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第2章 末期の林檎

     1  ――死んだんだ。少なくともあの人は、  そう思っている。それでいい。そのほうが、  あの人の中に、  残れる。強くつよく強烈に。 (『エリストマスク』より)  *  印を付けていたメッセージに返信する。  すぐに返答がきた。  オンでもいいから直接話そうと提案したが、向こうは顔出ししたくないとのこと。  そんなこといったって。  顔も素性も知ってますよ? 「ご自身の知名度をもうちょいっとよくご理解されたほうがいいスよ、総裁さアん」 「先に言っとくけど」音声だけの応答。「いま君のところで臨時バイトしてるそれを煮ようが焼こうが、僕への牽制にも脅迫にもならないってこと。勘違いしてるみたいだから」  自分の恋人を“それ”ときたか。  パートナを物扱いする系か。最低だな。 「ええ、はい、よくわかりました。元よりあなたに危害を加えるつもりはないんで。お願いがあるんスよね。確かなスジからの情報なんスけど、いま彼の所有権?はあなたにあると聞いたもので」 「ああ、なるほど」音声が嗤った。理解してくれたっぽい。「彼を、どうするんだろう」  親切にも会場を貸してくれた。ちょっとした講堂。宗教団体の所有物だそうで。  ステージに座る俺。  後ろに助手が吊るされてる。もちろん首が絞まらないように工夫して吊ってる。 「入っていいよーん」到着の報せが入ったので声を出した。  ゆっくりと扉が開いて、影がのぞいた。会場はわざと薄暗いけどPCモニタ周りだけ仄明るい。 「ああ、ちゃんと閉めてきてね。通行人に見られたいシュミがあるんならそれでもいいけど」 「共犯やって聞いたんやけど」お兄様が後ろ手に扉を閉めた。 「共犯とゆうか」バラしたのか。「取引とゆうか、なんとゆうか。まァ、お互いに得るところがあったので、そんな感じかな」 「後ろの御曹司は観客なん?」お兄様が長椅子の間の通路を進む。木の床を草履が滑る音が響く。「降ろしてくれへんかな。気が散るさかいに」 「え、あ、御曹司なの? マジかー。知らなかったなァ」 「白々しなぁ。さっさと能登くんの居場所聞こか?」 「いやいや、前払いが礼儀っしょ? 自傷行為をやめたってとこ、見せてよ」  お兄様が羽織りを脱いで長椅子に放る。 「無賃でヤらせるん、前代未聞やで?センセ」 「払おうとしてるじゃない、とっておきの情報。ぶっちゃけカネより価値高いよー?」 「せやな。誤情報やったら命の保証はできひんさかいに、そんつもりで」  リモコンで、助手を吊るしているロープを操作する。床に足が付いたのを確認して暗幕を降ろす。助手と俺の間を分断する形になる。 「帰っていいよー。おつかれー」 「え、あの」助手はここまでのやり取りをすべて聞いていた。「あ、はい。お疲れ様です」  後ろ髪を引かれているような返答だったが、ほどなくしてステージ横に消えた。 「まさか生で配信してへんやろな?」お兄様がステージによじ登る。登ってからステージ脇の階段を見つけて舌打ちをしていた。 「まっさかー。アカウント停止どころの騒ぎじゃないじゃん」 「どっち?」 「どっちって。うーん、そうだなァ。是非あなたで筆下ろしさせてもらいたいなァと」  お兄様が呼気だけで嗤う。 「なんか誤解してるっぽいけど、リウとは別にそうゆう関係性じゃないよ」 「せやのうて。お前、女殺らはったときに」 「女なんかノーカン。それに死んでたんで。なんのカウントにもならないね」  お兄様が「クソ最悪やな」と呟いて帯を解いた。  背中が痛いだの下手くそだの散々文句を言われたが、カメラ映りのアングルに意識の半分以上を割いていたので仕方のないことで。  一生分の貯金をつぎ込んでも抱けない貴重さとゆう純粋な興味から出した条件だったが、そこまで気持ちよくなかった。  やっぱり。  リウのほうがいい。 「ほんなら、ヤることヤったさかいに」お兄様が着物を直しながら言う。「能登くんの居場所」 「はーい」  お兄様のケータイが震えた音がした。 「送ったよー」 「ほんなら、さいならね」お兄様は何の躊躇いもなく迷いもなく出て行った。  脱力。  疲労感。 「満足してそうにないね」配信の向こう側はざまあみろと言わんばかりの雰囲気バリバリで。  いつもの通り音声だけ。 「いやはや、俺には高級すぎましたね」 「お前本当に居場所教えたの?」 「さァ、ご想像にお任せしますよ。では、本日の配信はここまで。おつかれさまー」  PCの電源を落として、配信機材と共に鞄に詰める。  暗幕を上げて、ステージの床を軽く拭く。  真っ暗闇。  眼は慣れた。  ステージ奥に移動させた教壇の内側をのぞく。 