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第2章 後半

     4 ――「どうして最初の被害者が出た段階でわたくしどもに報せていただけなかったのでしょう」 「無関係だと思ったんだ」 (『エリストマスク』より)  ****  ナビによると4時間。  少なくとも4時間は、密室の中で奴と同じ空気を吸っていなければならない。  ハンドルを握っているのが奴なので、道連れにするという最悪の選択肢だけは頭によぎらせないようにしなければ。  いまのところ機嫌がいいらしく、時折思いついたようにこちらに話しかけたり、下手くそな鼻歌を歌ってみたり、目立った害はない。雑音しか聞こえないラジオに耳を澄ませて、ありもしない渋滞情報を拾うのさえしなければ。  深夜と明け方の狭間。  どこかPAかSAに止めさせてその隙に逃げる。ことを考えもしたが、絶対に逃げられない気がしてならない。そんなことより奴の機嫌を損ねて、現地に着く前に死体にされたら本末転倒だ。 「俺、全然知らなかったよ。まさかリウが帰って来てるなんて」奴が言う。「俺、リウを追いかけてそっち行っちゃったから完璧すれ違いじゃん。おとなしく地元にいればよかったなァって」 「う、うん」 「気分悪い? 飲み物でも買おうか?」 「ううん、大丈夫。それより夜中の運転大丈夫? 疲れたなら無理しないで」 「知ってると思うけど、俺、夜型だから。朝までぶっ飛ばせそう。つうか、心配してくれてありがとねー。リウは優しいねェ」  寝たふりをしてもいいが、その隙に身体の方に傷を付けられても困る。  瞼は懸命に眠気を訴えるが、脳が絶対眠るなと言っている。 「寝てていいよー」奴が暢気に言う。「着いたら起こすし」  どこに向かっているのか。  それはさっき聞いた。だろうか本当に?  ナビで。  何時間?  駄目だ。思考回路も記憶すらもあやふやだ。 「ねえ、そんなに急いで行かなきゃいけないのかな」自分でも何を言っているのかわからなかった。「俺に記憶がないの、そんなにまずいこと?」 「まずいってゆうか」奴がうーんと唸る。「記憶トンじゃうくらいヤバかったってことでしょ。それ自体は嬉しいんだけど、やっぱあのことはさ、俺にとってもリウにとってもだいじなことじゃん? あれのお陰で、いや、あんなことなかったほうがよかったのか? あれ?」  危ない。  ハンドルを補助してなんとかことなきを得たが、前にも後ろにも車がいなかったからこそ助かったようなもので。 「あはは。ありがとねェ」  いま余計なことを考えさせないほうがいいということがよくわかった。  いっそ寝たふりをするか。  しかし、ふりができるかわからない。  ほら。  瞼が。  落ちてきた。  懐かしい夢を見た気がするが、起きた瞬間忘れてしまった。  起きた瞬間見えたのは、奴の恍惚とした顔。  やはりそう来たか。 「ああ、起きた?」声が上ずっている。「ごめん、寝顔見てたら我慢できなくなっちゃって」 「着いたの?」下半身の感覚を遮断して聞いた。 「もうちょい。外、明るいでしょ?」  外が明るいのに車の中で。 「やっちゃ駄目だと思うよ?」 「ケーサツ来るって? だいじょぶだいじょぶ。だって、ここ」  奴の家の敷地内だという。  そうか、相当の金持ちだった。  奴が絶頂に達するまで耐えた。 「リウがダしてないよ」 「俺はいいよ。それより」のしかかってくる重みを退けながら、ドアを開けた。「お腹空いたな」  こんな早朝に開いているのは、コンビニかファーストフードくらいだろう。逆流してくる酸い体液の味がマシになるなら何でもよかった。  奴が能登教憂(ノトのりうき)に思い出してほしいと思っている記憶は、すでに全部掘り起こしてある。  なぜ忘れたふりをしているのかといえば、能登教憂が忘れていたからに尽きる。  奴に感づかれると一番まずいのが、もはや能登教憂を表に出すことはないということ。  能登教憂を表に出せば、脇目も振らず死を選ぶ。  裏を返せば、能登教憂を護るためにやっているのだが、奴がそれを信じるとは到底思えない。だいじな親友が不当な目に遭っていると思い込みかねない。  テイクアウトして車に戻る。極力人の眼に触れないように行動する必要がある。 「やっぱ最初は小学校かな?」奴がストローを銜えながら言う。 「小学校って勝手に入れないと思うよ?」 「入らなきゃ大丈夫っしょ。周りうろうろしてみたりとか」 「不審者で通報されるだけだよ。やめとこうよ」 「うーん、じゃあ」奴がナビをいじる。「ここは?」  橋。  奴が、能登教憂の眼の前で転落した川だ。 「俺はいいけど。大丈夫?」 「何が?」奴が首を傾げる。 「変なこと思い出さない?」 「飛び降りたときのこと? うーん、どうだろ? とりあえず行ってみよーよ」  近くのパーキングに車を駐めて、橋まで歩く。 「雨降ってくればいいのにね」奴がポツリと言う。  欄干が低い。  違う。  あのときより大きくなっているだけだ。  あのとき?  