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第9話 ただの客

 あれからタイガが『desvío』に行くと、カツラは途中からタイガの前に来るようになった。時間が来るとまた奥へ去ってしまうのだが。その度にカツラは店オススメの酒をタイガに提供した。  カツラのこの行動に最初こそ戸惑いと淡い期待を抱いていたタイガだったが、今ではこれは店のやり方なのかもしれないと思い始めていた。カツラは愛想が良い。その上こんな美形に話しかけられた客は男であろうが、女であろうが頬を赤らめる。彼は会話のテンポもよく、その客一人ずつの話のツボをおさえている。  店にとって絶えず来てくれる常連はありがたい存在だ。そんな常連がまた新しい客を連れてくる。その繰り返しで店は繁盛するのだから、タイガのように自分は特別扱いをされているのではと、ただの客を勘違いさせることができれば儲けものだろう。その証拠にタイガが足繁く店に通った甲斐あり、カツラと話す機会は増えていた。しかし、二人の関係が店員と客からかわるようなことはなかった。タイガが『desvío』に通い始めてから季節が変わろうとしているのに…。  タイガは自分の隣に腰掛けた男と世間話をしているカツラを上目に、自虐的な思いに耽っていた。すると突然カツラがタイガに話を振った。 「タイガは最近楽しみにしていることないのか?」 「えっ?えーっと…。」  二人の話に全く意識を向けていなかったタイガは急に話を振られ、言葉に詰まった。隣の男もタイガと同じようにカツラに気があるとは感じていた。先ほどからずっとカツラに一方的に話し続け、彼のことを独り占めしているからだ。そのため、タイガを会話に入らせまいと自分の話を始めた。 「おれはね、最近キャンプをはじめてさ。結構いいもんだよ。カツラはキャンプとか行かないの?」 タイガは隣の客が馴れ馴れしくカツラと呼ぶことにいい気がしなかった。カツラはそんなタイガの気持ちをよそに軽く答える。彼は客に対してはあくまで平等だ。 「キャンプかぁ。数回行ったなぁ。外で食うと旨いんだよなぁ。」 「んじゃさっ。今度一緒に行ってみない?カツラ、料理の腕いいし。一緒だと助かるからさ。」  タイガはカツラに対してなにも行動を起こせていない。二人ででかけようと誘うことすらできていない。しかし隣の男はいとも簡単にカツラを誘った。カツラはまだ自分のものにはなっていないが、タイガの中には彼を好きだと思う気持ちがつよくあり、男の言葉に怒りがあわや沸点に達しようとした。 「今は無理かなぁ。新しいメニュー考えなきゃいけなくて。もうそろそろ季節がかわるから。」 笑顔を浮かべながら、本当に残念という思いを上手に客に伝えるカツラ。断られた客は全く気を悪くしていないようだ。しかもこの客、酒が入っているせいかなかなか推しが強くこれだけでは諦めなかった。 「閉店後ってどうしてる?店員みんなで飲みに行ったりしてる?予定ないなら閉店後、一緒に飲み直さない?いい店知ってるんだ。」 「はは…。それは残念ながらお店で禁止されてるんだよな。大事なお客様相手だから。それにうちの店は0時まで営業だから、その後どこかに行く元気なんてみんなないよ。自宅に直行。」 「えーっ。そっかぁ。なかなか厳しいなぁ。」 「お店でこうして楽しく話せるわけだし。ほらっ。これ食べてみて。ちょっと作ってみたんだ。新しいメニューの一つにどうかと思って。」  差し出された料理は季節感のある、目をひくものだった。カウンターごしのタイガからはあまりよくは見えなかったが、カツラは先程ほどからこれを作りながら客の相手をしていたのだ。 「ほんとに器用だね。なんか食べるのもったいないような気がするけど。じゃ、いただきます!」 男は興奮気味に言った。特別扱いされていると思っているのかもしれない。  器に盛りつけられた料理は美しく、食べるのが惜しい感じがした。しかし、隣の男に自分だけが特別と思い込まれるのも癪だし、タイガもカツラの料理を食べたいと思った。行儀よく手を合わせいただきますと言い料理を口に運ぶ。一口、口に入れると素材の味が口の中に広がった。以前、店のメニューの一部を手がけているとカツラが話していたが、ここまでの実力だったとは。 「美味しい!!いいと思うよ、これ!」 男が我先にと感想を述べる。 「うん、旨い。」 タイガも素直に感想を伝える。 「よかった。」  カツラが柔らかく微笑む。一瞬タイガとカツラの目があった。タイガの鼓動が早くなり、なにか思いかけた次の瞬間、カツラはウィローに呼ばれ場所を交代してしまった。  ウィローがタイガたちの前で従事している間も、隣の客はウィローに話しかけ続けていた。彼を誘うことはなかったが。 カツラがいないのならせめて静かに飲みたかった。今夜はついていないと思い、タイガはとなりの客が先に帰るのを待って帰り支度を始めた。 「会計頼む。」 タイガはウィローに清算を依頼した。  タイガはいつもカード払いだ。カードと控えが渡されるまで、タイガはカバンの中から携帯を取り出し、返信の必要なメールがないか確認する。 「毎度ありがとうございます。カードと控えのレシート。」  声に驚き顔をあげると目の前には再びカツラがいた。彼が会計処理をしてくれたのは今夜が初めてだった。カツラから手渡されたレシートは折りたたまれていた。うっすらとなにか文字が書いてあるようだ。 「時間があったら。」 カツラがそっとタイガに囁いた。いつも通りの優しい笑みに見送られながら、タイガは店を出た。気になっていたレシートに目をおとす。 今夜このお店で。『アイビー』

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