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第29話

 事件解決から五日後。  ノエルはモニークからの連絡を受けた。  携帯に着信があったので、昼休みに折り返し電話すると、エマのことで折り入って相談したいことがあるという話だった。 「え、今日か?」 『はい、無理ですか?』 「いや、日勤だから、そのあとでいいなら」 『ありがとうございます! じゃあ、これから送る場所に来てもらえますか?』 「それはいいけど、大体どの辺だ?」 『キングスストリートです。ファミリー御用達の店があって、込み入った話もしやすいので』  キングスストリートと聞いて、ノエルの心臓が跳ねた。まさかな、と思いながら頷く。 「…わかった。九時半は過ぎると思うが大丈夫か?」 『はい、待ってます』 「じゃあ、またあとで」 『はい』  その後、モニークから送られてきたメールを見てノエルは驚いた。  まさかのまさかだ。  指定されたのは、ノエルがキースと再会したバー『ディヴェル』だった。  ノエルの中に絶望の思い出が蘇る。  できることなら近づきたくなかった場所。  ファミリー御用達と聞いた時点できちんと確認すべきだった。  だが、モニークに悪気がある訳ではないだろう。キースと自分がここで会っていたことなど知らないはずだ。  もう了承してしまったのだから仕方ない。込み入った話だと言っていたし、場所を変えるのはきっと無理だ。  ノエルは日勤を終えたあと、やむなくキングスストリートに向かった。  懐かしい道を、不承不承といった体で歩いていく。  そのビルは以前と変わらぬ様で建っていた。  入口がある二階への階段を上がり、相変わらず故障ですぐにでも止まってしまいそうなエレベーターで地下一階へ下りる。  薄暗い通路を静かに歩き、古びた扉を開けた。  そこは二年前から時間が止まっているようだった。  明るくカジュアルな色調。  レトロなポスター。  本棚に並ぶカラフルな背表紙。  なのに、流れるのはどこか物哀しいR&B。  何もかもが、あの日のままのようだった。  だが、中には誰もいない。  モニークどころか、バーのマスターまで不在だ。  マスターはたまたま席を外しているのかもしれない。  ノエルは取り敢えずモニークを待とうとカウンターに座った。  が、十分経っても誰も現れない。  モニークは待っていると言ったのに。  どうなっているのかと首を傾げてから、ノエルは妙な予感に襲われた。  ――このまま、ここにいない方がいい。  店を出ようと立ち上がった瞬間だった。  そのドアが開いた。            その日の朝、出社の準備をしているキースにクロードが声をかけた。 「キース、今日の夜、飲みに行かないか」 「…今日か?」 「ああ、明日から出張だろう。しばらく居ないんだし、話しておきたいことがある」  どこか意味ありげなクロードの言葉が引っかかる。 「話なら、ここでいいだろ」 「ヴィクトリアのことだ」 「……そうか」  そう言われては断われない。  実はキースは身元不明で埋葬されたヴィクトリアの遺骨を、今からでも引き取れないかと考えていた。  今の自分になら可能かもしれないと思ったからだ。  そして、ヴィクトリアの話をする時はディヴェルでというのが、二人の間の暗黙の了解になっている。  更に言うと、マテオが居なくなった現在、ファミリーの顧問を務めているのはクロードだった。  もともとは顧問になる気などなく、単に法律の知識があれば役に立つだろうと思って法学部へ進んだ。それが奏功したという訳だ。  クロードには手続きの件で色々と調べてもらっている。何か進展があったのだろう。  キースは特に深く考えず了解して、会社に向かった。  クロードはキースが出社したのを見届けたあと、モニークに電話をかけた。 『何かありましたか?』 「ああ、実は頼みたいことがあってな」 『何でしょう』 「ファウラーを《ディヴェル》に呼び出してほしい」 『ドクターを、ですか?』 「ああ。理由は何でもいい。今日の夜に来てもらいたい」 『今日の夜…。急ですね』 「無茶はわかっている。だが、今日しかチャンスがないんだ」  クロードのどこか切迫した声にモニークは頷いた。 『わかりました。エマのことで相談があると言ってみます』 「すまないな。宜しく頼む」 『はい』  こんなことをしたら、キースは余計なことだと怒るだろう。  けれど、昨夜のキースを見て、何もせずにはいられなかった。  モニークの話では、ノエルも未だにキースを忘れられないでいる。  互いを想い合う二人が、こんな風に離れ離れになるのは余りに酷だ。  