あのときっていつだ? 「リウ?」奴が顔をのぞきこんでいる。「顔色悪いけど」 「ちょっと眩暈して」顔を離すために欄干にもたれかかる。「そっちこそ大丈夫?」 「俺はへーき。リウが思い出してくれるなら、もっかい飛び降りよっか?」 「冗談でもやめて」 「ごめん」  そもそも奴が飛び降りた理由(想像)は、とても常識では受け入れがたい狂人のそれで。 「ケガは大丈夫だったの?」話題を逸らそう。 「うん。てゆうか、あれ? リウ、あのあと俺に会ってないっけ?」 「ごめん、そのへんも記憶あいまいで」  大きな石の上に、くちばしの長い白い鳥が止まっている。この濁った川に魚はいるのだろうか。 「そっかぁ。俺が思ってるほど軽いアレでもないのかァ」  このまま記憶が戻らないふりをすれば、記憶が戻るまで連れ回されるのか。  じゃあ適度なところで思い出したことにして。  いや、思い出したらどうするつもりだろうか。 「ねえ、思い出したらどうするの?」恐る恐る聞いてみる。 「え、どうするってそりゃ」奴が言い淀む。「どーすんだろ? そこまで考えてなかった」 「何かやろうとしてることがあったとか?」 「うーん」 「俺が思い出せばそれでよかった?」 「そうかも」奴がポンと手を叩く。「それだ。リウが思い出してくれたら、あーよかった、てなる」 「じゃあ思い出すかもしれないから、話してみてよ」 「えー、それじゃ洗脳になっちゃわない?」 「洗脳? なんで?」えらく物々しく出たが。 「威圧的な取り調べと同じだよ。お前がやったって言われ続けたら、その苦痛から逃れるために、やってもないのにやったってゆっちゃうやつ。それにはしたくないんだよねェ。それとさァ」奴がこちらを見る。「いい加減、リウのフリするのやめてほしーんすけど? えっと、キサガタさん?でしたっけェ」  欄干に止まったカラスが啼いた。  すれ違ったベビーカーの赤ん坊だったかもしれない。 「こーみょーにリウのフリしてたぽいすけど、赤の他人ならいざ知らず、親友の俺には通用しない」  息を吸って吐く。  それだけの時間が経過した。 「メガネ置いてきたのが敗因かな?」 「いんや。あなたは一度俺の前に出てる。そっちじゃないすかね敗因」 「能登教憂のまま話したほうがいい?」 「どっちでもー」 「昨日寝る前に、大見栄切っちゃってるからね。能登教憂になるって。だからこのままいかせてもらうよ」能登教憂の喋り方と、思考を改めてダウンロードする。「思い出したせいで死にたくなってるんだ、穣生(じょう)」 「場所変えよっか」  穣生の実家に移動する。  早朝にも関わらず、相変わらずと両親の姿はなかった。  お手伝いさんが丁寧に挨拶をしてくれたが、穣生は適当にあしらって3階の自室に案内してくれた。  天井が高い。  広すぎて逆に居心地が悪い。 「座って」  お手伝いさんが時間差でお茶とお菓子を持ってきてくれたけど、穣生は廊下に置いといてと言って追い払った。 「昔からお節介で困るよ」穣生が苦笑いする。  ちょっと離れて座った。 「自分のせいで、て思ってる?」穣生が言う。 「なんであの子、名前が全然思い出せないんだけど、あの子が死ななきゃいけなかったのかわかんないんだよ」 「死にたがってた」 「知ってる。でも、死ななくてもいい方法を一緒に考えてあげるのが」 「あの子、飛び降りるときなんてゆったか、リウ、憶えてない? ありがとう、て。笑ってたよ」 「でも、やっぱり」 「だから一緒に共犯になってくれたんじゃん? 違う?」  能登教憂の記憶によるなら。  真実はそこにない。 「もし違ってたら訂正してほしいんだけど」前置きをして続ける。「俺があの子に気があったって、勘違いして」 「それは割とどーでも」 「じゃあ」 「せっかく死ぬってゆってるんだから、死ぬとこ見たいってゆったよ」穣生があっけらかんと口にする。「リウは止めにきたよね? でもうまくいかなかった。俺としてはそのことを悔いてるのがすっごく、心の底から嫌だった。だから死体にあんなことまでしたってのにさァ。挙句の果てにリウは怖くなって逃げちゃうし。ケーサツには俺がゆったとおり、ぜんぶ俺がやったってゆったんでしょ? 実際リウは何もしてないじゃん。堂々としてればよかったのに」  というのが。  平勢井穣生(ヒラセイじょう)が能登教憂のために用意したカバーシナリオ。  これなら能登教憂の心は壊れずに済む。  実際、壊れずに済んでいた。それどころかこの出来事ごと封印してしまった。  封印してしまった理由は。  親友に罪の一切をかぶせてしまった罪悪感から。  親友ひとりに罪をかぶせてのうのうと生きていけるほど、能登教憂の神経は図太くできていなかった。  というのも。 「嘘だよ」ぜんぶ。「ウソだよね」 「やっぱちゃんと思い出してくれてるじゃん」穣生が言う。  でも。  なんで。  開けても開けてもこの壺は。  底が見えないのか。 「リウに背負わせるつもりはないよ」ぜんぶ。「俺が持ってくから」 「それじゃあ、穣生が」 「俺はへーき。いままでだってへーきだったじゃん。