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第30話
季節は巡り、ラグズシティは初夏を迎えた。
街のあちこちでまたジャカランダの花が咲き誇り、公園や街路が落ちた薄紫色の花びらで覆われている。さながら花の絨毯だ。
そして、今日はキースが出張から帰ってくる日。
ノエルは長年勤めた市立病院で、最後の勤務を終えた。
夜勤明けのノエルをたくさんのスタッフたちが取り囲む。中には今日が休日の者もいた。
「ドクター、お疲れ様でした!」
「もう一緒に働けないなんで嫌ですよ〜」
「今までお世話になりました…!」
皆が口々に感謝と労いの言葉をかける。
全員を代表して、ベラドンナがノエルに大きな花束を渡した。
「明日から貴方がいないなんて考えられない。本当に寂しいわ」
「……ありがとう。今まで世話になったな」
「それはこっちの台詞よ。貴方と仕事ができて本当に良かった。たくさん教えられたし、助けられたわ」
「俺は自分にできることをしただけだ」
「ふふっ、最後まで貴方らしいわね」
二人はしっかりと握手を交わした。
「フォルロアに戻っても元気でね」
「ああ。ベラも皆も元気で」
ノエルは一人一人と握手やハグをすると、医局へ寄って最後まで残っていた荷物を持って、病院を後にした。
今日はクロスバイクではなく電車で帰る。
花束を持っているので目立ってしまったが仕方ない。
フラットに帰ると、不動産会社の社員が待っていた。
ノエルはその男性と部屋へ入る。
中には家具の類いは一つもなかった。入居前と同じ、がらんとした状態だ。
あるのは藍色の大きなスーツケースだけ。
男性社員があちこちチェックして問題ないと確認できると、ノエルは彼に部屋の鍵を返した。
スーツケースと花束を持って、ノエルはフラットの外へ出た。
振り返って、改めてその外観を目に焼きつける。
「…今まで、ありがとな」
小さく呟いて、ノエルは駅へ向かって歩き出した。
午後四時過ぎ、キースの乗った飛行機がラグズシティ郊外の空港に到着した。
荷物は直接、自宅に届くようにしてあるので、キースは身一つで迎えの車に乗って、スタインホテルへ向かった。
そこでノエルが待っているのだ。
二年前、返してもらわずにいたカードキーをノエルは大切に持ち続けていた。
キースは到着の連絡をしようと、ノエルへ電話をかけた。
だが、一向に繋がらない。
『この番号は現在、使われていません』というアナウンスが流れるばかりだ。
キースはおかしいなと首を傾げる。
まさか、という気持ちが脳裏を過ぎり、それを打ち消すということを何度も繰り返している間に、車はホテルに着いた。
二年前もいたドアマンに確認すると、ノエルは既に来ていた。
ほっとして部屋へ向かう。
鍵を開けて中に入ると、ノエルが笑顔で出迎えてくれた。
「おかえり」
「ただいま」
抱きしめ合って、キスを交わす。
キースはジャケットを脱いでクローゼットに掛けようとして、そこに見慣れないもの見つけた。
藍色の大きなスーツケースだ。
これはノエルの物か?
どこか旅行にでも行くつもりか。
携帯も繋がらなかった。
――嫌な予感がする。
キースは先にリビングへ行ったノエルを追いかけた。
「ノエル、あのスーツケースは何だ?」
「ああ、しばらくここに泊まろうと思って」
「ここに?」
「そう」
何でもないように頷く。
「…電話しても繋がらかったのは何でだ?」
「携帯は解約した」
「…解約?」
「ついでに言うと、部屋も引き払った」
キースにはノエルが何を言っているのか理解できなかった。
携帯も部屋も解約して、しばらくここに泊まる? どういうことだ?
そこで、キースはハッとした。
「お前、病院はどうした?」
キースの質問に、ノエルは少しだけ寂しげに笑った。
「……今日で辞めた」
キースは驚きで二の句が継げなかった。
病院を辞めた?
ノエルにとってあれだけ大切だった仕事を?
