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第51話 本能

 翌日。昨日の失敗をカツラは悔やんでいた。 よりによってトベラとなんて。酒のせいとは言え自分を罵らずにはいられなかった。不幸中の幸いだったことはキスだけで済んだことだ。嫌な記憶は早く忘れるに限るとカツラは早速今日から始まる研修のための準備に取り掛かった。  トベラも研修に来ていると言っていたので、やつに会うのではと憂鬱になっていたが、経営者の研修は別らしい。カツラはほっと胸をなでおろす。しばらくトベラの顔は見たくなかった。  研修ではワインの製法、保存方法などワインに関する知識をレクチャーしてくれることになっていた。あわよくばここのワインを店に仕入れてもらおうという魂胆があるのだろう。カツラは研修室となっているホテルの会場に向かった。  物理的な距離でタイガと離れているせいか、会えない寂しさはあったが昨日よりカツラの気分はいくらかましになっていた。だが、気を抜くと思考はすべてタイガに行きつく。カツラは気持ちを引き締め会場に入った。  大体二十人ぐらい入れる広さだ。二人掛けの長テーブルがホワイトボードを正面に十卓置かれていた。既に数人が着席している。特に席は決まっていないようなので、カツラは一番後ろの誰も掛けていない席に座った。  しばらくすると隣にガタンと大きな音がした。目を向けると小柄な女性が大きなカバンをテーブルに置いていた。赤毛の髪を頭頂部で団子にしている。かわいらしいグレ―の瞳をした女性だ。彼女がカツラの視線に気が付き目があった。しかし彼女はさっと視線を逸らした。  その後、研修が始まった。内容は意外にもなかな興味深く面白いものだった。 休憩時間になると、隣の女性はそそくさと席を離れた。どうやら彼女はカツラを避けているようだ。「こういうことは今まで多々あった。」カツラは過去の経験を思い出す。たいていの場合カツラに気があるのだ。面倒ごとは避けたかったので、彼女のことは気にせず研修に集中することにした。  翌日は近くのワイン工場で製造工程、熟成庫の見学、ワインの試飲をすることになった。カツラは一人、ホテルから歩いて目的地まで向かう。 美しいイチョウ並木が続いている。黄金色に輝く道を行く。「こんな美しい場所、お前と歩きたかった。」気を抜くとすぐにタイガを求めてしまう。  気分を切り替えるためカツラは大きく息を吸った。自然が広がる●●●は空気がうまかった。今の季節は木々の色が赤や黄色と鮮やかで遠くには小川のせせらぎも聞こえる。まるで絵本の世界に迷い込んだようだ。周りに広がる自然のキャンバスに目を奪われながら目的地へと向かう。しばらく歩くとブドウ農園が目の前に広がった場所に出た。ブドウ農園は丘の上まで続いている。圧巻の景色だ。丘の手前に赤いレンガ作りの屋根が並んでいた。工場はあの建物らしい。  カツラが集合場所の工場入口に向かおうとしたとき、研修で隣の席にいたあの女性が入口でしゃがみこんでいた。なにをしているのかと見ていると、例の大きな鞄を派手にぶちまけたらしい。太い本が数冊、数枚の紙が辺りに散らばっていた。今日は時おり強い風が吹いていた。彼女が飛び散らかした紙をとろうとした瞬間に風が吹いた。 「あっ。」 紙がカツラの足元で止まった。無視するわけにはいかず紙を手に取り、彼女に渡す。 「これ。」 拾った紙を彼女に差し出した。よく見ると紙には酒の製法がぎっしりと書かれていた。彼女はカツラの姿を認め、頬を赤らめうつむきがちに受け止り礼を述べた。 「ありがとう...。」 そのまま立ち去ろうと思ったが、まだ本や紙は辺りに散らばったままだ。また風が吹き出して彼女が「あっ」とか「きゃぁ」とか言いながらあたふたと一人で拾い始めるのを見るのも忍びなく、カツラも一緒に拾い始めた。ようやくすべて鞄に納まったとき、彼女が再度カツラに礼を述べてきた。 「あの。ありがとう。一緒に拾ってくれて。」 「いや。別に。」 そう言い立ち去ろうとする。 「昨日、席が隣だったでしょ?