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朝の挨拶
ろくに顔も合わさず、まともに言葉を交わすこともなく、結婚してから2週間が過ぎた。
直生と会話はせいぜい、朝の挨拶と帰りの挨拶くらいしかしない。
直生は律儀なのか、総治郎がどんなに遅く帰ってきても、必ず起きてきては玄関までやって来て、「おかえりなさい」と告げてくる。
総治郎が「無理して起きなくてもいい」と何度言ってもやめない。
直生が起きてくるそのたびに、総治郎は直生を部屋まで連れ戻した。
直生には自室を与えていて、ときどき部屋の様子を見てはみるものの、物が増えた様子は見当たらない。
──いったい、何を買っているんだろう
さすがに何も買ってないなんてことはないだろうと、少々気にはなったものの、金は好きに使わせようと決めた手前、詮索するのは野暮に思えた。
午前7時半。
コンコン、と部屋のドアを軽くノックする音が聞こえた。
「…うん」
寝ぼけ眼を擦りながら、総治郎は上体を起こした。
「総治郎さん、おはようございます」
直生がゆっくりとドアを開ける。
すでに、髪は整えられていて、着替えも終わっている。
「ああ…おはよう」
総治郎は軽く伸びをして、直生に挨拶を返した。
直生は毎朝、総治郎より先に起きてきて、朝の挨拶をしてくる。
「総治郎さん、朝食どうしましょう?召し上がりますか?」
そして、直生は毎朝こんなことを聞いてくる。
「……いや、今日もどこかの店で何か買って、食べてから仕事に行くから…」
そして、総治郎は毎朝こんな返事をする。
「そうですか」
「ああ、だから、寝てなさい。早起きなんか、しなくてもいいんだぞ?」
「ええ…わかりました」
ドアがゆっくり閉じられて、直生が廊下を歩く後が聞こえてきた。
それもどんどん小さくなって、少し向こうでドアの閉まる音が音がした。
おそらく、自室に戻っていったのだろう。
──起きるか…
本当は昼くらいまで寝ていたかったが、働いていないことを直生には言っていないので、建前としては嫌でも起きて家を出ていかざるを得ない。
直生のことを嫌っているわけではないが、日中ずっと一緒にいるのだけは避けたかった。
だから、一応は働いているという体 をとっている。
──まるで、リストラされたサラリーマンだな
いつか見たテレビに出てきた、仕事を辞めたことを家族に言えず、昼間の公園で過ごしているというサラリーマンを思い出す。
実を言うと、総治郎もときどき、昼間の公園で過ごすことが多々あった。
朝早くから家を出たところで、開いている喫茶店やレストランなどない。
だから午前中は、近辺にあるコンビニで買ったものを車の中で食べて、劇場や美術館、博物館が開くまで、公園や車の中で読書なんかして過ごす。
その間はほんの少しではあるけれど、やはり人目が気になる。
職にもよるだろうが、午前9時を越えて外で時間を潰しているスーツ姿の中年男など、失職したか、仕事をサボっているサラリーマンのようにしか見えない気がする。
本来ならラフな格好で出歩くこともできるが、「仕事がある」という建前から、総治郎はいつもスーツを着て出ていく。
それがまた、人から見たらみっともなく見えるのではないかと感じて、総治郎は落ち着かなかった。
──この生活、あと何年続くんだろう…
重たい体を引きずるように、総治郎はベッドから下りた。
さっさと髪を整えてスーツに着替えると、そそくさと玄関まで走って靴を履く。
──今度は「海外出張が入った」とか言って、3日くらい家を空けてみるか…
「あの、総治郎さん」
足を靴に突っ込んだ瞬間に、直生に呼び止められた。
「どうした?」
このタイミングで、いったい何の用であろうか。
「今日も遅いんですか?」
「ああ、そうだな。だから、迎えも要らないぞ。今夜は寝ていなさい」
このやりとりも、いったい何度目であろうか。
「そうですか、あの、今日から10日後なんですけど…」
「10日後?その日に何かあるのか?」
はて、何があったかと記憶をたどってみるも、なかなか思い出せない。
「はい、ですので…その、お忙しいのは承知の上でお願いしたいんですけれど、その日は、なるだけ早く帰ってきてくださいませんか?」
遠慮がちには言うものの、直生が初めて何らかの要求をしてきたことに、総治郎は驚いた。
「わかった。そうだな、夜の8時から9時くらいにはなんとか帰ってみる。それで、その日は何があるんだ?」
総治郎はスーツの内ポケットから手帳を取り出すと、10日後に「早く帰ること」とメモした。
幸い、その日には何の予定もない。
問題なく帰れそうではある。
「あ、あの、当日にお話する…って形でも構いませんか?」
直生は顔を赤らめた。
「ん、ああ…わかった。じゃあ、行ってくる」
そんな直生の様子を不思議に思いながら手帳をしまうと、総治郎は立ち上がって玄関ドアを開けた。
「いってらっしゃいませ」
直生が手を振って見送る。
そのときにはすでにいつもと変わらない様子だったので、総治郎は直生が赤面した理由を大して深く考えなかった。
──今日はA美術館まで行って、物販も見て、その次はB博物館に行くか
今日の予定を頭の中で組み立てて、総治郎はセダンを走らせた。
ずっと楽しみしていた画家の展示会が、ようやく開催されたということもあって、心が踊っていた。
それだけに、10日後に何があるかなど、このときはまるで考えていなかった。
──そういえば、10日後に話って、いったい何だろうか
そんな疑問が浮かんだのは、美術館巡りと博物館巡りを終えた19時ごろだった。
ショルダープレスのグリップを持ち上げては下ろす。
それを繰り返しながら、今朝の直生の要求について、総治郎は考えた。
──ひょっとして、「他の人と結婚するから別れてくれ」とかだろうか
それなら、ある程度は合点がいく。
総治郎が不在のうちに、誰かしらと関係が発展して恋仲になる可能性などいくらでもある。
直生が赤面した理由は、その相手のとの今後を考えてのことかもしれない。
そうとなれば、そんな重大な話、玄関でさらっと言えるようなことではない。
だから当日に話すという形にしたのだろう。
それに、花比良家の最大の目的である「家の再建」は完了しつつあった。
従業員の給与やガタが出はじめた建物全体の修繕などの費用は、すべて総治郎が負担した。
加えて、総治郎が知り合いのコンサルタントを紹介し、その助言に従ったところ、徐々に客も増えてきたと花比良夫妻から報告を受けた。
直生は、財政が傾きかけた家のために結婚した。
しかし、その家の財政を盛り返した今、わざわざ総治郎と一緒にいる理由はない。
家の再建が終わり、誰かほかにいい相手を見つけたなら、さっさと離婚してその相手と添い遂げたいと言うのが道理であろう。
──なるほど、それなら大歓迎だ。別れ際には「幸せになってくれ」と胸を張って言ってやろう
総治郎はグリップを握り直して、トレーニングを続けた。
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