「そろそろ思い出してくんないとさァ」頭部を掴んでこちらを向かせる。  硬めの髪質が指先と手の平に心地よい。 「なんで俺が川に飛び込んだのか、とかさァ」至近距離で見つめる。「もっかいちゃんと説明しないとダメ?」  口に咥えさせていた器具を外して、滴る唾液を舌で受ける。 「ねェ、リウ?」  何か言おうと開いた口を塞ぐ。  苦しそうにもがく舌を吸う。  ああなんて甘美な。  この怯えきった眼さえなければ。 「な、んで」 「はこっちだよ。なんで、なんで俺のこと」思い出してくれないのか。  思い出したくないのか。  そんなはず。  そんなはずはない。 「カラダに聞いてもいい?」  リウの肩がびくんと震えた。 「怖いの?」  リウは首を振る。 「怖いんでしょ? 俺、何するかわかんないし」  リウの両手は後ろで結わえている。両足首の拘束を解いて、足を肩で抱える。 「や」めて、なんか言わないで。  口の拘束器具を付け直す。  ベルトを緩めようと思ったけど、足の抵抗が激しいので諦めてファスナだけ下ろす。  声にならない声を脳天で浴びながら、肉を外気に曝す。  しゃぶりついたらもっと声が高くなった。  丁寧に優しくしようと思ったけど、駄目だ。こんな扇情的な姿を見せられたら。  本当は声だって聞きたいけど、お兄様が植え付けた死人の人格に出て来られたら困る。  念入りにしゃぶっていたら程よく硬さが増してきたので、急いで腰を落とした。 「ね? わかる?リウ。こうやって何度も何度も何度もヤったんだよ? 思い出して?」  リウは気を失っていた。  強く揺すって起こす。 「しっかり見て? ね? あのとき出せなかった熱いのを俺にちょうだい?」  締めて動いて刺激を与えても、どんどん硬さがなくなって。  抜けてしまった。  あのときみたいに。 「気持ちいいって」  ゆってよ。  なんで。  なんでなんでなんでなんで。  リウはまた気を失っている。  起こしても。  駄目なら。  せめて。  熱だけでも。  ――それ、世間では強姦て言うんだけどな。  うるさい。  ――よっぽど忘れたかったんだね。君のことなんて。  うるさいうるさいうるさいうるさい。  死人ごときが、俺のだいじなリウを語るな。  駄目だ。  だめだだめだだめだ。  止まれ。  とまれとまれとまれ。  機材とリウをカートに載せて裏の駐車場へ。  荷台に載せてハンドルを握る。  さて。  どこへ行こうか。  電話だ。  ご令嬢か、雇い主か、それとも。  非通知。 「人違いだよ」  リウの声がした。  違う。リウは後ろの荷台にいるはず。  切れた。  また電話。  非通知。 「こんばんは。警察です」  切った。  そんなはずない。  なんで警察から電話がかかって来るんだ。  あり得ない。  あのときだってちゃんとやり過ごして。  また電話。  非通知。 「君、ほんとに能登教憂を攫ったの? 荷台で死んでるの誰?」  切れた。  なんだこれ。  俺の頭の中から聞こえるのか?  疲れてるんだ。  早く帰ってリウを解放してあげないと。  解放?  車を降りて荷台を確認する。  配信機材とPCと折り畳んだカート。  あれ?  ここに。  いたはずの。  リウが。  冷たい。  つめたいそれは。 「あれ?」  だれ。  これ。  生きてないじゃないか。  ノイズ。  ちりちりと放電する。  ぱちぱちと爆ぜる。  雨が降っていた。  ホースで水を撒く。  雨水か水道水か、もうぐちゃぐちゃでわからない。  挿れたら気持ちいい。  汚れたから綺麗にしなきゃ。  でた。  証拠が残る。  大丈夫。  だいじょぶじゃない。  生きてる?  死んでる?  ああ、駄目だ。  これじゃあ。  こんな女のことでリウがいっぱいになってしまう。  捨てなきゃ。  誰にも見つからないように。  行かなきゃ。  誰もいないところへ。      2  ――「ああ、すまんね。頭おかしうなっとるみたいやわ。今日、何日かわかる?」  (『多詰みは足る』より)  **  急いでタクシーをつかまえる。ハイウェイ代も長距離料金も構わなかった。  早く。  はやく会いたい。 「ツネちゃんちょいっと落ち着いて」ビャクローが視界に飛び出してくる。  やっとつかまえたタクシーを断ってしまった。  テールランプが遠ざかる。 「なにしはるん?」 「なにって。ツネちゃん、生き映し君に会ってどうしたいのさ」 「攫っといて何ゆうたはるの? そもそもお前んとこの黒いのが」 「もうぶっちゃけちゃうけどさ、主人は、生き映し君をツネちゃんの洗脳から解放するために悪を買って出たんだよ。主人とツネちゃん、生き映し君にとってどっちが悪だと思う?」 