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第56話
気持ちが離れた
ー―もしくは最初から気持ちがない―ー相手に、
彼女は取り乱したりしない。
なんというかきっと、そういう人だと思ってた。
だからその静かな怒りは理解できたし、
だからこそ、その静けさがすごく辛かった。
彼女なりの傷つき方だったから。
「理由は聞かないから言い訳をして」と言われて
頭がこんがらがった。
両者の違いがわからない。
きっとこれは彼女なりに
「オレを責めてる」んだろうと思う。
でも彼女は何も悪くない。
本当にすべてがオレのせいだ。
だからまた、謝った。
もうそれ以外、出来ることがない。
本当にごめんと思いながら、どこか冷静に、
彼女には明日も会社で会うのだ・・・とも思っていた。
しばらくすると彼女が先に席を立った。
無言で。
別れ際が気まずいのは当たり前だろう。
だから彼女の態度はまったく、悪気がないことはわかってる。
最後にもう一度謝ろうとして立ち上がると
睨むようなその子の視線が絡んで「黙ってて」とまた、言われた。
オレは口をつぐむ。
くるりと背を向けると艶のある黒い髪が揺れて、
それを黙って見つめる。
彼女が消えるとオレは確実にホッとする。
しばらくして携帯を出すと
―終わった―
とメッセージした。
もちろん、蓮ちゃんに。
その一言だけでぜんぶ伝わるだろうと思った。
するとすぐに既読になって、すぐに電話が鳴る。
『もしもし』
『お疲れ』
蓮ちゃんの「お疲れ」がどういう意味だろうと思って、
なんだか笑った。
蓮ちゃんの声にさっきまで感じてた重い空気が一瞬で消える。
『お疲れ』
仕事がって意味でそう言った。
『俺はまだ』
『急いでないよ』
これは本当のことだった。
相手は10年以上片思いをしていた男で、
おまけにエリートと言われる部類の男。
そんな蓮ちゃんがオレのせいで、
普通の一線を越えようとしているのだ。
だから決心はいつだっていい。
だってその一線は大したことだ。
大ごとなのだ。
オレですらそうだった。
『杏野いまどこ?』
『会社の近く。もう帰る。 蓮ちゃんはまだ仕事でしょ?』
『ああ。もう少し』
『がんばって』
『ん』
短い会話でも、もう完全に全身が蓮ちゃんで埋まる。
彼女にとって残酷なことに、
オレの中のもうどこにも、
彼女のことを考える場所が残っていなかった。
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