クロードは二年前のことを思い出した。  あの時、クロードがキースに代わってノエルに会いに行ったのは、何もキースのためだけではない。ノエル・ファウラーという男がどういう人間か確かめたかったからだ。  もう会わない、というキースの決断にどんな反応をするのか見てみたかった。  あの時、もしノエルが何も考えずに「別れたくない」と言ったら、クロードはどんな手を使ってもノエルをキースから引き離すつもりだった。  キースは巨大なファミリーを率いていく男だ。そのパートナーが自分本位な人間では困る。  だが、ノエルはほとんど一言も発さなかった。  ただ、じっと耐えて、苦しみながらキースの決断を受け入れた。  自分の気持ちより、キースの気持ちを優先したのだ。  そんなノエルを見て、クロードも胸が詰まった。  だが、同時にこうも思った。  この二人には目には見えない繋がりがある。  それは時に、運命とか天命とか呼ばれるものだ。  その繋がりがある限り、二人はいつか必ずまた出会うだろうと。  それが今だ。  もう一度、二人が出会った時、どんな選択をするかはわからない。  ただ、後悔だけはしてほしくない。  クロードは昼過ぎに、モニークから呼び出しに成功したという連絡をもらった。  クロードはただ祈るような気持ちだった。            出張前の準備や打ち合わせなどで会社を出るのが遅くなったキースは、九時半をだいぶ過ぎてからディヴェルに着いた。  クロードは先に来ているだろう。  古すぎるエレベーターはいつ閉じ込められるかわからないし、扉が開いたところを襲われても困る。子供の頃から身についた習性で、いつも通り階段を使う。  ドアを開けた瞬間、キースはその場に立ち尽くした。 「……ノエル」  やられた、とキースは瞬時に悟った。  これはきっとクロードが仕組んだことだ。  ノエルも驚愕し、立ち竦んでいる。  二人とも、声を出すことができなかった。  ただ息を殺して、互いの顔を見つめる。  久しぶりに見たノエルは変わらず、月下で咲く一輪の花のように凛として美しかった。  ノエルもまた、前にも増して凛々しく精悍なキースの姿に目を奪われる。  こんなにも会いたかったのか、と会ってから気づくなんて滑稽だと思いながらも、キースはノエルから目が離せなかった。  だが、ノエルはしばらくすると俯いて、その場から動いた。  足早にキースの横を通り過ぎようとする。  キースは、それはそうだな、と思った。  ノエルもきっと何も知らずにここへ来たのだろう。こんな風にまた会うとは思わずに。  ノエルにとっては、このまま見送る方がいいに決まっている。自分などとは関わらない方がいい。  ノエルにはもっと相応しい相手がいるはずだ。  キースはぎゅっと目を瞑った。  この街がノエルを縛りつけるなら、全てなかったことにして、ノエルを自由にするべきだ。  わかっている。  わかっているのに。  キースはその瞬間、ノエルの腕を掴んでいた。 「…!」 「待ってくれ…!」  それを振り解こうとするノエルの手を押さえて、キースはノエルの顔を覗き込んだ。 「ノエル…」  ノエルは泣いていた。  琥珀の瞳から、水晶のように透明な涙がぽろぽろと零れ落ちる。  キースは堪らず、ノエルをその腕で掻き抱いた。  ノエルがキースの腕の中で、小さく震えて嗚咽を洩らす。  ああ、どうして離れられるなんて思ったのだろう。  ――こんなにも愛おしいのに。  抱きしめる腕に力を込めると、ノエルの腕もおずおずとキースの背中に回された。  そのまま、ただ無言で互いの温もりを感じ合う。 「……会いたかった」  ノエルが涙声で呟いた。 「……会いたかったんだ」 「……ああ」 「……忘れられなくて」  ノエルがやっと顔を上げた。  まだ涙の滲む瞳には、二年前と少しも変わらぬ恋情が溢れていた。 「好きだ」  その一言が、天啓のように響いた。  崇高で、厳かで、純真な。  この世界でたった一つだけの確かなもの。  キースの胸の奥から、喩えようがないほど熱く、それでいて切なく甘美な感情が湧き上がった。  どうしようもなく、ただただ愛しい。     「――愛してる」      キースはずっと心の奥に秘めていた想いを告げた。  ノエルの顔がくしゃりと歪み、その瞳からまた涙が溢れる。 「お前だけを、誰よりも愛してる」  キースは涙の止まらない眦に唇を落とし、それからノエルに口づけた。  ノエルも必死にキースを求める。  二年間の空白を埋めるように、隙間なく抱き合って、二人はキスを繰り返した。           「なあ」  ノエルが何か言いたげにキースを見上げる。  