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第50話 夢見心地

 ●●●は古くからあるワイン作りの産地で、ワインの故郷と言われている。  『desvío』にはワインも数本置いてあるが、それほど積極的に仕入れているわけではなかった。 そのため今回のワインの取引案内も、店としては「ただ同じ酒の世界に生きる者同士への形ばかりのお知らせ」といった扱いであった。カツラもあの日まで、そういうものもあるのかと気にせずにいた。まさかこれが人生で一番最悪な状況から抜け出すための手段になるとは思ってもみなかった。  タイガに振られことを自覚し、カエデと遭遇したカツラは店長に無理を言い、●●●で開催される研修に参加するため逃げるように飛行機に乗り込んだ。  ●●●に向かう道中。ようやく飛行機を降り、研修場近くのホテルまでをバスで行く。外は夕焼け空に染まり、さわやかな緑の香りが鼻に届いた。自然豊かな美しい景色もカツラの瞳には映っておらず、今は遠い地にいるタイガのことを考えていた。彼と出会ってから今日までのできごとを何度も何度も繰り返し思い返す。タイガと過ごした思い出だけが今のカツラにとって唯一、正気を保っていられる支えだった。 「タイガ。」もう呼ぶことのないかつての恋人の名を心で囁く。「ここで過ごす間になんとか気持ちに踏ん切りをつけなければいけない。」カツラは店を出る前に決意した気持ちを確かめる。  カツラとの一件でタイガはすっかり『desvío』に来なくなっていた。しかし、タイガにはカエデがいる。カエデは『desvío』に興味を持っていた。カエデが誘えばタイガは店に来るかもしれない。その時には平常心で接することができるようにしていなければ。カツラはタイガにこれ以上落胆の目で見られたくなかった。  「きっとヨリが戻せたんだ。よかったな、タイガ。」心の中で言ったその言葉は予想以上にカツラにダメージを与えた。今にも泣き崩れそうになる自分を奮い立たせ顔を上げて目を閉じる。ゆっくり深呼吸をした。  そろそろホテルに着く。自ら望んで来た研修であったが、なにもする気がせず、すべてが面倒に感じた。生まれてからタイガに会うまで自分から強く人を求めたことのないカツラには、失恋の免疫がなかった。これからどうすればいいのかと途方に暮れていた。 「カツラか?」  ホテルに着きチェックインの手続きをしていると背後から声をかけれた。振り向くと店の取引先相手のトベラがいた。 「トベラさん。どうしてここに?」  彼のところはワインの扱いはなかったはず。トベラはやり手だ。ワインまで手を広げようとしているのかと予想をつける。この男、酒に関しては知識が深く話も面白いのだが、初めて出会ったときからカツラにちょっかいを出し、しつこくつきまとっていた。トベラは女好きで有名だ。彼と仕事で関わったことがある者ならその手の噂はみな耳にしていた。 「俺も勉強にな。そろそろワインもいいかと。」 答えが的中した。これから数日は顔を合わせなければいけないとカツラは身構えた。 「仲良くしような、カツラ。」 ほらきたと思った瞬間、トベラがなれなれしく肩に腕を回してきた。 「ええ。」 「今から飲みに行くんだ。地元でも指折りの店を教えてもらった。いい酒があるらしい。一緒に行かないか?」 カツラはこんな男とは願い下げだった。ただでさえ今日はボロボロなのだ。今日だけは一人で思う存分タイガのことを考えていたかった。 「今日は着いたばかりで疲れているので。」 控え目に答える。取引先相手であるトベラの機嫌をあまり損ねることはできない。 「そうか。じゃぁまた今度な。」 そう言ってトベラはカツラの黒髪に唇を当てロビーを去っていった。カツラは深くため息をつき自分の部屋へ向かった。    与えられた部屋は一人用にしてはなかなか広い部屋だった。中で二つの空間に分かれており、ベッドルームと小さなリビングルームになっていた。ベージュ色の壁が柔らかい雰囲気を出している。窓の向こうには遠くブドウ農園の丘が見えていた。  荷物を下ろしそのままバスルームに向かった。風呂につかり天井を仰ぐ。ようやく体の疲れがほぐれてきた。  一人になると考えるのはタイガのことばかりである。 タイガに。鍵を渡したところまでいったのに...。俺はとうとうタイガと体を重ね愛し合うことはできなかった。タイガのことを考えると虚しさがこみ上げ目頭が熱くなる。 今まで何人の者たちと交わった?自分が一番誰よりも求めていた者とはなにもないままなんて。