「はぁ? いまそないなこと」  ビャクローの眼が、真っ直ぐこちらを射抜く。  思わず逸らした。 「いい加減、眼ェ覚しなよ。悪足掻きしてるって、ツネちゃんだって気ィついてるでしょうに」 「せやけど」  キサが生き返ったのだ。  キサは。 「あれはキサっちじゃないよ」 「わーっとるわ、そないなこと。せやけど」 「死人は生き返んないよ?」  なんで。  なんでそんなこと。 「お前が」 「誰も言わないからね。誰もツネちゃんを責めないし、誰もツネちゃんを咎めない。なんでだと思う? みんなツネちゃんのことがだいじだからなんだけど。そこらへん、もうちょっと自覚してもいんでない?」  夜風のせいか頭が冷えてきた。 「随分俺に意見しはるんやね」 「サダくんいなくなっちゃったしねー。ぶっちゃけもう俺くらいしか、ツネちゃん護れないんだもんよ」  外灯が点滅する。  白が膨張する。 「なんで俺が主人放っぽいてツネちゃんのとこにいると思う?」 「そんなん北京(ベイジン)の」 「ベイ様の命令ってのもあるけど、じゃあなんでベイ様はツネちゃんを護れってゆったと思う?」 「せやから俺が」  後継者だから。  ビャクローだってそう言ってたじゃないか。 「違うん?」 「他の後継者にはなくて、ツネちゃんだけにあるもんがあるのよ。何だと思う?」  前も後ろも闇。  どっちから来たんだろう。  どっちに帰ればいいんだろう。 「大丈夫? 疲れちった?」ビャクローが顔をのぞき込む。 「お前の目的はなんや?」 「ゆったじゃん。後継者の爪と牙んなって」 「せやのうて。もっと大きなもんが」 「ないよ。ない」ビャクローは大げさに首を振って手を挙げた。  タクシーが止まる。 「じゃあ帰ろっか。ツネちゃんが帰りたいとこに」  支部に着いてタクシーを降りる。ビャクローは「んじゃ、ごゆっくりー」と言い残してどこかに消えた。  2階に直接入れるドアの前でケータイを鳴らす。  数コールで切られて、階下に移動のタイムラグ。鍵が開いた。 「ただいま」  ひどい顔だった。 「ひどい顔やな」自分で言っていておかしいと思った。 「帰ってこないかと思った」 「ゆうたやん。泊めてほしい、て。まだ泊まってへんし」  いま何時だろう。  何時でもいいか。 「トモヨリは?」 「高笑いして帰った」 「あのボンいっぺん死ぬか地獄に落ちたほうがええのと違う?」 「同感だ」  適当にシャワーを浴びて、ベッドに入った。  照明を落とす。 「寝はった?」 「眼てるうちにお前がいなくなったら困るから寝れない」 「なんやのそれ」思わず笑った。 「前科があるだろ。忘れたとは」 「忘れたわ。そないな昔のこと」  沈黙。  シーツが擦れる音。 「いつまでいられる?」 「さぁなあ。考えてへんわ」 「いなくなってもいいが、いなくなる前にいなくなるって言ってから」 「憶えてたらな」眼を瞑る。「おやすみ」 「おやすみ」  たぶん、寝てない。  寝たら最後、俺がいなくなると思っている。  いなくなるって。  どこに?  行くところもないのに。  客がいなかったら、何もできない。  カネも稼げないし、いる価値も。  なんにも。  ないんじゃないか。  何も。  元より何も。  身体の芯が冷えてる。  ここはあの屋敷じゃない。  況してや客の家でもない。  じゃあ、ここは。 「どうした?」上から声が降って来る。  社長さんが上体を起こしている。 「寒いのか?」 「なんでも」 「震えてるのわからないのか?」  肩に手が触れる。 「何があった? あの比良生禳とかいう」 「客やん。あんなんただの」  カネを。  もらってないじゃないか。  カネを。  もらわなければ。 「能登の居場所は? 聞けたんじゃないのか」 「聞いたよ。聞いたさかい。せやけど」 「明日行くんだろ?」  行って。  どうするんだ。 「おまは」  能登教憂が死んでも。  妃潟が生き返っても。 「ええんか? 俺が」  ここにいなくても。  どこにいたとしても。 「大丈夫か? 能登は無事だったんだろ? 取り返せばいいじゃないか」  取り返す?  いいのかそれで。 「ツネ?」 「能登くん、死んでへんよね?」 「何を言ってるんだ?」  死んだのか?  いや、死んでない。死んでないはず。  だって、  殺してないんだから。  死ぬはずが。 「お前はキサガタとやらを選んだんだろ? 能登はそれで犠牲に」 「そんなん、俺が能登くん殺したみたいやんか!」 「そうだろ? 今更何を言って」  違う。 「本当にどうしたんだ? やっぱり何かあったんだろ? もう隠すな」  隠してない。 「お前が何をしてようが、何をしようとしようが、俺は否定しないし」  誰も責めないし、誰も咎めないし、  誰も、  止めない。  