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第34話 淡い夢
「鍵、返してほしいんだ。」
開店前の仕込み時間、慌ただしい中こっそり店をぬけだしツバキに電話で伝える。
「それはいいけど。大丈夫なの?失くしたらまた締め出しくらうわよ。」
「俺、恋人ができたから。」
「そうなの!?女?男?」
ツバキが意外だというふうに聞いてくる。無理もない。彼女と出会ってから数年間は特定の人とは付き合あわず、仕事一筋だったのだから。
「男。とにかく早めに返して。」
タイガに誤解を招くようなことは避けたかった。
「ふぅん。ところで相談があるのよ。時間作れない?」
今はタイガと会う時間さえ作るのが難しい状況だ。とてもツバキに会う時間など作れるはずがなかった。
「今の時期は忙しくて無理。鍵、郵送してくれてもいいから。」
カツラは必要なことだけ告げて電話を切った。
ツバキはカツラにとってただ一人の異性の友人だ。彼女は自分を異性としては見ない。カツラに興味がないからお互いなんでも言い合える。恋人ではないが、一緒にいて楽しいと思うこともあったしなにより楽だった。求め合うことがないから、いつも話も必要最低限。ここ最近は会う機会も減っていた。
それから数日後、カツラは出来上がったスペアキーを誰にも見られないように、店でタイガに渡した。
この間のように勇み足で失敗しないよう、彼の都合が良いときに来てくれたらいいと伝えた。
しかしタイガからの返答は思いがけないものだった。
「今日行くよ。家で待ってる。」
聞き間違いではないかとタイガの顔を見る。彼の眼差しはいつも通り誠実だ。いよいよ今夜タイガと二人きりになれる。
「わかった。」
つい嬉しくて笑顔がこぼれてしまった。タイガが店を後にした。心臓の鼓動が速まり、ドキドキが止まらない。終業時間が待ち遠しくてなんども時計を確認してしまう。
ようやく自宅前に着いた。玄関のドアを開ける前に深呼吸をする。手が震えていた。
タイガがいる。今から朝まで二人だけの時間だ。ドアを開け、タイガの名を呼ぶ。
「タイガ?いる?」
足音がした。
カツラは愕然とする。目の前にはツバキがいた。カツラの視界に気まづそうなタイガが映った。
最悪だ!
どうしてあの時電話でツバキの要件を聞かなかったのか。こうなることを予想できなかった自分に腹が立った。
カツラはツバキに今すぐに帰るよう言った。まずはタイガと二人になって誤解を解かなければ。
しかしツバキは時間が遅いので交通手段もなく帰れないという。タイガは優しく誠実な男だ。自分は構わないからと彼女の在宅を承諾した。
カツラの今の最優先事項はタイガだ。彼を隣りの部屋に呼び、弁解をした。混乱する頭を落ち着かせる。失敗しないようにしなければ。こんなことでタイガを失いたくない。焦ってつい早口になってしまう。でも優しいタイガはわかってくれた。
今夜はタイガと甘い夜を過ごせると思っていたのに。邪魔をしたツバキについきつい態度をとってしまう。
せっかく一緒に夜を過ごすのだ。本当はタイガをベッドに誘いたかったが、ツバキがすぐ隣りの部屋にいる。きっと真面目な彼は嫌がるだろうとそれは我慢した。
初めて同じ部屋で眠る。不思議な感覚だった。
これまでに夜を共に過ごした者は数知れない。しかし、カツラは一度も熟睡できたことがなかった。他人がそばにいると思うと落ち着かないからだ。ウトウトとはするが、すぐに目が冴えてしまう。結局そんなことをくりかえし寝不足になるのが常だった。
初めて自ら求めたタイガと一緒では緊張で眠れないのではと思っていたが、すぐそばにタイガの存在を感じると不思議と気持ちが落ち着き、カツラはすぐに眠りに落ちていた。
わずかな音がし、目を覚ます。外はもう明るくなっている。はっとして横を見るとタイガがいない。
カツラはせめてタイガの寝顔をこっそり眺めようと思っていたが、その計画は失敗に終わったようだ。もう帰ってしまったのかと急ぎベッドから出る。玄関に続く廊下に出るとタイガがまさに今家を出ようとしているところだった。
「タイガ…。」
カツラはタイガに声をかけた。せっかく家にまで来てくれたのに、タイガにとっては最悪の一晩だっただろう。このまままた別れなければいけないなんて。 タイガはカツラを気遣って優しく声をかけてくれた。胸がつまる。
一緒に…。二人きりでいたかった。
気づくとカツラはタイガを振り向かせ、自分の唇を彼に重ねていた。触れるか触れないかのキス。
自分の不備でタイガに嫌な思いをさせてしまった。楽しい恋人の時間を過ごしたかったのに。
「タイガも気をつけてな。」
自らおこした行動だったが、今までにない感情の高ぶりにカツラは驚いていた。体中に幸せホルモンがかけめぐるのを感じる。ドキドキがとまらない。こんな気分は経験したことがなかった。恥ずかしさのあまり、タイガの顔を直視できない。
「あっ、う、うん…。」
タイガも急な口付けに動揺したのか、曖昧な返事だ。そのまま勢いよくドアを開け出て行った。
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