こんなふうに拒まれるのなら...。 あの時無理にでも家に連れ帰りタイガを押し倒せばよかった。タイガが嫌がろうと、お前と繋がり愛されたいと請えばよかった。  一人深く後悔した。しかし過去は変わらない。精神が疲弊しきったカツラはそのまま風呂の中で眠りに落ちた。  ドアをたたく音で意識をとりもどす。しばらく湯の中でまどろんでいたカツラは肌寒さを感じた。どれくらいたったのか、ふろの湯はかなり温度が下がっている。  急ぎ体をすすぎスウェットを着る。時計を見ると21時を過ぎていた。ホテルの者かと思いドアを開ける。 「カツラ。起きていたな。」  チェックインの時に部屋番号を確認されていたらしい。そこにはトベラがいた。酔っているのかと思ったが、酒の匂いはしない。カツラは冷めた目で言い放った。 「なんです?こんな時間に?」 トベラは気にするふうでもなく答えた。 「さっき行った店で買ったんだ。期間限定で今日までしか店に並べないというから買ってきた。お前に飲ませたくてな。」 視線がトベラの手の酒瓶にいく。確かに興味はある。 「そうですか。それはありがとうごさいます。お言葉に甘えていただきます。」 酒瓶を受け取ろうとするが、トベラは手を離さない。 「おいおい。お前のために俺は一滴も飲んでいないんだ。締め出す気か?」 なるほど、そう来たか。カツラはトベラとは深く関わりたくなかったし部屋に入れるのも嫌だった。居座られても迷惑だと思い彼に提案した。 「では俺がトベラさんの部屋に行きますよ。」  トベラは満足したのか黙って一歩引き下がった。鍵をとりドアをロックする。そのまま二人、トベラの部屋へと向かった。  トベラの部屋はカツラの部屋より一回り広かった。数日前から宿泊しているはずだが、綺麗に整理されている。ソファに腰かけトベラがグラスに先ほどの酒を注ぐ。なんともいい香りがする。  カツラは一杯だけと自分に言い聞かせその酒を一気にあおった。アルコール度数がかなり強いのか喉にくる。思わず咳込んでしまう。トベラは全く平気そうだ。酒に強いとは思っていたが。呼吸が落ちついたところで立ち上がる。 「じゃぁこれで。」 カツラが立ちさろうとしたら、強く腕を掴まれソファに引き戻された。一瞬身構えたが、トベラはまたグラスに酒を注ぎカツラの前に差し出した。 「もったいない飲み方するな。」 そして立ち上がりベッドルームからもう一本酒瓶を持ってきた。 「これもうまいんだ。飲み比べをしてみてくれ。今度うちで新しく出すものだ。」  その酒をまた別のグラスに注ぐ。注意深くトベラを見、グラスを手に今度は少しずつ酒を口にした。 さっきの酒の後だからか味が際立っていた。とても軽やかな味でカツラはこちらの酒のほうが好みだった。  トベラがこの酒を造った経緯を話し出した。やはりこういう話は楽しい。少しずつ酒が進んでいく。 量はそんなに飲んではいないが、しばらくすると最初に一気に飲んだ一杯がきいてきたのか、カツラはふわふわした気分になってきた。トベラがカツラの顔を覗き込む。 「カツラ。大丈夫か?」 カツラは瞼を閉じたまま思わずトベラの肩に額を預ける。なんだか今日はトベラが優しい。優しい...。優しい。優しいタイガ...。タイガ。 「タイガ。」  カツラは無意識にタイガの名を呼んでいた。今、タイガの肩に額を預けている。安心し、とても幸せな気分だ。タイガが背中を優しくさすってくれる。目を開けるとタイガが心配そうにカツラを見ている。カツラもタイガを見つめ返す。   タイガの手がカツラの細い綺麗なあごに触れる。彼に触れられるのは嫌じゃない。もっと触れてほしい。カツラはキスをしてくれというように口を少し開ける。タイガはしばらくカツラを見つめ、キスをしてきた。深い、深いキスだ。タイガに求められ、カツラも必死に答える。お互い抱き合いながら強く求めあう。  しばらく奪い合うような口づけを交わし続けた。タイガの唇は本当に気持ちいい...。ずっと、ずっとお前とこうしたかった。満足して瞼を開けるとそこにタイガの姿はなく、トベラがいた。カツラはトベラと唇を重ねていた。  思い切りトベラを押し返しソファから立ち上がる。今なにが起こったのか確認するように大きく目を見開いて今しがたのキスの相手を確認する。  激しいキスで二人とも息が切れていた。トベラは満足そうに唇をなめ、薄ら笑いを浮かべカツラを見上げていた。

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