でもどーしてもリウが納得できないってゆうんなら」穣生がこちらに近づいてくる。伸ばした両手を俺の首で交差する。「俺のこともヤっちゃっていーよ。そんで、動かなくなったらぐちゃぐちゃになるまで貫いて、ぽいってその辺に捨てちゃって」  ホシイナラ。 「俺のこと使って?」  耳に呼気がかかる。  ぞわぞわと。  背中をかけあがるそれは。  あの夜、塾をサボって同級生の女子が死ぬのを見に行ったあのときと。  同じ?  違う?  どう違う?  こわしてこわしてこわしたかったなにもかもを。  両親も兄も何の問題もなかった。まともすぎて逆に息苦しかった。  刺激が欲しかったのか。人と違うことをしてみたかったのか。興味本位だったのか。  どろどろと。  底のない壺から溢れてくるそれは。  真っ黒で。  落ちなくて。  叩きつけて注ぎこんで滅茶苦茶にできるなら誰でもよかった。  逆だ。  叩きつけて注ぎこんで滅茶苦茶にできる誰かを探していた。  いた。  それが、  平勢井穣生だった。  平勢井穣生がこうなったのはすべて、  能登教憂が叩きつけて注ぎこんで滅茶苦茶にした真っ黒いそれのせい。  風邪を他人に感染せば治るのと同じ。  毒が侵蝕しただけ。  ぱちんと爆ぜる。  電撃か轟音か。  藤都巽恒(フジミヤよしつね)が地獄から黄泉返らせた(と思い込んだ)妃潟閑祝(キサガタならしゅう)の化けの皮を被って。  その実、蘇ったのは。  能登教憂から残らず平勢井穣生に伝染した(はずの)真っ黒い暗澹のそれ。  これ以上壊せなくなった使い古しのガラクタは、まっさらな新品に取り換えるに限る。  人間の外観は2種類ある。  今度は使ったことのない型にしようと思うのは必然至極。  選り取り見取り。しかし慎重に選び出す。  悲鳴は静かな方がいい。助けを呼べない方がいい。  不当な目に遭っている方がいい。  地獄の中で溺れている方がいい。  見つけたらあとは。  引きずり落とすだけ。  死への希求は、新たに作られたものではなく、そもそもあったものを増幅させた。  競技大会か演奏技術の発表会が如く、それは執り行われた。  たった3階では、即死は見込めない。  痛みに耐えながらまだそれは生きていた。  ぶち、と。  映像が途絶える。  砂嵐と耳障りな警告音。  コノ さき ヲ さいせい シマスカ?  みマスカ?  きキマスカ?  ああ、やっと。  壺の。  底が。 「だ、めだよ」絞めている首が喋る。「それ、いじょう、は」  死にたがっているのなら。  死なせてあげればいいだけのこと。 「だ、めだ」  うつ伏せを仰向けにひっくり返す。  布を剥ぎ取って。  雨で。  手が滑る。  力を込める。 「そん、なこと、したら」  手の痕が残る。  手を離す。  むせる気力も残っていない。  口と鼻からでろりと何かが垂れ流れてくる。  雨がぜんぶ洗い流す。  ホースを突っ込んで。  証拠を消す。  足を引きずって。  呼吸も心臓も止まった。  壊れかけのガラクタが、壊れたガラクタを犯す。  何を、  しているのかよくわからなかった。  真似?  同調? 「だいじょうぶ。おれが、やったことにするから」  なにを、  ゆってる? 「リウは、なんにもしんぱいしなくていいから」  そのときのガラクタの表情があまりに幸せそうで。  意味がわからなくなって。  逃げた。 「だいじょーぶ。だいじょうぶだから」ガラクタが追ってくる。  雨のせいで何度も足が滑った。 「リウ!」  耳を貫通した音で思わず振り返る。  ガラクタが、  橋の欄干に立っていた。 「見てて!!」そう言ってガラクタは、にっこり笑って、その表情のまま。  逆さに。  川に落ちた。  雨のせいで音が聞こえない。  通りかかった人が救急車を呼んでいる。  濁流。  なんで?  なんでそんなことする?  わからない。  ぜんぜんわからない。 「あのとき川に落ちたのって」蒼白い顔に気づいて手を離す。  穣生がむせる。  涙と涎で顔面がひどいことになっていた。 「あれやんなかったらリウ、頭ん中、あの女子でいっぱいじゃん。それはヤだったんだよねェ」  それだけの、  ために? 「落ちたの?」 「うん」穣生が笑う。「死んじゃってもよかったんだけど、悪運強くって、生きてたけどねェ」  歪んでいる。  歪ませている。 「リウは気にしなくっていいよー。また会えたのが奇跡みたいに嬉しいよ」  歪な。  歪み。  壊れていたのは。  壊したのは。 「今度こそ、殺してくれる?」リウが俺の両手を自分の首に添える。  駄目だと言っている。  殺せと言っている。  どっちが、  正しい?  力を込めろ。  手を離せ。  同じくらいの強さで両極の命令が鳴り響く。  どっちに従う?  ちがう。  どっちも従わないと。  どうなる? 「ずっと羨ましかったんだァ。あいつだけ。なんで。俺の方が先にリウに見つけてもらったのに。なんであいつはリウに■してもらって、俺は。