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傷跡 4-1
ーーー…
すうっと息を吸って、ゆっくり吐いた。
大丈夫、まだ話せる。
「それで…俺……それから………」
「夕人。もう、いいから。
もう、それ以上、話すなよーーーー」
涙を瞳に溜めて、震えながらも、過去の傷跡を切々と話し続ける夕人の言葉を、速生は遮った。
「つらかった、な…そんなことがあったなんて、知らなかった、ごめん……」
その事件のことを、速生は知っていた。ちょうど半年前に全国ニュースでも流れていたからだ。
世間では、“塾講師が教え子の中学生をナイフで切り付け、その後自殺未遂”、とだけ大々的に報道され、それ以上の詳しい内容は明かされなかった。
被害者の夕人が未成年でまだ義務教育途中の学生だったことで厳しく規制がかかったのだろう。
まさかそんな背景があったなんて、
思いもよらなかった。
ワイドニュースで流れる報道を横目に、“怖いわねぇ”と速生の母は話した。
速生自身も、物騒な事件だと思いつつ……被害者と同い年の自分からしても所詮は他人事で、まったくの無関係な出来事だと、気にも留めていなかった。
実際に事件に巻き込まれた被害者は、こんな風に、苦しんで、追い込まれ,居場所を無くし…
時と共に事件が風化され忘れられても、傷つけられた人の心が、その苦しみから癒える日が来るとは限らない。
(それで………こんなにも、他人 に心を閉ざして。
まるで、怯えるような素振りを見せていたんだな……)
速生は、夕人に初めて会ったあの雪の日の出来事を思い返した。
ーーー“さわんなっ!!”
苦しそうに震える背中に触れようとした時、力いっぱい振り払われた手。
あれは、傷つけられて心まで荒んでしまった夕人の、必死な抵抗だったのだ。
思い出しただけで、胸が締め付けられる。
(そんなことも知らず、俺ーーー……)
「夕人、本当に、ごめんーーーー…」
「なんで、速生が謝るんだよ….?
速生は、何もしてないよ。
あのさ、俺のこと、可哀想とか、思わなくていいから。
俺も、確かにさ…自業自得だったんだよ。そんな簡単に人のこと、信用して。
だからつけ込まれたんだ、きっと、弱みに……」
「そんなわけねぇだろっ!!」
速生の突然の大声に、夕人は肩を震わせた。
「夕人は何も悪くないし、被害者だろ。
“可哀想”だなんて、思ってねぇよ。
悔しいんだ。許せない。自分勝手なやつに傷つけられて、周りに一方的に罵られて…何も悪くない夕人が、未だに苦しんでる。
そんなの、おかしいだろ……」
拳を握りしめて速生はうつむいた。
同情ではない。込み上げてくるこの想いは、怒り、悔しさ……
何もしてあげられない、無力な自分。
「風……、犯人は、精神科に医療措置入院してるって、聞いてる。多分、もう今後、俺の前に現れることはないって……。
けど、怖くて仕方なくて。
退院出来てからも、マンションの前、駅の近く、同じ色の車を見かけるたびに、もしかしたら……って。
……もう、怖くて、学校にも…通えなくなって」
夕人の瞳から,大粒の涙が零れる。
「……それで、ここに来たんだ。
父さんは仕事の部署異動願い出して、マンションも売って、学校も転校ーーー。
父さんと母さんには、俺のせいで……たくさん、迷惑ばかり……。
ーー俺には、きっと、こんな風に誰かと楽しく、幸せに生きて行く資格なんて無いんだーーー」
速生は夕人の言葉にはぁーーーと深いため息をつくと、夕人の手から、渡したハンカチを奪い取った。
「夕人、ちょっとこっち向け!」
そう言って速生は肩を掴むと、無理やり夕人の顔をハンカチでゴシゴシと拭き回した。
「……うっ、…ちょっ…痛いって!ーーなにす…………」
顔を上げて、夕人は驚いた。
涙と鼻水で、顔をぐしゃぐしゃにした速生がいた。
「それ以上……そういう…“自分なんて”みたいなこと話したら、俺……夕人のこと、許さねーからな。
確かにさぁ…辛かったと思うし、大変だったと思うよ。
けど、夕人は……これから幸せになるために、いま、ここにいるんだろ?夕人のおじさんもおばさんも、何よりもそれを望んでるはずだ。
俺は、どんな理由があれ、夕人がこっちに引越してきて、会えて、本当に、良かったと思ってるよ?
それも、否定すんのかよーーーー?」
「そんなこと………」
夕人は鼻を啜って、息を整えた。
「な、何で……お前の方がそんな泣いてんだよ………ほら、顔拭いて………」
そう言って夕人はジャケットの胸ポケットからハンカチを出して、速生に手渡した。
「なんだよ、持ってんのかよハンカチ……せっかく俺ちょっとカッコいいとこ見せたかと思ったのに、クソッ……台無し……うっ、グスッ……」
「何言って……あ、ほら、ティッシュもあるから……ほら。鼻、かむ?」
ティッシュも持ってんのかよ、ちょっとは空気読めよーーー…と思いつつ、速生は夕人の差し出したポケットティッシュを受け取って、鼻周りと顔をゴシゴシと拭いた。
「……なぁ、夕人。家戻ろう?
ここにいても、気休まらないだろ?
いくら知らなかったとはいえ……怖い思いばかりさせて、ほんと悪かったな。
俺、ちゃんと一緒にいるから」
夕人はその言葉に、時計に目をやる。まだ、今からなら、卒業パーティにはなんとか間に合う……。
速生の顔を見て、首を横に振った。
「ダメだよ……せっかく誘ってもらったのに、俺のせいでーーー…。
じゃあ、速生、俺、1人で帰るから。だから行ってーー…」
言いかけた口を、速生の大きな手で塞がれていた。
「それ以上言ったらなぁ……もう、夕人、家まで抱っこかおんぶだぞ。どっちがいい?俺、本気だからな。
お姫様抱っこでもいいぜ?どうする?好きなの選ぶか?」
何言ってんだよ……と思いながら半信半疑で速生の顔を見ると、マジな目をしている。
ーーこいつ、本気だ……これ以上言ったらやりかねない……。
そう思った夕人は、素直に速生の言葉に応じることにした。
心の中で、“俺のせいで、本当にごめん…”と、何度も謝り続けていた。
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