だれも、もとめない。 「あかん」  崩れる。  がらがらと。  元々何もなかった空洞に。  瓦礫の残骸が流れ込む。 「どうした? ツネ?」  両肩を掴まれる。  痛い。  いたい。  今更虫がいい。  どのツラを提げて取り戻そうと。  取り戻す?  もなにも。  最初から。  お前のものじゃない。 「おい? ツネ。おい!!」  声が遠い。  膜がかかっている。  ぬめぬめとした。  白くて。  濁った。 「ツネ!!」  白い。  白いそれは。 「やっぱツネちゃんちょいとヤバいかもしんないわ」 「どういうことだ? なんだ、やばいってのは。命のことじゃないだろうな」 「命っていうより、うーん、そだねえ」 「勿体ぶるな。大丈夫なのかそうでないのか」  何の話?  遠くで聞こえる。 「休ませたのが裏目に出ちゃってっかも。仕事詰まってたほうがいろいろ考えなくてよかったからねえ」 「“仕事”させればいいのか」 「そっち方面で無理させると身体的に限界だしねえ、かといって別の仕事ってゆっても」 「じゃあ俺のところで働かせれば」 「具体的に何すんの?」  勝手に。  話を進めるな。 「起きて大丈夫なのか?」 「ツネちゃん、自分の状態わかってっかい?」  視界が白かったのは、ビャクローのせいだった。  白い手に顔を挟まれている。 「わーっとるわ」 「わかってないよ。わかってないからこうなったんだって。どする? もっかいキサっちのお葬式する?」  骨もないのに。  信仰もないのに。 「ツネちゃんさ、キサっちが死んだの、自分のせいだって思ってない?」  だったら。 「だったらなんや?」 「おお怖。図星ってとこ? それとツネちゃん、キサっちの葬式、中座したっしょ? そーだった。サダくんに聞いて忘れてたわ。キサっちにちゃんとお別れゆってないからだよ」  別れなんか。 「お別れ会しようよ」  嫌だ。 「嫌って顔してんね。そうやって抵抗してるからいつまでも吹っ切れないんだよ」 「やかましな」  今更なんでお別れ会なんかしなきゃなんないのか。 「えっと、なんだっけ。しゃちょーサン?」 「岐蘇(キソ)だ。まだ社長じゃないから、そう呼ばれると困る」  何を勝手に話を進めているのか。 「俺はせえへんよ。そんなん」布団にもぐる。 「ツネちゃん」布団越しに揺すられる。「やるよ。お別れ会。決-めた。やっちゃうよ」  抵抗するのも疲れた。  気づいたら、眠っていたらしい。  枕元のケータイで日付と時間を確認する。  ああ、次の日の昼だ。  社長さんからメールが入っていた。  午前は大学で、午後から仕事。  じゃあそろそろ帰ってくるか。 「おっはよー、ツネちゃん。よく眠れた?」ビャクローがベランダから声をかける。「みたいねー。良かったよかった。お腹空いてない? なんか買ってこよか?」 「カネ持ってはるん?」 「ないよ。払うのはツネちゃん。俺はおつかい」 「ええわ。朝は食わへんさかいに」  着替え、と思ったが、持ってきていない。文字通り身一つで来てしまった。  何しに来たのか。  逃げて来たのだ。  能登くんもケイちゃんも取られて。  ひとりぼっちになった俺を、無条件で受け入れてくれるのはここしかなかった。  と、言い訳を並べたところで。  否定されたくなかったのだろう。  拒絶されたくなかったのだろう。  ここなら、全肯定と受容が両手を広げて待っている。  ずるいのはわかっている。  客だって同じだ。絶対に俺に文句を付けたりしない。  先代だって、サダだって、俺の根本を揺らがすだけの権力はなかった。  そうか。  甘やかされていたのだ。 「ツネちゃん、お買い物行く?」ビャクローが部屋に入った。ベランダに通じる窓を閉めながら言う。 「俺のカネやん。何買わはるん?」 「ツネちゃんそのカッコだと浮くんじゃない? 俺が気ィ回しすぎ?」  確かに。屋敷と客宅の往復ならいざ知らず。しかも屋敷のあるあの地域は、和装でもまったく浮かないという極めて特異な場所であり。  学ランはさすがに年齢的に際どい領域だろう。そうゆうオプションならいざ知らず。  困った。  他の服を選んだこともなければ着たこともない。 「なになに? 俺選んだげよっか?」ビャクローがおもむろに逆立ちする。白く長い毛が床に拡がる。 「なんでおまが」 「しんみりすんのヤだから言わなかったけどさ、サダくんの遺言でねー。ツネちゃんよろしくって頼まれちって。結構そうゆうとこ律儀なビャクローちゃんなのでした」 「なぁ、ホンマに死んだん?」 「うん。そだよー」  そんなちょっと出掛けたみたいなテンションで言われたって。 「ゆったじゃん。もう俺くらいしかツネちゃん護れないんだって」  浮かんだ名前を掻き消す。 