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2.見知らぬ優しさ
数分、経っただろうか。
「はぁ………はぁ………」
先程まで激しく口から出ていた白い吐息は、徐々に小さくなり、一定のリズムを保てていた。
ーーー苦しくない……。
「……大丈夫か?」
恐る恐る様子ををうかがう速生の問いかけに、夕人は黙って頷いた。
息をゆっくり吸って、吐く。大丈夫。ちゃんと呼吸出来る。
その姿を見て、速生は安堵の息を吐いた。
「はーー…良かった。ほんと、死ぬかと思った…いや、死ぬってその、そういう意味じゃなくて、見てる俺の方が苦しくてって意味で……いやいや何言ってんだ俺。
その、本当に、大丈夫か?痛いとことか、ない?」
夕人は涙で濡れた頬を手で拭って、鼻をグスッと啜ると、顔を上げた。
しゃがんだまま心配そうに自分を見つめている速生の顔。初めて、落ち着いて、きちんと目を合わせることができた。
「大丈夫……です…」
ーー恥ずかしい。情けない。俺、何やってんだよ。
いきなり苦しくなって、知らない人に助けてもらって。
自分ひとりで、こんなにも、何もできない…
急にいろんな感情がこみ上げてくる。夕人はまたうつむいて、立ちあがろうとした。
「おいっ!無理して立たない方が…」
酸欠だろうか。呼吸が整って間もないせいか目眩がして、一瞬よろけた時、速生は急いで立ち上がり、夕人の肩と背中に手を回して支えていた。
(!……細すぎじゃねぇか)
華奢な身体。自分の掛けたジャケット越しでもわかる、腕に寄りかかる細く頼りない背中に驚いたが、まだどこか泣きそうな顔をした様子の夕人を見て、はっとして慌てて手を離した。
「大丈夫…?」
「っ……ごめん…、なさい……」
「なんで、謝んの。何も悪いことしてないから、大丈夫」
その言葉に夕人は、息を整えて、気まずそうに顔を上げる。
立っている速生の姿を、改めて見た。
すらっとした背、170cm…もっとあるだろうか?
五分袖のスポーツウェアからのぞいている日に焼けた長い腕は筋肉質で、華奢で細身な自分とは大違いだと思った。
ーーー高校生?いや、もしかしたら大学生…?
大人びた速生をきちんと見て、
きっと自分よりもだいぶ年上なんだろう、と思った。
どことなく感じられる包容感。
まさか、自分と同い年だとは思いもしない。
速生は、心配そうに、まっすぐ夕人の顔を見つめていた。
「…………」
吐息は白く、辺りはますます冷え込んできたように思えた。
その時はっとした。速生は自分にジャケットを貸してくれていた。
「あの、上着…ごめん……なさい。寒いのに」
“ありがとう”の一言が、なかなか口から出ない。
夕人が肩に羽織ったジャケットを返そうとすると、速生はそれを止めた。
「いいから、着てて。俺、全然寒くないから大丈夫。暑がりだからさ、あっ、ちょっと前まで走ってたからかな?……とにかく、大丈夫だから」
心配させまいと、まるで理由を探すように、“大丈夫”を繰り返す速生のことが不思議に思えて仕方なくて、夕人は戸惑いの表情を隠せなかった。
速生は夕人の顔を覗き込んだ。
「こっち、見て?」
その言葉に、夕人はもう一度、速生の方を見上げた。
「顔色、良くなったな。よかった。」
安心したように、速生は柔らかな笑みを浮かべた。
ーーーなんで、どうしてここまでしてくれるんだろう。見ず知らずの自分に。
夕人には、本当にわからなかった。
それは、善意?優しさ?親切心から?
ーーーこの物騒な時代に、そんなお人好し、本当にいるのか?
理由ばかり探してしまう、疑り深い自分が、心底嫌で。
「あのさ、家、近く?良かったら、送るよ。
あっ、もし嫌なら、途中まででもいいから…。
心配なんだ、だからさ…」
このまま1人で帰らせるわけにはいかない、と思った。見た限り手荷物も無く軽装なので、おそらくそんなに遠くから来たようには感じなかったが、まだ足元も不安定に見えて、1人で歩いていて何かあってもいけない。
そして、純粋に、放っておけなかった。
「いや、そんな……」
さすがにそこまでしてもらうわけには、と言葉を遮った時だった。
「夕人っ!!」
後ろから母の声が聞こえた。
「あっ……母さん… 」
母は息を切らしながら、夕人のそばに駆け寄った。
夕人が母に散歩してくると告げて出て行ってから、1時間近くが経っていた。
いくら待っても戻ってこないのを心配してあたりを探していた母は、不安な表情で近寄ると、夕人の無事を確認した。
「遅いから、心配するじゃない…なに、何かあったの?
……こちら、どなた?」
怪訝そうな顔で、速生を見た。
「いや、あのさ、その……」
夕人は状況を説明しようとしたが、ためらった。
まさか突然発作のように苦しくなり、通りかかった見ず知らずの人に助けてもらってた、なんて。
ただでさえ心配しがちな母が知ったら、どう思うか。
これから新生活が始まって、たくさん、大変なことが待ってるというのに。
これ以上、不安事を増やしたくないと思った。
夕人のその言葉をためらう様子を見て、速生は全てを察した。
「いやーすみません!えっと…俺、ちょっと迷っちゃって。道を教えてもらってたんですよ。
そしたらわざわざ案内してくれて…その、ここのバス停まで!」
咄嗟に思いついて口から出たでまかせの言い訳はだいぶ苦しかったが、ここまでくると速生も引けなかった。
「そう……なの?夕人?」
「えっ、いや…その……えっと」
母の怪訝な表情に、夕人は違う、と否定しようと思ったが、ほかに言い訳が思いつかず、困った表情で速生の顔を見た。
「な?ほんと、助かったよ、ありがとう。
でも…せっかく案内してもらったけど、ここのバス、今日は年始運休みたいなんで…
俺、走って帰ります、それじゃ!」
「あっ!…待っ……」
夕人の言葉を遮って速生は素早くお辞儀すると、すぐさま走り出した。
「今の話、本当なの?夕人。何かされたりしてない?大丈夫?」
「……」
ーーまだ、お礼も言えてないのに。
追いかけることもできず、ただ、遠くなっていく速生の後ろ姿を、夕人は見ていた。
「ほら、寒いし早く家に戻りましょう。また風邪でも引いたら大変ーーー、
あら?……夕人、そんな上着持ってた?」
「いや……………、うん…」
嘘をついた手前、誤魔化すしかできない。
ーーどうしよう、名前も聞けなかった。
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