こんな自分に「生きてて良かった」と言ってくれたノエルが、一体どうして――。
愕然としているキースに歩み寄って、ノエルはその赤い双眸を真正面からじっと見つめた。
「キース、頼みがある」
「……」
「俺を、お前の側に置いてくれ」
キースはその瞬間、全てを理解した。
――ノエルは捨てたのだ。
仕事も家も人間関係も、これまで築いてきたもの全てを、ただキースと一緒にいるためだけに捨て去ったのだ。
キースは衝撃のあまり、その場にがくりと膝をついた。
「……何でそんなこと」
苦渋に満ちた声に、ノエルも顔を歪める。
キースがショックを受けることはわかっていた。この決断を喜ぶような男ではない。
家族にも『もうフォルロアには帰らない』という葉書を送ったが、だから、そのことはまだ言わない。
けれど、この先の人生をキースと共に生きたいと願った時、ノエルはこの選択しかないと思った。
以前、エマに言われた『ファミリーの一員でないあなたを守ることには限界がある』という言葉がずっと忘れられなかった。
キースなら、今の自分のままでいいと言ってくれるだろう。
だが、それではキースにばかり負担をかけてしまう。それでは駄目だ。
足手まといになりたい訳じゃない。
守られてばかりなんて嫌だ。
キースも自分自身も何も不安を感じることなく生きていくには、これしかないと思った。
「……医者は、医者も辞めるっていうのか?」
「ああ」
「何でだ!?」
キースは強い口調でノエルに詰め寄った。
「何でそんな馬鹿なこと…!」
「……それは別に今、思い立ったことじゃないんだ」
ノエルは二年前の苦しい出来事を思い出した。
「ずっと前から考えてた。あの時、あの男を見殺しにした時から、ずっと」
「…パオリーニのことか」
「そんな名前だったのか」
「お前は何もしてないだろうが。あいつを殺したのは俺だ」
「でも、俺は止めなかった」
「あの状況じゃ仕方なかった! お前には何の責任もねぇ!」
「違う。俺も同罪だ」
「お前は何も悪くねぇ!」
ノエルは必死に言い募るキースの肩にそっと手を置いた。
「お前がそう言ってくれても、俺が俺自身を許せない。俺はあの時、医者である資格を失ったんだ。ERで働き続けてきたのは、ただの惰性だ。他にできることがなかっただけなんだ」
キースは両手で顔を覆った。
何てことだ。医師が天職であるはずのノエルから、それを奪ってしまったなんて。
自分の浅はかさが呪わしい。
戻れるものなら、あの時に戻りたいとキースは思った。
戻って、全てをやり直したい。
ノエルがこんな決断をしないように。
「…考え直してくれ。今ならまだ間に合う。頼むから…」
キースの縋るような声が、ノエルの心を引き絞る。
だが、ノエルはそれを拒否した。
「無理だ。もう決めたんだ」
医師としての自分に誇りを持っていた。
だからこそ、自らそれを捨てた自分のままであの場に立つことはもうできないと思った。
どんなに知識や技術があろうとも、贖罪のためだけでは医師という仕事は続けられない。少なくとも自分自身がそう思っている限り、この決断は揺らがない。
ノエルは屈んで、キースと目線を合わせた。
「お前のせいじゃない。悪いのは俺なんだ」
「……違う」
「違わない」
このままでは押し問答になってしまう。
どうしたらキースは納得してくれるだろう。
「なあ、医者じゃない俺じゃ駄目か?」
「……そういう問題じゃねぇ」
「じゃあ、どういう問題だよ。俺が嫌嫌、医者を続ければそれで満足か?」
「そうは言ってねぇ!」
「なら、俺はどうすればいい? 俺は俺の進む道を自分で決めただけだ。それの何が悪い?」
こんな言い方は卑怯だ。
わかっていても、キースの心に枷を填めるようなことにはしたくない。
「……何でだ。お前はずっと陽の当たる道を歩いてきたのに、どうして自分からそれを捨てる?」
ああ、やっぱりそうか。
ノエルは切ない気持ちで一杯になった。
キースはノエルを裏の世界に引き込むことが嫌なのだ。
二年前もそうだった。
ノエルを危険から遠ざけるため、そして、表の世界に留めるため、その手を離した。
マフィアのボスという地位にいるくせに、どうしようもなく優しい男だ。
けれど、そんなキースだから好きになった。
「お前の側にいたいんだ」
理由なんて至極、単純。
「俺が手の中に持ってたもの全部を合わせたものよりも、お前一人が大切なんだ」
他の全てと引き換えにしてでも、キースが欲しい。
「お前の側にいられるなら、他には何もいらない」
仕事も家族も友人も、キース一人に敵わない。
「……お前は馬鹿だ。大馬鹿野郎だ」
顔を上げたキースの赤い瞳には悲愴な色が浮かんでいた。
「俺は死んだら地獄に行くような男だぞ」
何だ、そんなことか。
ノエルはふわっと笑って見せた。
「だったら俺は、地獄の果てまでついて行く」
堕ちるというなら、どこまでも一緒に堕ちてゆく。二年前から、そう決めていた。
「天国になんか興味ねーよ。そこにお前がいなきゃな」
キースは再び手で顔を覆った。
ノエルの覚悟がキースを揺さぶる。
こんな風にさせたかった訳じゃない。
ノエルを自分のいる世界に引きずり込むつもりなんてなかった。
だが、その考えが生温いものでしかないこともよくわかっている。わかっていたはずだ。
マフィアのボスなど、いつ命を狙われてもおかしくない。常に死の危険がついて回るのが宿命だ。
二年前に別れを決意したのも、そのせいだ。
一緒にいれば、きっとノエルを危険に晒す。
簡単に『守る』などとは言い切れない世界なのだ。
だが、ノエルはもう覚悟を決めている。
それはきっと何を言っても、もう覆すことができないのだろう。
――自分はどうだ?
キースは己に問い掛けた。
一ヶ月前、ノエルに想いを告げたあと、何を考えていた?
守るべきものを守るため、この二年間を過ごしてきた。
だから、甘く考えてはいなかったか。
このままでもいいと。
けれど、この世に絶対などない。
何もかも思い通りになるほど世界は簡単じゃない。そう知っていたのに。
ノエルの覚悟で気づかされるとは、本当に自分自身が情けないとキースは思った。
ノエルがここまで決意しているのだ。
自分がそれを受け止めなくてどうする。
覚悟を決めなければいけない。
ノエルを想う気持ちを、口先だけのものにはしたくない。
キースはふーっと一つ息を吐いた。
「ノエル、立ってくれ」
キースが静かな声で言う。
そこにはもう、一切の迷いや苦悩はなかった。
それを感じ取ったノエルが立ち上がると、キースが片膝を立てて、ノエルの前に跪く。
恭しくノエルの左手を取った。
キースの赤い双眸が真っ直ぐにノエルを見上げる。
「ノエル、俺のパートナーになってくれ」
「…!」
ノエルは大きく目を瞠ると、その瞳がみるみる潤んでいった。
「この先、何があってもお前だけを愛し、守ると誓う」
キースはノエルの左手の薬指に唇を落とした。
「俺と結婚してほしい」
ノエルはキースの首に腕を回し、しがみつくように抱きついた。
「…YESだ…!」
キースがノエルを抱きとめる。
二人はきつくきつく抱き合った。
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