「番犬くん?」ビャクローが思考を読んだ。 「ケイちゃんや。名前憶えたって」 「俺間違ってないよー。だって主人のツネちゃんに絶対服従じゃん。そんなのただの犬畜生っしょ?、と」ビャクローが逆立ちをやめて、床に着地する。「あー、逆らわない条件で置いてたんだっけね? ツネちゃんは人語喋れる便利な犬飼いたかっただけだよ」 「あんなぁ、前から思うとったんやけど、なんじょうそないにケイちゃんにつっかかるん?」 「あー見て見てツネちゃん、クモ。ちーっちゃいやつ」ビャクローが床を指さす。 「話逸らすなや」  社長さんが帰って来ているかどうかを確かめに、うっかり事務所に下りたばっかりに事務員に見つかってしまい、あれよあれよという流れで、仕事終わりに一緒に服を買いに行くことになってしまった。  というか、欠員の支部の事務員は、“彼女”になったのか。  知らなかった。知らないほうがよかった。  急激に頭が痛い。 「なによぉ。アパレル関係なんか私のお友だちいーーーっぱいいるんだから」 「ほおそらええわ。安うなるん?」 「そうやってすーぐおカネの話するんだから。私が買ってあげるってゆってるのよ」 「貸しになるやん」 「貸しを作りたいのよ!」  駄目だ。本調子ならまだしも、エネルギィの塊みたいなヒデりんをかわすのは。  骨が折れるどころか修復不可能な複雑骨折になる。  観念するしかない、か。 「何かあったの?」ヒデりんが聞く。  なんも、と言おうとしたが。 「むしろ何もなくてここに戻ってこないでしょ」ワントーン下げた声で諭された。  曇りのない真っ直ぐな視線を避ける。 「ええやんか。俺のことは」 「ちょっと不躾だったかしら? ごめんなさいね。でも、私で何か力になれることがあったら言ってちょうだいね。勝負服を見繕うとか、ネイルのお手入れするとか」  そのあと帰ってきた社長さんに、仕事終わりの買い物を残業としてごり押し申請していたのは見なかったことにしよう。ちゃっかりしているというか、抜け目がないというか。  ああ、ここに。  彼らがいたのなら。  後ろを振り返って、誰も立っていないことに今更、そこはかとない淋しさを覚える。  欲しいんじゃない。失ったことに耐えがたいだけだ。  どうしようもなく欲張りで、どうしようもない意地っ張り。  あのときには戻れない。  ああ、そもそも俺が壊したんだった。 「なあ、俺も付いて行ったら残業代浮くだろうか」社長さんが真面目な顔で言う。 「お題目が経費んなるだけやろ? 諦めたったほうがええで」  社長さんが言わんとしていることはわかる。  俺の着せ替えショウが見たいのだ。わかりやすいというか欲望丸出しというか。 「そうゆうのは夜やりなさいよね」ヒデりんも見抜いている。 「そうか」社長さんがこれ名案とばかりに肯く。 「そうか違うわ。やらへんよ、俺は」 「そうか」社長さんががっくりと肩を落とす。 「残業代弾んでくれたら試着ムービー撮ってくるわよ?」 「いいのか?」 「あかんわ」      3  ――何日経ったのだろう。何週間でも何ヶ月でも同じ。何年だって変わらない。  ぼくは罰を受けている。 (『多詰みは足る』より)  ***  息継ぎのために顔を上げる。飛び込み台に立っている姿が眼に入った。  まさか。  と思ったときにはもう遅い。  落ちた。飛び込みのフォームとはほど遠い姿勢で。  急いで救助する。  ぐったりした身体を抱き起こす。  名前を呼んでも眼を開けない。水を飲んだのか。  見様見真似で心臓マッサージをする。  気道を確保して、口から息を吹き込む。  誰かが可哀相にと言う。  誰もがもう間に合わないと言う。  うるさい黙れ。  見てるだけで何もしなかった奴らに何も言う資格はない。  見てるだけで何もしなかった。それは。  俺のことじゃないのか。  じゃあそこで■■■■さんを助けようとしているのは、  誰なのだ? 「大丈夫か」  いま一番聞きたい声じゃなかったが、注意を向けた。  武天(タケソラ)だった。  むしろ武天しかいなかった。 「無我夢中というより、茫然自失といった様子だったから」  心配になって声をかけた、と。  心配ないことを示すために泳ぎの練習を再開した。 「逃避の言い訳にするな。それと」武天がプールサイドを歩いて付いてくる。「生き映しがいなくなった」  ビックリして水を飲みそうになった。 「先に言え」  急いで着替えて能登の寝ていたはずの部屋に行く。  強い風が顔にぶち当たった。窓が開いている。  ベッドはもぬけの殻。  白いかけ布団が床に落ちていた。 「眼が覚めて自主的にいなくなった可能性もある」武天が静かに言う。 「自主的にって」  どこへ? 