俺は■してくれないの? そんなの、ずるいよ」  音声ファイルの一部が壊れていて、特定の語だけ音飛びしている。  認識を、意味を、放棄したい意志が自動で検閲する。  ■してなんかない。  勝手に■んだんだ。  ■ってない。  じゃあこの両手に、両の指に残る、生々しい感覚は。  一体全体なんなんだ?  罪悪感で痩せ細って不眠に陥った和装の似合う色素の薄い彼の白い首を絞めたのは。  男遊びで帰ってこない母親を家に連れ戻すための唯一の方法と信じさせて飛び降りて死にかけた女子に最後の一押しで細い首に手をかけたのは。  前だ。  それよりもっともっとずっと前。  穣生を■そうとした事実を反転させて、自分が■されそうになった偽の記憶を壺に封じた。  貫いて。  だって穣生がこんなにもおかしくなったのは。  首に。  穣生が俺を■そうとしたことなんか一度だってない。  指を。  やっていない。  やった。  していない。  した。 「いいよ」  よくない。 「やって」  やらない。  やれない。  雑音が多くてよく聞こえない。 「■さないならせめて、こっち。欲しいなァ。ねェ、ちょーだい?」  妃潟なんて男は、最初から生き返ってなんかない。  能登教憂もいなくなっていないし、ましてや死んでなんかない。  狂気に堕ちてもいないし、徹頭徹尾正気のまま。  金切り声と重低音が脳髄を揺らす。  ■したかったのか。  壊したかったのか。  犯したかったのか。  ぜんぶ。  ちがう。  おなじ。 「リウ、きもちいよ」  こうすると。 「もっと気持ちがいいよ」  ほ  ん  と  だ  どこかの誰かが言う。 「リウが困ってるの、知ってるから」  どこかの誰かが言う。 「そうだなぁ。リウを助けるには」  どこかの誰かが言う。 「決めたよ。俺」  どこかの誰かが。  言ってた気がする。 「リウの力になるために、医者になるよ」  だ  め  だ 「リウ?」  やっちゃいけない。  殺してはいけない。 「どうしたの?」  生きてる。  まだ。  間に合う。 「穣生、ごめん」  ベランダに出る。  風が。  ちょうど、  3階。  あのときと、  同じ。 「リウ!?」  悲しんでるのか怒ってるのか。 「ごめんね」  メガネがなくて。  見えないや。  さよなら。      5  ――「ヨシツネさまがいなくなったら淋しいな」 「んで、俺のこと好きとかゆうたらぶっ殺すえ?」 (『多詰みは足る』より)  *****  キサと呼んで返事をしてくれるなら、  このごっこ遊びを続けてくれるのなら、  悪魔だって何だってよかった。  能登君がキサじゃないことはわかっていた。  キサは、俺と先代の見分けがつかない。  見分けがつかないので、俺に対して怨みを抱いていない。俺をいじめたりしないし、俺に嫌がらせもしない。  況してや、俺をいじめることに至高の悦びを感じたりなんか絶対にない。  キサは決まっていつも悲しそうな顔で、俺を見ていた。  見ていただけ、それだけ。  椅子に力なく座っている男の首をつかんで持ち上げる。 「お前がやりよったんやろ?」  男――比良生禳(ヒラせいじょう)は何も言わない。 「お前が」 「やめろ。こんなところで」社長さんが止めに入っているのを。  遠くで傍観者みたいに眺めている自分と。  比良生禳を床に力任せに叩きつけている自分とが分離する。  能登君が意識不明の重体で救急搬送されたという、最悪な情報を受け取ってすぐ新幹線で向かった。社長さんは仕事を放り出してついてきた。一人でも向かうつもりだったので、どっちでもよかった。  俺への嫌がらせのためのガセであることを願ったが、情報の出所が朝頼(トモヨリ)アズマなので、ガセ情報で踊り狂う俺を見物するより、最悪の情報そのものを突きつけて俺を苦しめたほうが、奴らのやり方に適っている。  自称妹が仕組んだことなのか、俺と同じ顔の黒いのが謀ったことなのか。はたまた二人の共謀なのか。どれでもいいし、もう何でもよかった。  この透明な壁の向こうに、能登君はいる。  限りなく死に近いところでかろうじてこの世に留まっている。 「お前が能登君攫って殺そうとしよったんはわーっとる。金輪際そのツラ出しよったら」 「なんもわかってないのどっちだよ」比良生禳が身体を起こしながら呟く。 「あ?なんやて?」 「部外者は黙ってろってゆったんすよ。リウのことなんにも知らないで」 「もうやめろ。能登が見てる」社長さんが息を吐く。「ツネも。こいつと取っ組み合いするために来たんじゃないだろうが」  わかっている。わかっているが。 「奢ってやるから外出るぞ」社長さんが言う。「お前も。ほら、えっと」 「平勢井(ヒラセイ)す。気ィ遣わせちゃってすんません」  比良生禳は配信用の偽名か。  本当にまったくもってどうでもいい。  病院から徒歩圏内の喫茶店に入る。とっくに昼過ぎているのでモーニングは終わっていた。  社長さんと平勢井はアイスコーヒー。俺は果肉がごろごろしている柑橘ジュースにした。 「何があった?」社長さんが気を回して口火を切ってくれる。