だが、キースは気まずげな顔で溜息をついた。 「……悪ぃ、今日は無理だ」 「何で?」 「明日から海外出張なんだ。朝イチの飛行機に乗らなきゃならねぇから」 「海外? いつ帰ってくるんだ?」  キースは片手で顔を覆って、更に大きな溜息を吐き出した。 「……一ヶ月後」 「一ヶ月!?」  驚きで、ノエルの目から涙が引っ込んだ。 「何でそんなに!?」 「実は海外に会社の支店を出す話が進んでるんだ。前に話したろ、モルフィルグループの御曹司と同級生だって。そいつが視察のついでにあちこち案内してくれることになってな」 「…………」 「一箇所につき五日、それを六箇所」 「三十日…」 「行き帰りも合わせると一ヶ月以上かかる」  ノエルの顔がありありと曇る。 「ホント悪い。半年前にはもう決まってたことだから、今から変えられねぇんだ」 「…一ヶ月とか、あり得ないだろ…」  心底、落ち込んだ風のノエルを見ると、キースも申し訳なさで一杯になる。  こうなるとわかっていたら、そんな長期出張は組まなかった。何度か分けてなんて面倒だから、一気に回ってしまおうと思ったのが失敗だったか。  だが、『もしも』を論じても仕方ない。決まっていることはどうしようもないのだ。 「……ホントに悪い。聞き分けてくれ」  ノエルがむくれたように口を尖らせる。  だが、小さく溜息をついたあと、渋々と頷いた。 「わかった。仕事なら仕方ない」 「帰ってきたら、絶対埋め合わせるから」 「ん、絶対だぞ」 「ああ、約束する」  キースがそう言うと、ノエルはようやく少しだけ笑った。キースがほっと胸を撫で下ろす。 「なら、今日も長居はできないな」 「そうだな」 「だったら家まで送ってくれ。それで、少しでいいから寄ってってくれないか?」 「ああ、いいぜ」 「じゃあ行こう」  ノエルがキースの手を取る。  キースは大きな掌で、その手を包み込んだ。  手を繋いだまま駐車場まで歩き、車に乗る。  エマが入院中のため、運転手は別の男性だ。  キースが住所を告げると、車は勢いよく走り出した。  フラットに着いて車を降りると、ほとんどの部屋に灯りがついていた。  入居者は大体が三十代以上で、きちんと仕事をしているらしい、感じのいい男女ばかりだ。キースがそういうところにまで気を使ってくれたんだろうと今ならわかる。  ノエルはキースが選んでくれた城に、キースを案内した。 「どうだ? いい感じだろ?」 「だな。さすが俺だ、見る目がある」 「ははっ、自分で言うか?」 「事実だろ」  軽口を叩いて笑い合う。 「いいバイクだな」 「ああ、結構奮発した」 「キッチンも使ってるのか」 「料理はかなり上達したぞ」 「前は自炊なんてしてなかったろ」 「何で知ってんだよ」 「お前のことは調べたって言った」  ノエルはくすりと笑って、キースに抱きついた。 「……ありがとな」 「何で礼なんか言う?」 「んー、確かにもう会わないって言われた時は辛くて堪んなかった。でも、ここへ来て、お前の気持ちを確かに感じたんだ」  ノエルはキースを見上げて微笑んだ。 「俺はここが好きだよ」 「……そうか、なら良かった」  見つめ合うと、自然と顔が近づく。  口づけ合ううちに、徐々にそれが深くなっていった。舌を絡めると官能の吐息が零れる。  ノエルは名残り惜しさを感じながらも、自分から体を離した。 「…これ以上は駄目だ。引き留めたくなる」 「そうだな。俺も自制が利きそうにねぇ」  互いに顔を見合わせて、ふっと笑みを浮かべた。 「気をつけて行ってこいよ」 「ああ」 「帰ってくるの、待ってるから」  ノエルがそう言うと、キースが微妙な表情を見せた。 「電話しろとか言わねぇのか」 「ん、だって声聴いたら会いたくなるだろ。余計、寂しくなりそうだ」 「…そうか」 「大丈夫だ。二年も待ったんだ。あと一ヶ月くらい何とでもなる」  ノエルの言葉にキースは胸を突かれた。  この二年間、どれほど辛く悲しく、寂しい思いをさせてしまったのか。  悔やんでも悔やみ切れないし、償おうとも償い切れない罪を犯した。  キースの苦悩を感じて、ノエルはよしよしと頭を撫でた。 「そんな顔すんなよ。お前が悪い訳じゃない。ただタイミングが悪かっただけだ」 「…お前は優しいな」 「誰かさん限定だ」  冗談めかして笑って、ノエルはキースを抱きしめた。  キースも強く抱きしめ返す。  もう一度だけキスを交わして、ノエルはキースを見送った。  走り去る車のテールランプを見ながら、ノエルは一つの決意を固めていた。      

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