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道標 2-5

速生はその夕人の言葉をただ黙って、聞いている。 「俺は…………」 黒でも、白でも、赤でも青でもない。 決して目立つことはなく、道の隅で、木々や草花に隠れたままただ風に揺れながら、 温かい光を浴びることを待ち続けるーー…… 「じゃあーーーー…」 速生が油絵具に手を伸ばした。 淡い青色の“cobalt blue”、くすんだ赤色の“rose madder”の2つを、パレットに、ほんの少しだけ、絞り出した。 「ーーー…これ、混ぜてみて?」 夕人は速生の言葉に、人差し指で、二つの色を混ぜ広げた。 『シューーーッ』 そして、目の前のカンバスに、指の腹で絵の具の色を入れた。 躊躇うことなく。 「これは、ーーー……|(すみれ)色?」 夕人が問いかけると、速生は静かに笑って、頷いた。 「うん。夕人は、この色だ。 赤でも青でもなく、黒でも白でもない。 目立たないかもしれないけど、だけど、どこか強く、惹かれるーー…そんな色」 夕人は、カンバスの上の絵の具で描いた色の線を眺めた。 何かに似ているーー……頭に浮かんで、小さく呟いた。 「アイオライト…………」 「………アイオ……ライト?」 速生が聞き返すと、夕人は頷いた。 「そういう名前の、宝石があるんだ。 確か……ギリシャ語で、”菫色の石”って意味だったと思うんだけど。 紫に、青がかったーーー、すごく、綺麗な色なんだよ? 画集のカラーコードにも、そんな名前の色があって……」 「へぇ………夕人、さすが物知りだな。 俺なんて、宝石って言われても…ダイヤモンドくらいしか思いつかないのに」 ”確かに速生は、物の色や、宝石なんて興味なさそうだよな”、と言いかけて、ふと思った。 ーーー俺のことを、アイオライトのような色だって………。 ーーー色に対してそんなに知識のないはずの速生が、絵具の混色を一発で言い当てて、 俺に当てはめるように……。 ーーーたまたま、だろうか?それとも。 ーー速生には………速生のその瞳には、俺は、ずっと、そんな風に映っていたんだーーー? とても、不思議な感覚だった。 ずっと迷っていた…わからなかった、自分という人間が、 がんじがらめにされた(つた)を、一本ずつ、優しくほどかれ…… 姿を現したそれを、温めて、撫でて、大切に、大切に………名前を付けるように…… そんなふうに、 やっと、見つけてもらえたーーーー…。 そう思えた。 「ありがとう、速生。 ……なんだか、少し、見えた気がする。おかげで、進められそうだ………この絵」 夕人の言葉に速生はにこっと笑った。 「大丈夫だよ、夕人なら。 ーーー頑張れよ。 ……まっ、どーーしても、またアドバイス欲しい!って言う時は、見にきてやってもいいぜ? この玖賀アドバイザーがな。」 「……はは、急に上からだな」 ふふん、と格好をつけて見せる速生に、夕人は笑って、部室の窓から見える景色に目をやった。 少し前まで夕焼けでオレンジ色に染まっていたグラウンドは薄暗く、いつの間にか運動部員たちも練習を終え帰ってしまったようであたりは静まり返っていた。 「ーー…もう、こんな時間かぁ。 速生、すぐ片付けるから、待っててくれない?」 「ああ、もちろん。 ただ……今から天気が崩れるって、伊勢が言ってたから、ちょっと急いだ方がいいぜ?」 夕人が片付けと帰り支度を済ませ、二人は美術部室を後にした。 職員室で顧問の教師に声をかけ、下駄箱へ向かう。

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