「俺が邪魔なら席を外してもいいが、乱闘騒ぎになっても困るからこいつを飲み終わるまでは居させてもらう」 「へえ、空になったら?」平勢井が肩を竦める。 「こいつを引きずって帰るだけだな。言いたいことがあるなら早めに言っておけよ」  社長さんのお陰で頭が冷えてきた。単に氷を噛み砕いたからだけかもしれないが。 「リウは」 「そのお話、俺も一緒させてもらっていい?」見知らぬ女性がテーブル脇に立っていた。「平勢井穣生(ヒラセイじょう)くんだね。お久しぶり。俺のこと、憶えてるかな?」  話しかけられたはずの平勢井が完全に虚を突かれた顔になっている。 「あンれ? 憶えてくれてない?」女性はポケットをごそごそしてから大げさに肩を落とした。「あちゃあ、そっか。手帳とか持ってなかったな。これじゃフツーに身元不明の不審者じゃん」  黒髪を首の後ろで結わえて、縁なしのメガネ。薄いベージュの上下スーツ。見た目だけなら公務員かOLに見えなくもないが、如何せん、言動が伴っていない。こちらを油断させるテクニックだったら大したものだが。 「おねーさん、なんやの?」話が進まないので間に入った。 「げ。やっぱ、おねーさんに見えちゃってるかぁ。まぁいっか。ここ座っていい? 俺も注文するね。ボタンこれか」店員を呼びつけてホットサンドとクリームソーダを頼んでいた。「ごめんごめん、お昼食べ損ねちゃっててさ。心配しないで。自分の分は払うし」 「なんだって?」社長さんが俺を見る。 「知らん知らん」 「あ」平勢井があんぐりと口を開けて、指そうとした人差し指を自主的に折った。「あのときの」 「アタリ。でももうケーサツじゃないんだなぁ。クビじゃないよ? 部署移動ってやつでね。名刺もなんもないから俺が嘘言ってるかもしれないって、疑いながら話したほうがいいかもね。通称対策課で課長やってます。胡子栗(エビスリ)です。胡子栗さんて呼んでね」  通称対策課?  なんだそれ。 「はい自己紹介。平勢井くんは知ってるから、そっちのカンサイ弁の君から」  逆らうと面倒くさそうな雰囲気がぐいぐいと感じられたので仕方なく名乗った。社長さんも続いた。 「藤都(フジミヤ)くんと、岐蘇(キソ)くんね」胡子栗さんとやらが俺の顔をじっと見た。「ところで君、なんかどっかで」 「俺を捕まえに来たんすか」平勢井が言う。 「なんで?」胡子栗さんが首を傾げる。「俺もうケーサツじゃないから逮捕とかできないよ?」 「じゃあなんで」 「能登教憂くんは自分で?」 「止めたんスけど、間に合わなくて」 「そう。じゃあ、追跡サポートが出来てなかった俺の責任だね。平勢井くんのせいじゃないよ」  沈黙。  胡子栗さんの注文した料理が運ばれてきた。 「お腹空いてるし食べながらでいい?」大きな口でホットサンドを一口。「やっぱここの美味しいわ。このふわっふわのパンが最高なんだよね。えっとなんだっけ。そうだったそうだった。平勢井くんも能登くんも生きてる。だいじなのはこれからどうするか。じゃないな。どうしたいか。まだまだ若いのに、そんな世界が終わったみたいな顔しない。聞いたよ?君、医学部入ったんだって? しかもあの超難関の羅城(らじょう)大学に、ストレートで? そんな有望な青年をこんなところで失わせるわけにいかないってね」 「よく知ってますね」平勢井が眉をひそめながら言う。個人情報が垂れ流しなのがお気に召さない様子で。 「言ったでしょ? 追跡サポートしてるって。それに君、あんなに目立つ方法で顔出し配信なんかやっちゃ駄目だよ。誰が見てるかわかんないんだから」  なるほど。比良生禳の身から出た錆じゃないか。 「で。ここからが提案なんだけど」胡子栗さんがおてふきで口元を拭ってから言う。バスケットは空っぽになっていた。「能登くんが飛び降りたところを見てた君には、ケーサツがいろいろ聞きたいことがあるんだって。でも俺に全部打ち明けてくれるなら、その鬱陶しいケーサツにはこっちから報告しておいてあげる。さあて、君はどっちとデートしたい?」 「あのときもそうだったすけど」平勢井が息を漏らす。「胡子栗さん、やり方が汚いすね」 「そう? あのときよりは成長してるはずだから、あんまり甘く見ないほうがいいかもよー?」  あっという間の出来事だった。  胡子栗さんは最初から平勢井だけが目当てだったらしく、おそらく病院から付けていたのだろう。  4引く2は。 「病院戻るか?」社長さんが言う。伝票を確認しながら。「あの人何だったんだ?」 「元ケーサツなら俺のことどっかで見てはったんかもな」 「範囲広すぎないか」 「足代払うてくれはったらどこへでもな。ほな、いこか」  社長さんが複雑な表情をしたが無視して外に出た。  いますべきは俺の仕事のことじゃない。  能登君は相変わらず透明な壁の向こう側で。予断を許さない状況は引き続いているようだった。 「活きのいい女装男が重要参考人を攫ったろ?」女性の医師が話しかけてきた。  思わず社長さんの陰に隠れた。 「なんだ。女性恐怖か?」 「すみません」社長さんが代わりに口を開いてくれた。