「もしそうならまだ近くに」いるのでは?  武天が手招きする。奥の窓のそばに立って。  嫌だ。  そんな。  それだけは。 「自分の眼で見るといい」  そこで我に返った。  ここは?  プールサイドのリクライニングベンチ。  時間は? 「起きたか」武天が横に立っていた。  これは、  現実なのだろうか。 「うなされていたが」 「能登は?」 「生き映しなら寝ているだろう? 寝ぼけているのか」 「本当に?」 「自分の眼で見るといい」  心配になって屋島に電話をかける。着替えて部屋まで行くよりずっと早い。 「なに?」屋島はすぐに出た。 「能登は無事か」 「何言ってるの? 泳ぎすぎて頭おかしくなった?」  良かった。  さっきまでのはぜんぶ夢だ。悪夢だ。 「悪い。なんでもない」 「ふーん。別にいいよ。じゃあね」  電話が切れた。 「お前は」武天が言う。「ヨシツネと寝たことがあるか」  耳に水が入っているふりをして頭を傾けた。 「どうなんだ」武天が食い下がる。 「質問の意味がわからない」 「私と寝ることができるか」 「それは命令か?」 「命令と言ったら?」武天が上着を脱いで柵にかける。 「ここでか?」プールサイド。「人が来る」 「来たことがあるか?」  そういえば。  誰にも出会わない。 「私が買った」  なるほど。  泳げども泳げども誰も来ないわけだ。  マンションの住人用プールではなく、武天専用プールだったわけか。  武天が俺の膝に座ろうとする。 「ちょっと待て。濡れるぞ」 「構わない。そうか、こちらのほうが」武天が両眼に巻いている包帯を外して床に捨てる。「やりやすいだろう」  この際、至近距離で見比べてやようと思ったが。  すぐに見えなくなった。  プールの天井ばっか見てた。  泳いでいるときより水の音が響く。 「なんでこんなことをする?」 「セイルーが」  車椅子の女か。 「お前を」  角度を変えたら黒い髪が跳ねた。 「犬として飼いたいと」 「断ってくれ」 「私が死んだあとのことだ」  武天が死んだあとは。  ヨシツネさんのところに戻るんじゃないのか。  俺は。 「あんたが死ぬまであんたを護らないといけないのか」  武天が肩で息をする。  呼吸が整うまで待った。 「集中してほしい」武天が息だけの声で言う。 「ここで止めたらつらいか?」 「同じ顔でも無理そうだな」武天が腰を浮かせて体勢を直す。「無意味なことをした。忘れてほしい」  ふらつく足取りで行ってしまった。  時間を置いてシャワーを浴びた。追いかけたみたいに思われたくなかった。  屋島の隣で能登を見守っていたって仕方がない。  武天に言われた通りに、ひたすら泳ぎの練習をするしかやることがない。  そもそもなぜ泳ぎの練習をしなければいけないのかがわからない。  武天に言われたとはいえ、いつまでに○○メートルを○○分を切れとかの目標が明確にあるわけでもなければ、どの程度上手くなったかどうかの進捗状況チェックが入るわけでもない。  要するに、サボったところで武天から文句を言われるわけでもない。  何のために、を考えると堂々巡りになるので早々に捨てた。  しかし、何のためかわからなければやる気も目減りする。  この終わりなき消毒水との戦いがすべてヨシツネさんのためならば、もっとやる気になるのだが。  武天に聞いても明確な返答がない。  私が死んだら?  死ぬ予定があるのか?  情が移ったわけではないが、勝手に死なれるのは困る。  俺の所有権を勝手にやり取りされるのだってご免だ。  ヨシツネさんはいまごろ。  どうしているだろう。  ビャクローがいるからひとりではないだろうが。  後悔と懺悔は、能登を、いや妃潟を連れ戻してからいくらでもすればいい。  そうすると屋島が邪魔になってくる。  ヨシツネさんのために屋島を殺せるだろうか。  俺が屋島を殺して、取り戻した能登をヨシツネさんが殺す。  そうやって二人で地獄に堕ちる。  それでいいのか。  それで本当にヨシツネさんは幸せになれるのか。  水中から顔を出す。  どうすればヨシツネさんは以前のように笑ってくれるだろう。  天井を見ながら水に浮く。  軽い。  身体が軽い。  頭は鉛のように重いのに。  鈍い音がする。  ベンチに置いたケータイが鳴っている。  非通知。  出たほうがいい。頭の奥で警報が鳴る。  なんとなく。  この感覚は、久しぶり。 「はじめまして」女の声だった。「いいことをお教えしようと思いましてご連絡差し上げましたわ」 「誰だ」 「あら、私が誰かなんて、どうでもいいこと」 「いたずらなら切る」電源ボタンに指を置いたが。 「マンションを出入りしている自称お医者の正体を知りたくありませんかしら」  やめて耳に当て直した。 