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第29話 一目惚れ

 カツラの日常は充実していた。『desvío』での仕事は自分に合っていた。最初こそ酒の名前を覚えるのに苦労した。酒好きの知ったかをする客にも嫌な思いをさせられた。しかし努力の甲斐あって酒の引き出しが増えたせいか、今では酒のことならすぐ頭に入るようになっていた。無理難題の注文も余裕でこなせるようになっていた。  店長の人柄もあり、働く仲間も不思議といいやつばかりが集まった。 カツラの外見に惹かれて働き始める者もいたが、カツラは店の者とは関係を持たないように決めていた。 トラブルになって働きにくくなるのが嫌だったからだ。カツラ目当てで働き出した者は肝心の相手には無視されるし、元々厳しい仕事なので長続きせずに辞めていった。  客に対してもそうだ。男女問わず口説いてくる者はいたが、機嫌を損ねぬよう上手く断っていた。今では常連はカツラはなびかないとよく理解してくれた人たちだった。  こうなると出会いがなかった。 『desvío』で働き出した当初はまだ若く性欲もあったので、休みの日には出会いを求めて大学時代の友人のツテを利用し、街に繰り出していた。相手を見つけることにカツラは苦労しなかった。しかし、例のごとくそんな関係は長続きはしない。  いつしかカツラは出会いを求めることは辞め、『desvío』の仕事に没頭していった。体だけの繋がりで満たされない関係を繰り返すことに疲れ、虚しいと思い始めていた。 こうして出合いから距離を置くにつれて、自分はこのまま誰も求めず一人で生涯を終えるのではと漠然と思うようになっていた。  ある日、いつも通り奥で酒や料理を用意しながら接客をしていると、一組の客が雨が降り出したと言って店に入ってきた。 雨宿りに駆け込み客が来るかと入り口に注意を向けると、やはり客が入ってきた。  背の高い男だ。カツラは男の姿を確認する。その瞬間、カツラの全身にビリビリと電気のような衝撃が走った。男から目が離せない。でかい図体とは裏腹に捨てられた子犬のような雰囲気をかもしだしている男の瞳から、今にも涙が溢れてきそうだった。カツラは男に寄り添い、話を聞いてあげたいと思った。こんな思いは初めてだった。  カツラが男がいる入り口側に行こうとすると、タイミング悪く客に注文を頼まれた。この場を離れて男のところにはとても行ける状態ではなかった。 カツラは今日入ったオススメの酒があったことを思い出し、急いでグラスを手にとった。綺麗な朱色の液体がグラスを満たしていく。酒を注ぎながらウィローに言う。 「ウィロー。」 「どうしました?」 「これ、あの客に。店のオススメだと言って出してきて。奢りだって。」 「え?」  突然のカツラの依頼にウィローは目を丸くしている。彼の反応は当然だ。なぜなら、カツラが客にこんなことをしたことは今までないのだから。 「いいから!」 「はい。」 カツラの有無を言わせぬ言いようにウィローは素直に従った。ウィローが男に酒を置く。 「こんばんは。どうぞ!」 目の前に置かれた酒に男は驚いているようだ。 「まだ、頼んでないけど…?」 「お店のおごりです。このお酒、今日届いたもので。すごくオススメなんで、よかったらどうぞ!」 男は束の間戸惑っていたが、やがてそろそろと酒に口をつけた。 「うん、美味しい。」 カツラは注文されたものを手際よく作りながら、男の反応を観察した。酒を飲んで、いくらか表情が和らいだようだ。瞳が人なつっこく煌めいて見えた。 立派なスーツで誤魔化しているが、男はまだ若いのではないだろうか。カツラは彼のことがかわいいと思った。その後、チラチラと男の様子を伺いながら仕事に従事した。  一時、担当しているカウンターが注文でバタついた。その一瞬目を離した隙に、男は店から姿を消していた。

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