「胡子栗さんとやらのお知り合いですか?」 「まあそんなところだ。あいつが名乗ったなら私も名乗っておくか。瀬勿関(セナセキ)という。精神科医だ。能登教憂が眼を覚ましたら、私の担当になる。まったくどいつもこいつも。もう少し命ってものをだいじにしてもらいたいもんだな。一つしかないことを忘れていやしないか」 「自殺なんですか?」社長さんが聞いた。 「未遂だ。勝手に殺すな」瀬勿関先生が壁の向こうを顎でしゃくる。「お前らは能登教憂の友人か?」 「俺は違いますけど、こいつは、まあ」社長さんが適当に濁した。 「もうすぐ親が駆けつける。親より先にどうやって嗅ぎつけたかは知らんが、トンズラするならいまだぞ」 「ご忠告どうもありがとうございます。行くぞ」社長さんに腕を引っ張られて病院の廊下を抜ける。  確かに能登君の親と遭遇したらそれこそどうしたらいいかわからない。後ろめたいことがないかといえば嘘になる。  外観は見なかったのでよく憶えていないが、あの精神科医は悪人ではないのかもしれない。  見上げた空がやたらと青い。 「どうする? 帰るか?」社長さんが言う。 「寄りたいところがあるねんけど」  元々の人格の出身はこっちらしいが、そっちの人格のことはよく知らないので調べていない。  キサと初めて会ったのは。  あの冬の、雨の日の夕方。 「なんも言わんとついてきてくれる?」 「ああ」社長さんが面食らったようで反応が遅れた。「別に構わんが」  新幹線で移動。  バスだと路線がややこしいのでタクシーをつかまえる。桜もほとんど散ったので渋滞もそこそこ。毎年桜と紅葉の時季は地上の交通機関が麻痺するので終わってくれていて助かった。  店は跡形もなくなって、駐車場になっていた。よくあることだ。  タクシー内から確認できたので、再び移動。  アパートも消えて、ホテルになっていた。これもよくあることだ。  マンション。と思ってやめる。あの建物は低反発の持ち物だった。  結局ターミナル駅まで戻ってきてしまった。 「行きたいところがあったんじゃないのか?」タクシーを降りてから社長さんが訊く。 「全滅やわ。お前と会うよりずっと前のことやさかいに。今更何ものうても驚かへんよ」  ふと、眼に入った。百貨店の催し。  イタリアフェア。  平日にもかかわらずかなりのごった返しだったが、目当てのものは見つけた。 「社長さんこれ買うてよ」 「甘くないか?」社長さんは俺の味覚が甘党と真逆だと思っている。  抹茶もブルーベリーもレアチーズもチョコミントもないけど。  シェイク状になっていなければどれでもおんなじ。 「ねえねえ、俺の分は?」突如ビャクローが飛び出してきた。 「付いてきてたんかい」 「ツネちゃん護るためならどこへでもってねー。おデイトの邪魔はしないからお気になさらず」語尾をフェイドアウトしながらまたもどこぞへ消えた。ジェラートを持ち逃げしながら。 「今度こそ帰ろか。疲れたわ」  新幹線に乗ったら眠気がやってきた。 「気が済んだなら良かったな」と、社長さんの声が遠くで聞こえた。  キサに所縁の場所を尋ねたはずがすべて空振りに終わったフラストレーションのせいか、  キサの夢を見た。  けど、  起きた瞬間全部忘れた。 「着くぞ」社長さんの声がすぐ耳許で聞こえた。 「ああ、おおきにな」  夕方を回っている。社長さんは仕事に戻るらしい。時間差でヒデりんの甲高い声が聞こえた。  眠い。  このまま寝たらさっきの夢の続きが見れるだろうか。  ビャクローが床に転がっているのが見えた。 「おま、新幹線の上に乗ってたとかゆわへんよね?」 「さすがのビャクローちゃんでも無理ムリだねえ。ツネちゃん、ちゃんとお別れできるじゃん」 「ついでやついで。能登君が生きてはって」良かったと言おうとする語尾を遮られて。 「ツネちゃん、生き映し君にしばらく会わないほうがいいね」ビャクローが正面に座っていた。「俺が言ってる意味わかる? それと、もう一人、だいじな人にもお別れ言ってくんだよ」  返事をせずに立ち上がる。 「チューザちゃんのとこ行くんでしょ?」  ベランダの窓を閉める。ビャクローが出入りするといろんな出入り口が開けっぱなしで困る。 「チューザちゃんのとこ行ったら、ここには帰ってこられないよ?」 「ばりばり喰われるんか?」言ってておかしいと思ったが、笑えない冗談だと自分でもわかっていた。  果ては人体模型か、カニバリズムの餌食。  まともな老後が保証されないことだけは確かだ。  夕飯の買い物をして、2階の台所に立った。  そう言えば社長さんの好物を知らない。最後くらいリクエストを叶えてやるべきだったか。  最後。と思って首を振る。  前髪が眼にかかって邪魔だっただけ。 「作ったのか」社長さんが様子を見に来た。匂いに釣られたのだろう。「戸締りしたら行く」 「ちょうど盛り付けるとこやわ。ゆっくりでええよ。あ、ヒデりんは」 「とっくに定時で帰ったが」 「そか。ならええわ」  二人。と思って首を振る。 「ツネちゃん俺の分は?」絶妙なタイミングでビャクローが手元をのぞき込む。