「そうそう。素直にお聞きになればよろしいの」  見てるのか?  そう思ってきょろきょろした姿も見通されているのか、くすりと笑われた。 「能登教憂のトラウマについてはご存じ?」 「詳しくは知らない」  ヨシツネさんは調べていたようだったが。 「それが何だ」  と口では言いながら、頭ではその先が見えていた。  感覚が、  冴えてくる。 「あなたがいま思っていることが真実ですわ。彼はいまとても危うい状態にありますの。より正確にお伝えしますと、善悪の判断を超えたとんでもない暴挙に訴えることが予想されますわ。近々、近日中に」 「能登に何か」  するのか。起こるのか。起こすのか。 「ええ、命があればいいのですけれど」  全身の寒気は急にプールから上がったこととは関係ない。  悪夢は、現実か。  電話は切れていた。  再度屋島にかける。 「さっきから何の用?」 「医者を信用しないほうがいい」 「今日は来てないけど」 「医者の正体を知ってるか」 「ねえ、さっきから何の話?」屋島の声にイラつきが滲む。「用があるなら直接くればいいじゃん。同じ建物内にいるんだし」 「もし医者が来ても能登と二人っきりにするな」 「群慧(グンケイ)くんはあの人が嫌いなの?」 「好き嫌いの話をしてない。あの医者は能登を」  殺そうとしてる?  攫おうとしてる? 「とにかく、能登が危険だ。絶対に眼を離すな」 「だから、さっきから何を言ってるのかわかんないんだけど。なんでお医者さんがノリウキを狙ってるのさ」 「あの医者は、いや、医者じゃない。あいつは医者のフリをして能登の様子を見に来てるだけで」 「なにそれ」屋島が鼻で笑った。  本気にしていない。 「なんで医者のフリなんかしてんの? メリットないじゃん。何言ってるの? やっぱちょっとおかしくなってない? 泳ぎすぎておかしくなっちゃった?」  埒が明かない。 「いまからそっち行く」 「だから最初からそうすればいいんだと思うよ?」屋島が溜息をついて電話を切った。  適当に着替えて、能登の寝ている部屋に急ぐ。髪が濡れたままだがすぐ乾くだろう。  ぞくり、と。  寒気が背中を這い上がる。  夜。  風が顔に当たる。窓が開いている。  夢がちらつく。  違う。これは。 「こんばんは」ベッドに座っている影が喋った。「ああ、いきなり暴力行為ってのはやめてね。一応眠ってる人もいるんだし、静かにね」  能登じゃない。能登じゃないなら。 「妃潟(キサガタ)、か」  後ろ手にドアを閉めた。  照明を手探りで付けようとしたが。 「明るくしたら、彼が起きちゃうよ?」  彼ってのは。  どっちのことを言っている? 「屋島をどうした」 「僕に夢中で気づかなかった? ぐっすり眠ってるよ」  妃潟の膝に、屋島の頭らしき影がのっている。 「生きてるよな?」 「なんで殺す必要があるのかわからないな。それにさっき電話で話したでしょ?」  そうだった。つい五分くらい前に電話で。  でもあれは本当に、屋島だったか。電話口の声に騙されてないか? 「なんだったっけ、彼。医大生の。能登教憂の昔の男。何でもいいか。能登教憂の記憶と違う名前名乗ってるってのは黙っておいた方がいいのかな」 「あいつがなんだ」 「彼さ、医者に向いてるよ。なんてゆうか、天職?だと思うよ。なにせ、死にかかってた彼をこの世に呼び戻したんだから」 「じゃあ能登に」 「戻ってもいいけど、その瞬間、そこの窓から飛び降りるよ。何階だと思ってるの?」  あれは夢だった。夢のはず。 「お友だちが寝たのを見届けてから窓開けて何するかと思いきや飛び降りようとするんだもん。急いで僕が出てこなかったらいまごろどうなってたか。だから感謝こそすれ、そんな眼で睨まれる筋合いはないと思うんだけどな」  真実なのか。  詭弁なのか。 「そこで君に頼みがある」 「内容による」 「勘違いしないほうがいいよ。これは取引きというか、人質とってるんだよね、こっちは。わかんない? 僕が意識を手放した瞬間、能登教憂は死のうとするんだよ?」 「わかった。なんだ」  大人しく従ったほうがよさそうだった。 「そうそう。素直なところが間違いなく君の長所なんだから。僕のお願いは簡単、僕はこれから能登教憂のフリして生きていくから、それを黙っててほしいんだ。ね? 簡単でしょ?」  正気か? 「そんなことしたって」 「すぐバレるって? どうかな。彼が目覚めたことによって、僕は彼の記憶をぜんぶ覗けるようになった。要はシナリオが作れるようになった。完璧なやつを。参考資料が手元にあっていくらでもカンニングできる状態でね。そうやって喋って思考してる僕と彼、一体何が違うっていうんだろう」 「屋島には通用しない」 「どうかな。