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第53話 新たな思い

 今日、朝一で●●●を離れる。ここではいい経験ができた。酒の知識も増え、同じ品を扱う者たちとの横のつながりも得ることができた。そしてなによりもタイガへの、彼への気持ちを整理することができたのだ。タイガへの気持ちはここに来る前と変わりはしない。むしろタイガが自分には特別な存在なのだと再確認する結果となった。そのためタイガを愛する気持ちはより増していたが、彼が幸せなら自分はなにも望まないと素直に心から思えるようになっていた。一人で自分の気持ちと向き合う時間を持てた結果、失恋し傷ついた心にようやく落ち着きを取り戻せていた。カエデのことを愛おしそうに話していたタイガを思い出す。カエデには自分も世話になった。彼はとてもいいやつだ。「あの二人のことなら祝福できる。お似合いの二人だ。」そう思うようになっていた。  みなそれぞれが帰路に着こうとしていた。研修仲間たちと別れの挨拶をする。セリナがカツラに声を掛けてきた。 「カツラ。一緒に勉強できてとても楽しかった。私のことは気にしないで。一人前になったらカツラの店に遊びに行くから。」 そう言ってセリナは握手を求めてきた。彼女には様々な意味で救われた。傷つけてしまったかもしれないが。カツラも素直に気持ちを伝える。 「ありがとう、セリナ。君のこと、友達として尊敬している。修行、頑張って。」 セリナの手を取り握手を交わした。彼女は一本早いバスでその場をあとにした。 その後カツラもバスに乗り飛行機に乗り込んだ。ここにくる前の自分を思い出す。あれから三週間が経った。確実に時間は過ぎている。  店長からは、今日は疲れているだろうから店には来ずに休んでいいと言われたが、無理を言って急に研修に参加させてもらった手前、その言葉に甘えるわけにはいかなかった。店のみんなにも迷惑をかけたので、カツラはしばらくは休まず店に出るつもりでいた。長い時間を過ごした『desvío』はカツラにとっては家のような場所だ。懐かしく、一刻も早く店の空気を吸いたかった。ここを発つ前はボロボロだった心も体も今ではすっかり回復した。元居た場所に戻り変わらず日常を送れる環境があることにカツラは感謝と安心を感じていた。  長期間留守をしていたこともあり、仕込みの時間より少し早くに『desvío』に向かった。今のカツラにとって『desvío』は心安らぐ場所である。しかしここはタイガとの出会いの場所、思い出が残る場所でもある。現状に納得しているのにも関わらず気を抜くと心の一番深いところにまだある秘めた思いがうずきカツラを苦しめる。「そのうち時間が解決してくれる、きっと...。」そう自分に言い聞かせることしかできなかった。  店に着くと既にドアが開いていた。珍しいことに、店にはカツラより先に店長が来ていた。 「カツラ。早いじゃないか。研修はどうだった?」 なにやら資料を見ながらそう声をかけてきた。 「勉強になった。今日からまた一生懸命働くんでよろしく。ところでそれはなに?」 カツラが資料を指しながら訪ねた。店長がそんなものを見ているなんてとても珍しいのだ。 「これは新しい取引先相手からの提案書だ。今日仲介してくれる業者と店で打ち合わせをする。ちょうど二時間後かな。それまでは用事があるからちょっと出てくるけど。カツラは?」 なんだか店長は嬉しそうだ。きっといい話なのだろう。 「メニュ―見て、仕込みの在庫確認したら買い出しにいく予定。」 「そうか。じゃぁ俺今から出るから鍵だけ頼むな。」 そう言っていそいそと出かけていった。一人店に残されたカツラはメニュ―を確認した。研修前とそれほど大きな変更はないようだ。冷蔵庫の中身をチェックし買い出しに必要な材料をメモしていく。準備ができたところでカツラも鍵をかけ店をあとにした。  久しぶりの地元はやはり落ち着く。目当ての店で必要なものを買い込む。今日は天気もよいので、少し足をのばしてもう一軒別の店に行くかと歩き始めた。しかし、急ぎのものはなかったはずと考え直し、向きを変え元来た道を戻り始めた。  店の前まで戻ってきた。「仕込みはなにから取り掛かろうか、今日は週末なので常連はあの人が来るな。」などと考えながら視線は下を向いたまま歩き続ける。そのまま裏口の道に入った。急に視界に人の影がぼんやりと入り、慌てて視線を前に向ける。そこにはタイガが立っていた。

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