「おおー、オムライス。ツネちゃん器用だね。これどうやって巻くの?くるくるー」 「教えたとこでお前やらへんやん」 「そだけどー」ビャクローは皿をかっぱらってどこぞへ消えた。  社長さんが階段を上がってきた。席に着かずに立ち尽くしている。視線はテーブルの上。 「食べへんの?」 「ああ、そうだな」  お互いそこそこ空腹だったせいもあって、早々に食事は終了。片付けは二人でやったので手際よく済んだ。  さて。 「先風呂行ってええか」 「俺は寝る前でいい」社長さんはデスクに分厚いテキストを広げてPCを立ち上げた。「明日の予習がある」 「そか」  今日の次は明日で、明日の次が明後日。  時計だってカレンダーだって、勝手に進んでいく。  バスタブに湯を張りながら、水面を眺める。 「ツネ。いいか」社長さんがドアをノックしている。「シャンプーの補充は棚にあるから」 「わーっとるわ」  そんなこと、わざわざ言わなくても。  社長さんの家の使い勝手なんか、社長さんよりよく知ってるってのに。 「ツネ」社長さんがまたドアをノックする。 「今度はなんや?」 「入浴剤切らしてた」 「先にゆうてよ」 「買ってくるか?」 「いまから?」 「ないとお前困るだろ?」 「せやけど」いまから行かせるのはさすがに気が咎めるが、自分はすでに服を脱いでるし。 「行ってくる。レモンかゆずでいいだろ?」 「あ」おおきにも別にも言う前に、ドアがバタンと開いて閉まった音がした。  なんか。  感づかれてないか?  髪と身体を洗う。待ちきれなくなったら上がってしまおう。  湯に浸かってぼんやりしていたら、どたんばたんと階段を駆け上がる音がして。 「遅くなった」社長さんが脱衣場のドアを開けた。シルエットが見える。「ここ置いとく」 「ああ、ちょい待ちぃ」 「なんだ」 「走って汗かかはったやろ? 入らへん?」  沈黙。 「狭いだろ?」社長さんが言う。 「そう思わはるんやったら大きいの作ったらええのに」 「シャワー派なんだ」 「俺はでっかいの好きやさかいに」 「そうだったな。お前んとこ、でかいのがあったな」  沈黙。  ぽたんと、雫が落ちる。 「入ってええよ」 「そういう意味に取るぞ?」 「そうゆう意味でもどないでも」  ビャクローの気配がなくなっていたので気を使ってベランダか屋根の上にでもいるのだろう。 「あ、トモヨリの」眼と耳があったか。 「見たきゃ見ればいい」 「えらく強気やね」  浴室の照明が薄暗くなった。社長さんが調節した。 「レポート書かなあかんのやろ?」 「忘れた」 「単位取れへんでも知らへんよ?」  入浴剤を買いに行くのにかこつけて、社長さんが買って来たものが、隠しもせずにベッドに置いてあった。  あからさますぎて逆に笑えてきた。  こっちは気が散って入浴剤使いそびれたってのに。 「何考えてる?」社長さんが至近距離で睨む。 「なんも」 「嘘吐くな。なんか隠してるだろ?」  隠してはいない。言っていないだけで。 「お前が秘密主義なのは知ってる。でも俺は」 「社長さんにゆうてもどうにもならへんのや」  右手で左手首、左手で右手首をつかまれて、頭の上で押さえつけられる。 「何のつもりやろか」 「また勝手にいなくなろうとしてただろ?」 「それがなんやろ?」  社長さんが吐いた溜息が、鼻先にかかる。 「わかってる。二度と会えないところに行くんだろ?」 「行ったらなんやの?」 「頼むから、急にいなくなるのだけはやめてくれ。止めないし、止められないのはわかってる。だからせめて、いなくなるときはいなくなるってゆってから」 「明日出てくさかいに。もう二度と帰って来れへん。これでええ?」  社長さんがきつく眼を瞑る。  手首を拘束する力が強まる。 「そのために俺のとこに寄ったのか?」 「そのため、がどこにかかるかわからへんけど、気ィついたら社長さんの店の前におったな」 「別れを言いに来たのか」 「言うつもりはあらへんかったんやけど」  ビャクローが。  もっともらしいことを言うから。 「社長さんは俺の客と違うさかいに」 「客じゃないから別れは言わないのか」 「客には言わへんよ。俺のレンタル要綱知ったはる? どないに払うても半日。半日経たはったら返却やわ」  そうか。  別れを。  したことがないのか。  やり方がわからない。  もう会えないと泣けばいいのか。  また会いたいと笑えばいいのか。 「死ぬから会えないのか?」 「わからへん」首を振る。 「じゃあ、生きてたら、生きてたらでいいから、もし、行くところがなかったら、ここに、俺のところに」  その先を耳で聞きたくなくて、口を塞いで音を飲み込む。  そんなに必死に言わなくたって。  帰るところなんかそんなにない。  追いかけられないほど足腰立たなくなるほどヤってやったら起きてこないだろう。  夜のほうが動きやすい。  音を立てないように着替える。  たぶん、社長さんは。  寝たふりをしている。  ことを気づかないふりをしているのを。  こちらもわかっている。  