようになっていたかもしれない。
ノエルはただ、やりきれない思いでクレインを見ていた。
パトカーの音が聞こえてくる。
クレインは到着した警察官に拘束され、連行されていった。
そして、殺人未遂の容疑で逮捕されたのだった。
その日のうちに爆発事故が事故ではなく事件だったことと、犯人が捕まったことが大きく報道された。
クレイン逮捕の一報はすぐにモニークからキースへも伝えられた。
まさかクレインがそんな凶行に及ぶとは思わなかったため、キースもクロードも、他の幹部たちも驚くばかりだ。
自分の送ったメールがきっかけになったと思うと、キースは事を急ぎすぎたかもしれないと悔いる気持ちになった。
そのうえ、クレインを止めたのがノエルだったと聞かされて、自責の念に囚われる。
また、自分のせいでノエルを危険な目に遭わせてしまった。
どうやっても自分にはノエルを幸せにすることはできないと思い知らされた気分だ。
キースは深々と溜息をついて、仕事に戻った。
その夜、モニークから詳細な報告を受け、ファミリーの中でも、この一件は終了ということになった。
クレインは逮捕されたのだ。もう自分たちがやるべきことはない。
気になるのはスカイのことだったが、今はそれどころではないだろうと結論された。
というのも、クレインが犯人だと報道されたことでスカイが矢面に立たされたのだ。
孫娘を溺愛し、甘やかすだけ甘やかしたことが暴露され、それがクレインを我儘で利己的な人間にしたと批判されている。
事件に関わりのあるキースとエマのことも匿名で報道されたが、こちらは同情的な意見が多かった。
それはそうだろう。交際を断っただけで、これだけの事件を起こされたのだ。一番の被害者だと理解を示す人が大多数だ。
最終的に、クレインは一件の殺人未遂と一件の殺人未遂教唆、そして、もう一件の暴行罪で逮捕された。
クレインはあの日、ナース服を盗むため、人気のないトイレで看護師を待ち伏せし、通りかかった女性看護師を護身用のスタンガンで感電させていた。
その女性看護師が動けないでいる間に、チュニックタイプの上着を脱がせて奪い、粘着テープで拘束してトイレの個室に押し込んだ。そうして看護師を装っていたのだ。
意外だったのは、クレイン逮捕の翌日にドークスとコリンズがエマとモニーク、ノエルに謝罪に来たことだ。
実は警察はずっとクレインを監視していたのだ。それなのにエマへの襲撃を防げなかった。
個人的なものとしながらも頭を下げたのは、警察にも苦い思いがあったからだろう。
ちなみにクレインはスカイ邸に出入りしている清掃業者のトラックの荷台に隠れて、家を抜け出していた。
衝動的な犯行だったはずだが、そこには計画的な匂いもする。
どちらにせよ、クレインは素直に聴取に応じているらしい。いずれ彼女自身の口から事件の真相が語られるだろう。
テレビや新聞の報道を見ていたノエルは、何とも言えない疲労感に沈んでいた。
結局、この街にいる以上、ファミリーと無縁ではいられないのかもしれない。
ノエルは自分がそういう運命を負っているのなら尚更、離れるしかないと思った。
キースを忘れることなどできない。
けれど、心の中に留めておくのも辛い。
忘れられないなら、思い出さないようにするしかないのだ。
事件解決から三日後、ノエルは病院へ出すための退職願を用意した。
一方、キースを含めた幹部たちへの報告を終えたモニークは、密かにクロードの元を訪れた。
ノエルが故郷へ帰ると言ったことを伝えるためだ。それを直接、キースに告げていいものかどうか判断できなかった。
「……そうか、ファウラーが」
「私たちが余計なことを言ってしまったせいで…」
「お前たちのせいじゃないだろう。事件が起こった時点で遅かれ早かれ、そう決断することになったかもしれない」
どうやっても、キースとノエルは無関係ではいられないのだ。二人はきっと、そういう星の下に生まれてきた。
「……少し考えさえてくれ。キースに伝えるとしたら、俺から言う」
「……わかりました」
クロードはそう言って、モニークを帰した。
それから三日後のことだ。
キースにスカイからの呼び出しがあったのだ。
クレインの逮捕後、スカイは体調不良を理由に市内の病院へ入院していた。何のことはない、自宅を取り囲むマスコミから逃れるための方便だ。
どんな神経をしているのかと幹部たちは怒ったが、キースはそれを承諾した。
その夜、スカイのいる病院の特別室を訪問した者がいた。
だが、それはキースではなく、クロードだった。
「…キースはどうした」
「急用ができて、来られなくなった」
「キースに来いと言っただろう。お前じゃ意味がない」
スカイが目蓋の垂れ下がった目を吊り上げて怒りを露わにする。
クロードは溜息をついた。
まだ自分の方が優位に立っていると思っているのか。自分の立場を理解していない有り様には呆れるばかりだ。
「…まあいい。そこに座れ」
スカイが窓際に置かれた応接用のソファを指差す。
クロードは言われた通りに、そこへ座った。
その向かいにスカイも腰を下ろす。
「…お前たちのせいで散々だ。もうこの街にはいられなくなるかもしれない。一体どうしてくれるんだ」
「責任転嫁はやめてもらおうか。事件を起こしたのはクレインだ。被害を受けたのはこちらの方だ」
「キースがクレインを受け入れれば、あんな事件を起こすことはなかった! クレインの何が不満だ!? 美しいし教養もある! あんな運転手風情の女より、よほど相応しいだろうが!」