私、セリナっていうの。お友達になってくれませんか?」 カツラは一瞬無視しようかと考えた。面倒ごとは避けたかったのだ。しかし考え直した。気分を切り替えなければいけないのだと。 「そうだね。隣だった。カツラだ。よろしく。」 得意の笑顔はなく淡々と答えた。セリナはカツラに無視されなかったことに安心したのか微笑みながら言う。 「私、こういう研修初めてで知り合いもいないから不安だったの。三週間も一人でどうしようって。よかったぁ。」 意外によく話すタイプらしい。先ほどの紙の内容、それに彼女が持ち歩いている数冊の本が気になり質問する。 「それにしてもすごい本だ。さっきの紙もなにかの資料だろう?」 セリナはうつむき手にした鞄を見ながら答えた。 「これ、お父さんに持たされたの。うちは昔から続いている酒造家で。私、これでも跡取りなの。しっかり勉強してこないと家にあげないと言われて。ここで勉強したことも記録してこいって。」 「ワインの勉強もするんだ?」 「今の時代はオールマイティじゃないといけないんだって。カツラ君は?」 カツラは自分は酒を提供する店で働いていると伝えた。話すとさすが酒造家の娘で、セリナは酒の知識はかなり持っていた。跡取りというだけあってツバキよりも深い知識だ。カツラの最初の印象とは裏腹にセリナとの会話は楽しいものだった。また彼女は鈍くさいところもあり、憎めない性格でもあった。 カツラはその後、研修中はセリナと一緒に過ごすことが多くなった。    セリナのおかげでカツラの●●●での研修は楽しいものとなっていた。 やはり仲間がいるのは心強いし彼女とは共通の話題があるから話が尽きないのだ。若く見えるがセリナはカツラの一つ年下であることも余計に親近感を強く感じさせた。セリナは外見からか弱く見えるが、内面はしっかりと芯のある女性だった。二人で一緒に過ごす時間が増えるほど、カツラとセリナの仲はより親しくなっていった。  ただやはりというか当初思っていた通り、セリナがカツラに淡い思いを抱いているのは確かだった。 最近彼女のほうから体に触れることが多い気がするのだ。 もう27歳なのだから、セリナもさすがに経験はあるのだろう。かわいい女性に積極的に迫られカツラも悪い気はしなかった。以前の自分なら流れにまかせてなるようになれといった感じで後のことは深く考えることはなかった。しかし、カツラはタイガとの恋で変わった。セリナのことは異性として興味はなかったが、友達としては好きだった。彼女が自分のことで深く傷つくようなことは避けたかった。自分が恋に破れ傷ついたように。  ある日、セリナの部屋で研修に提出するレポートを二人で相談しながらまとめていた。なかなか難しい課題で時間がかかり、時計を見ると0時を過ぎていた。そろそろ部屋に戻ろうかと思ったとき、カツラはセリナから家で作った酒があるから気分転換に飲んでほしいと言われた。 「いや。でも今日はもう遅いし。」 カツラが断りの言葉を述べると彼女の目が潤んだ。 「ごめん。そうだよね。」 カツラはその表情とかつての自分を重ねた。タイガに手料理を届け続けた自分を。 「じゃぁ、一杯だけ。」 するとセリナの表情がぱっと明るくなった。 「ほんと?ありがとう。」  二人でソファを背に床に座る。セリナの家の酒は無色透明。かぐわしい高貴な香りのする酒だった。セリナの家が古くからある町の酒造りの老舗だと聞いたことを思い出す。神に奉納する酒を造ったのが始まりだったとか。口に含む。濃度の高いアルコールを含んだ芳醇な味が口の中に広がる。旨い酒だ。 「旨い。すごく旨いよ。」  カツラが感動しセリナのほうに顔を向けた瞬間、唇と唇が触れ合った。 募り募った気持ちが決壊したようにセリナから深いキスを受ける。そのままカツラに腕を回し抱き着きながらキスを続ける。女性らしい香りと柔らかい感触にカツラの男としての本能が刺激された。カツラも自然とそれにこたえ、そのまま彼女を床に押し倒した。

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