力尽くも泣き落としもしないところが。  社長さんのいいところだ。  外は風もなく月もなく。  上から白い塊が降ってくる。 「ツネちゃんにしては頑張ったんでない?」ビャクローが裾に付いた砂を払いながら言う。 「もっと動きやすい服にしはったらええのに」  丈が長くて、袖も開いていて、ひらひらする布を羽織っているかのようなシルエット。飛んだり跳ねたりすることの多いビャクローにはデメリットしかない気がするが。 「えー、この百年で一番似合ってるって、ひょーばんなんだけどなあ」 「どないでもええわ。自称妹んとこ連れてってもらおか」  タイミングよくやってきた車(おおかたビャクローが呼んだのだろう)で向かったのは、とある会員制ホテル。内装に既視感があるのは、同じ系列の別のホテルに行ったことがあるからかもしれない。  闇。  家具と壁の配置を知っていて助かった。  ぼや、とオレンジ色の明かりが浮かぶ。 「お待ちしていましたわ、お兄様」自称妹の口元が見えた。「そちらの椅子にお座りになって?」  丸テーブルに、空席が二つ。 「そこのドアに張り付いたはる、黒い奴はええの?」  ケイちゃんを連れ去った同じ顔も室内にいた。  その脇に、ケイちゃんも所在なく控えている。  眼を。  合わさないように、正面の闇を睨んだ。 「イニシャルがGの害虫でしたら」自称妹が自分の顔を自分の腕で支えた。頬杖ともいう。「放っておいたらよろしいのよ。罠に引っ掛かって死ぬ運命なのですから」 「名前を知らへんのやけど?」立ったままの黒い奴に向かって言った。 「私の発言許可がない」黒い奴は、顔の前で手を振った。 「せっかく来ていただいたお兄様にお伝えしたいことがございますの。お座りになって?」 「あいつはええの?」 「わたくしは、お兄様に、お座りになってと、お声をおかけしているのです」自称妹の語調が険しくなった。  おとなしく従ったほうがよさそうだった。  ビャクローが大袈裟に肩を竦める。 「立ち去れと言われないだけマシと思っていただきたいものですわ」  どっちに言ったのだ?  ビャクロー?  黒い方? 「さて、お兄様。お約束の期日にはだいぶお早いように思えるのですけれど?」 「早う来たら早う終わるのと違うん? やることやってとっとと終わらせてくれへんかな」 「まあ。わたくしのやろうとしていることは、“やることリスト”ではありませんのよ?」自称妹がくすりと笑った。「取りかかりに早いことに越したことはありませんけれど。お覚悟の問題ですの。お兄様に、お母様をぶち殺す覚悟がおありなのかどうか」 「は? 何しろ、ゆうて?」 「耳が詰まっておいででしたら、わたくしの膝枕で耳掃除をして差し上げますわ? 単なる聴力の問題でしたらお医者を紹介するほかありませんけれど」 「どっちも要らへんわ。なんじょう俺が」 「お兄様はこのまま人体模型になってもよろしいの?」 「人体模型にならへん未来があらはるゆうんならな」 「ありますのよ。わたくしが創って差し上げますわ。お兄様がお兄様として生を終えられる未来を」 「嘘くさ」 「そう思われるのも無理はありませんわ。わたくしのことを信用できないのでしょう? ではその証拠を見せますわね。お兄様のだいじな、不動産会社の」 「あいつに、なんかしよったら、ほんまにお前、ぶっ殺したるさかいにな」 「何もしていませんでしょう? それが動かぬ証拠ですわ」自称妹がテーブルの上で手を組む。 「まだ、何もしてへんだけやろ? まだ」 「まだどころか、未来永劫何もさせないとお約束しますわ。お兄様に言うことを聞かせたかったのなら、あの方を人質に取るのが一番早いし確実ですのに、わたくしはそれをしなかった。させなかった。そこを信じて頂きたいものですわ」 「ほんまなん?」ビャクローに尋ねる。 「チューザちゃんよ」ビャクローが下を向いたまま言う。 「朱咲(すざき)。もしくはスーザとお呼びになってと、あれほど」自称妹が大きく溜息を吐く。 「じゃあスザキちゃんよ。ツネちゃんに殺しは無理じゃないかいね?」 「ではあなたが殺して下さるの? あなたに命令を下している、大本の存在に。できないでしょう? できないからわたくしは」 「それでもツネちゃんには無理だよ。ずいぶんと酷な話じゃないかいね?と思うわけだよ、最年長のビャクローくんは」 「わたくしが代われるものならそうしていますわ」自称妹が言う。「お兄様? お兄様以外にこの暗殺作戦が不可能なのだと、懇切丁寧に説明して差し上げますわ? 今宵は、朝までお付き合いいただける?」  イエス以外の選択肢が封じられている。  相手をいいなりにすることに長けている。  厭な。  女だ。 「いまわたくしのことを厭な女だと思われたでしょう?」自称妹の口元が上がる。「お兄様の欠点は、お顔に出やすいところですわ。作戦決行までに直していただかないと、お話になりませんわね」  ああ、本当に。  厭な女だ。 「聞こえていますわよ?」

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