やってみないとわからないよ?」 「そうじゃない。屋島は耳がいい」 「嘘吐いてるかわかるって? あのさ、話聞いてた? 僕は嘘を吐こうとしてるんじゃないんだ。能登教憂だったら何て言うのかを、能登教憂の取説を参考にしながら喋るだけなんだから。単なる推測や憶測の域を超えてるの、わかんない?」 「それでも屋島は誤魔化せない」 「持ち上げるね。彼が能登教憂の何を知ってるって? 能登教憂のトラウマも知らずに。君も知らない能登教憂の元の姿、教えてあげようか?」 「いい」反射的に首を振った。 「そう。ヨシツネのこと以外は結構どうでもよさそうだもんね、君。まあいいや。今夜はこれでお開きにしよう。くれぐれも内密にね。てゆっても話す相手いないか」 「あんたが眠ったら能登が出てくるんじゃないのか」 「以前だったらね、僕と彼はシーソーみたいな関係だったから。どっちかが起きてるとどっちかが眠ってる。その逆も然り。でもいまは、そうだなあ、うまい例えが浮かばないけど、生命維持を唯一絶対の正義とするなら、何を犠牲にしても命を立とうとしてる彼の行動は悪と捉えられる。つまり、どんな歪んだ形だとしても生き延びようとしてる僕の方に軍配が上がるってわけ。ストッパーみたいな?」 「あんたが表に出てる限り、能登は死ねないってことか」 「そうだね。その点は安心してくれていい。ただ、僕が、僕の意志で死のうとしない限りは」 「しないと約束できるか」 「いまのところはね。まだヨシツネをからかって遊んでないし。やりたいこと終わるまでは大丈夫なんじゃない?」  そうだった。  妃潟が好き勝手やるとゆうことは。  ヨシツネさんに迷惑がかかるとゆうことに他ならない。 「どうして」  どいつもこいつもよってたかって。  ヨシツネさんを苦しめる?  なんとかしないと。  俺が。  俺しかいないんだから。 「どうしてもこうしてもないよ。これが最適解なんだから」  妃潟の声じゃなかった。  能登でもないとするなら。 「起きてたのか」 「むしろ寝てたと思うのがどうかしてるけど」屋島がベッド脇に立つ。「俺は賛成。ノリウキが帰って来るからなんにも問題ない」 「そいつは能登じゃない」 「言ってたこと何も聞いてないね。それか理解できてない?」屋島が言う。「ノリウキのフリしたノリウキのそっくりさんじゃないんだよ? ノリウキの記憶を持ってて、ノリウキと同じ思考をする人間は、ノリウキ以外にはいない」  駄目だ。説得とかそうゆうのの段階にない。  部外者でしかない俺が口を挟める状況にもない。 「わかった。他ならぬ屋島サンがそうゆうなら」 「おやすみ」 「失礼しました」 「ああ、明日起きて最初に会った瞬間から能登教憂になってるから。そのつもりで対応してね」妃潟が俺の後頭部に声を投げつける。  生返事をして自室に戻った。  時間差でノックが聞こえた。 「どうぞ?」筋トレを中断して顔を上げる。 「なんか納得してなかったみたいだったから」屋島だった。「言いたいこととか思ってることとかあると思うけど、何の意味も効果もないから。堂々としてればいい。何も後ろめたいことなんかない」 「本気で言ってるんなら、俺は黙ってるだけだ」 「ヨシツネさんに報告する?」 「生憎と連絡手段がない」嘘を吐いた。 「じゃあいいけど」  沈黙。 「用はそれだけか」 「ノリウキのトラウマって何?」 「俺の口から言わせるのか」 「聞く相手を間違えた。おやすみ」  ドアが閉まるのを見送って、筋トレを再開する。  俺が黙っていても、最悪のタイミングで妃潟が真相をバラすだろう。むしろその逆で、最悪のタイミングを逃さないために、俺に黙っていろと言ったのだ。  せめてヨシツネさんに降りかかる災厄を少しでも軽減できたら。  どうする。  どうすれば。  考えろ。時間はまだある。  気づいたら朝になっていた。全然寝た気がしない。  寝てないんだから、そりゃそうか。  日課のプールに向かう。  ここにいれば妃潟もとい能登に会わなくて済む。  いいのか。それで。  いまはそれしか。  ないんだろうか、本当に? 「群慧くん!」屋島が血相変えてプールサイドを走ってきた。「ノリウキが」  いなくなった。  状況を聞き流しながら心のどこかで安堵している自分が空恐ろしかった。  ああ、これで。  俺もヨシツネさんも。  妃潟にも能登にも苦しめられなくて済むのだと。 「どうしよう、群慧くん。俺」 「窓の外は見たか」 「え」屋島の顔の血の気が引いた。  悪夢は正夢に。 「いや、なんでもない。行くぞ」  どこに行くアテもないのに。  捜すフリだけしてやろうか。

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