スカイが顔を真っ赤にして怒鳴った。
この後に及んでも、まだそんなことを言う思考回路が理解できない。
権力のある地位に長くいると、色々な感覚が狂っていくのかもしれないとクロードは思った。
「お前がどう思っていようが、クレインは逮捕された。キースが会うことは二度とない」
「冗談じゃない! こんなことになって、もう嫁の貰い手も見つからない! キースには責任を取ってクレインと結婚してもらうぞ!」
「そんなこと、できる訳がない」
孫と祖父揃っての、このキースへの執着は何なのだろう。このまま話していても埒が明かない。
「話がそれだけなら失礼する」
「待て! そう簡単にはいかんぞ!」
スカイは不敵な笑みを浮かべた。
「承知できないなら、したくなるようにすればいい」
「…どういう意味だ?」
「少しでもそこを動けば、お前の命はない」
「…俺を殺すというのか?」
「凄腕のスナイパーを雇ってある。五百メートル先から今もお前の頭を狙ってるぞ」
「なるほど。キースのことをそうやって脅すつもりだったのか」
「誰でも命は惜しいだろう?」
スカイが勝ち誇った顔をした。ここまでくれば、もはや醜悪としか言いようがない。
クロードはすっとソファから立ち上がった。
「貴様…!」
「その凄腕のスナイパーとやらは、もうお前の依頼は果たせない」
「何だと!?」
「今頃はもう、この世にいないだろう」
「!」
「ファミリーがお前の動きに気づかないとでも思ったか? 仲介人を通した時点でお前の負けだ」
クロードが扉に向かって歩き出す。
「待てっ!」
スカイがクロードを追おうと立ち上がった瞬間だった。
ガシャン!と派手な音を立てて窓ガラスが割れた。
そして、スカイの足元の床が陥没し、大きくひび割れた。
「ひいっ!」
クロードはゆっくりと振り返ると、その口元に酷薄な笑みを刷いた。
「そのスナイパーが五百メートル先にいるなら、キースは更にその一キロ先にいる」
「なっ…!?」
「お前はキースを舐めすぎだ」
クロードはそう言い放って、病室を後にした。
途中、大きな物音を聞きつけた看護師とすれ違ったが、クロードは何食わぬ顔で病院から立ち去った。
その頃、キースは病院から千五百メートル離れたビルの屋上にいた。
ビルの縁に設置した全長百四十センチ、総重量が十五キロを上回る対人狙撃用ライフルを持ち上げる。
夜間でも標的を狙える長波長赤外線センサーを搭載した照準器(スコープ)や、固定用の二脚架(バイポッド)を取り外し、それらを楽器ケースに模倣した特注のガンケースに収める。
しっかりと鍵を掛け、その場を離れた。
スカイの動きを察知したキースは病室の位置から敵の狙撃手がいそうな場所を推測し、その後ろのビルから敵を撃ち抜いていた。
今頃は幹部の一人が構成員とともに、敵の死体を回収しているだろう。
そのついでに、スカイの病室へ向けて銃弾を撃ち込んだのだ。
脅しとしての効果はあるだろう。
あとはスカイが市長になった以降に犯した、贈収賄を始めとした数々の犯罪の証拠のコピーを送りつけるだけだ。
それが明らかになれば、スカイの身は破滅する。この証拠を手に入れるために、キースがどれほど苦労したか。
望みもしない男女関係を持って、スカイよりも上の権力者たちと繋がりを作った。その上で彼らの弱みを握り、その権力をキースが行使できるようにしたのだ。
ファミリーの力をより強大なものにして、守りたいものを絶対に守るため。そのために自らを犠牲にしてきた。
これでラグズシティでキースを抑えつける者はいなくなる。目の上の瘤がなくなると思うと少しだけ気分が軽くなった。
翌日の夜、キースはクロードと酒を酌み交わしていた。
警察に目をつけられたのは痛かったが、エマは助かり、邪魔者も排除できた。取り敢えずは一件落着だ。
執務室のソファでようやく落ち着いて寛いでいたキースに、クロードは何気ない口調で切り出した。
「そういえば、モニークから聞いた話なんだが、ファウラーが市立病院を辞めてフォルロアに帰るそうだ」
寝耳に水の言葉に、キースの顔から表情が消えた。
しばらくの間、キースは呆然としていた。
――ノエルがこの街を去る?
あまりに突然の衝撃で、キースの心から感情が抜け落ちる。
だが、やがてキースは苦い笑みを浮かべた。
「……そうか」
いつかこうなるかもしれないというのは、常に頭の片隅にあった。
それが現実になるだけだ。
「会わなくていいのか?」
「今更だろ。手を離したのは俺だ。望んじゃいねぇよ」
自嘲気味に言う。
ノエルは美しく、聡明だ。
いつまでも自分などに囚われていてはいけない。陽の当たる場所で幸せにならなければ。
「お前はそれでいいのか?」
クロードの問い掛けに、キースの瞳には哀切の色が溢れた。
「……いいも何も、俺には最初からあいつの隣に並ぶ資格なんてなかった。これは当然の結末だ」
自分が歩んできた道に、もう後悔はない。
なるべくしてなったのだと受け入れている。
それが、ノエルとは相容れなかったのだ。
「まだファウラーが好きなんだろう?」
「……そうだとしても、それは墓場まで持ってくさ」
ノエルへの想いは心の奥深くに閉じ込めて、一生抱えて生きていく。それが、彼を傷つけたことへの、せめてもの罪滅ぼしだ。
キースは、話はもうお終いだと言うようにウイスキーのグラスを呷った。
クロードはそれを痛ましげに見つめていた。
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